9話 困惑《パズル》
――翌朝。
薫と貴騎の活躍でジュリアは塔の支配を取り戻した。曰く、塔の発現を事前に検知し、自らの工房に接続したのだという。そこに運悪く愚者が現れ、あの黒い巨塔ができることになった。愚者を失いジュリアの制御下に入った塔は本来想定された10階建て程度の大きさに収まっていた。
薫は自らの部屋で朝を迎える。ただ夜中に帰っただけだと言うのに、自分のベッドにひどく懐かしさを感じていた。何かが恋しくて、怖くて、掛け布団を必死に抱きしめていた。薫の変身