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9回ウラ2アウトランナーなし、その時サラリーマンは何を思ったか

作者: 渚 孝人

「次はきっと、俺の番だ。」


男は言いようのない焦りに襲われていた。2020年に世界を直撃したコロナウイルスによるパンデミックは、深刻な不況を引き起こしていた。彼の働く下町の小さな会社も例外ではなく、周りでは同僚が一人、また一人とクビを言い渡されて姿を消していた。


35歳、独身。大学を卒業して以降彼はその会社のために全てを捧げてきた。残業は当たり前、休日返上で働くこともあった。なぜそんなに頑張るのか?これといった特技を持たない彼にとって、真面目さは唯一の取りえだった。真面目に頑張ることで、その会社に必要とされている、それが彼の承認欲求を満たす手段だった。それはいわば、彼にとっての命綱であった。


しかし、今年に入って何かが変わってしまった。

同僚たちが姿を消していく中で、彼の心には、「失敗できない」という強烈なプレッシャーがかかった。不思議なことに、人間というのは失敗できないと思えば思うほど失敗をしてしまうものだ。彼はつまらないミスを繰り返し、意地の悪い部長はそのたびにカンカンになって彼を怒鳴りつけた。


そして今日、部長に呼び出された彼は信じられない言葉を耳にした。

「今年に入ってからの君のふがいない働きぶりには呆れる事しか出来ないよ。」

「す、すみません…。」

部長はニヤリと笑みを浮かべ、

「知っての通り今年はとんでもない不況だ。うちだけじゃなくてどこの会社でも大量のリストラが行われている。実はね、社長からうちの部署でも、人員を減らすように言われてるんだよ。」と言った。

「それってまさか…。」

「君にとっては大変ラッキーなことに、それは今日ではない。だが、次に何かしでかした時は、まあどうなるかよく考えてみる事だな。」

彼は呆然として立ち尽くすことしか出来なかった。



その日の帰り、駅のプラットフォームで待っていると、頭上のスピーカーからアナウンスが流れた。

「間もなく、急行が通過します。黄色い線の内側までお下がりください。」


その時、彼は自分の心拍数が跳ね上がるのを感じた。

「いまだ。飛び込んでしまえ。そうすればもう、苦しまなくて済む。」

彼の頭の中で誰かがそう言った。


一歩、二歩。

彼の脚は自然に前に進んでいた。

遠くの方からフルスピードで走る電車の轟音が聞こえてくる。

「あともう少しだ。もう少しで楽になれるぞ。」

頭の中で誰かが言う。


その時だった。

彼は何者かに左腕をひっぱられた。

はっとして振り返ると、女子高生が彼のスーツの袖をつかんでいた。

轟音と共に電車が通り過ぎる。

その間、彼は呆然としながら、その女の子を見つめていた。


電車が通り過ぎると女子高生は彼の袖を離し、

「おじさん、大丈夫?まさか死のうとしてたんじゃ、ないよね?」と言った。

彼はようやく正気にかえって、

「いや、まさか。ちょっと飲みすぎたみたいだ。どうもありがとう。」と答えた。

女子高生は、「なら、いいんだけど。」と言ってスマホへ視線をうつした。

電車に乗り込むと、彼は倒れこむように腰を下ろし、そのまま眠り込んでしまった。



気が付くと、彼は野球場にいた。

それも観戦しているのではない。バッターボックスに立っているのだ。ヘルメットをかぶり、金属バットを持って。

周りを見渡すと、満員の大観衆が彼を取り囲んでいた。

敵チームの選手は守備位置につき、彼がバットを構えるのを待っている。

ピッチャーはマウンドから彼を見下ろしている。マスクをしているから、顔はよく見えない。


俺はなぜこんな所にいるのだろう、と彼は思った。

彼は野球を観るのは好きだが、野球をしたことはない。

ましてやこんな大観衆の前で、プロのピッチャーが投げる球なんて、バットに当てられる訳がなかった。

彼は審判にタイムをかけたかった。

自分がここにいるのは何かの間違いで、本当は観客席にいるべき人間なのだと。


しかし振り返ると、審判は怖い顔をして彼にバットを構えるように言った。

話が通じる雰囲気はなかった。

当たり前だ。こんなに多くの人たちの前で、試合を投げ出すことなんて出来るわけがない。


スコアボードを見ると、どうやら彼のチームは2対1で負けているようだ。

回は9回のウラ、2アウト、ランナーなし。

つまり、彼が打てなければ、その時点でゲームセットだ。


こんなの無理だ、出来っこない。

彼はそう知りながらも、バットを構えた。


ピッチャーはワインドアップモーションで、振りかぶった。

彼は必死に目を凝らして、ボールを見極めようとした。


ズドン。


それは一瞬の出来事だった。

まるで弾丸のようなボールがキャッチャーミットのど真ん中へ収まり、審判は高らかにストライクを叫んだ。


早すぎる。こんなの打てっこない。

満員の大観衆からはため息が漏れる。

人々が落胆しているのを感じて、彼の胃はきりきりと痛んだ。

ピッチャーは余裕を持って、ロージンバッグをぽんぽんと握っている。

2球目、またしても振りかぶった瞬間だった。


ズドン。


またど真ん中だ。

きっとこのピッチャーは彼がど素人であることを知っているのだ、と彼は思った。

審判が2ストライクを宣告する。

観客はブーイングを始め、あちこちからヤジが聞こえる。

試合が終わったことを確信し、帰り始める客も見える。


もうおしまいだ、と彼は思った。

俺が打てる確率はゼロ、まったくのゼロだ。

俺は次に来る球を空振りして、この人生という名の試合を終えるのだ。

思えばさっきの駅のホームで終わっていてもおかしくなかった。

この夢はきっと、俺に試合終了を伝えようとしているのだろう。


しかし、諦めてバットを構えようとした時、何かが彼の頭を叩いた。

何だこの違和感は、と彼は思う。

彼はバッターボックスを一度はずして、改めて周りを眺めた。


マスクだ、と彼は思った。

コロナ渦だから、観客がマスクをしているのは分かる。

でも、なぜ敵チームの選手までマスクをしているのだ?


彼は左手をあげて、一旦審判に試合を止めるように言う。

審判は怖い顔をして彼をにらんでいたが、やがて諦めたのか、彼の言う通りにした。


彼は口に手を当てて、マウンドにいるピッチャーに向けて叫んだ。

「マスクを、外してもらえませんか?」


ピッチャーはぼんやりと彼を見つめていた。

まるで彼の言っていることが、理解出来ないとでもいうように。

しかし、彼が繰り返し叫んでマスクを外すジェスチャーをすると、彼はやがて渋々とグローブを外して地面に置いた。


その男がゆっくりとマスクを外した時、彼は驚きのあまり声を出すことが出来ない。

ピッチャーは、その男は、彼にそっくりだった。

いや違う。と彼は思った。

こいつは俺にそっくりなだけじゃない。こいつは、間違いなく俺自身だ。


彼はすぐに状況を理解することが出来ない。

何故敵のピッチャーが、俺なんだ?

心拍数が跳ね上がり、アドレナリンが体中を駆け巡るのが分かる。


やがて、彼はふいに全てを理解する。

そうか、そうだったのか。

自分はずっと気づいていなかったのだ。

自分の最大の敵は、自分であったということに。


彼はずっと敵は別にいると思っていた。

会社で彼を責め立てる部長、不況に何の手も打てない政府、コロナウイルス。

でもそれは違ったのだ。

最大の敵は、彼の中に住む、どうしようもないエゴだったのだ。


自分は優秀でなければいけない、良い成績を残し続けなければならないという彼の中のエゴが、全ての不安や恐怖、焦りの源だったのだ。


彼は、体中の力が抜けていくのを感じる。

彼はバットを置き、ヘルメットを脱いだ。

審判は怒り、満員の大観衆からは容赦のないブーイングが飛んだが、彼はもう一切気にしなかった。

みなさんには申し訳ないけど、と彼は思った。

俺が最後のバッターでなくてはならない、何てルールはないみたいだ。

俺の代わりには誰かがきっと打席に入ってくれるはず。

彼はゆっくりと、球場を後にした。



気が付くと、彼は自宅の玄関に倒れこんで眠っていた。

電車からどうやって帰ったのか、記憶にない。

彼はふらふらと立ち上がり、リビングに入るとスーツを脱いで椅子にかけた。


彼はしばらくソファーで呆然と座り込んでいたが、やがて思い出したように立ち上がると、冷蔵庫を開けてビールの缶を取り出した。


プシュ、という気持ちのいい音が部屋に響く。


彼はまたソファーに座り、リモコンのスイッチを押した。

ちょうど、ナイターをやっている所だった。

彼はビールをごくりと飲み、その美味しさに思わず声を出した。


これからどんな人生になったって、今の会社をクビになったって、いいじゃないか、と彼は思った。

だって生きてさえいれば、こうしてナイターを見ながら、ビールを飲めるのだから。

彼は天井を見上げて、ふっと微笑んだ。

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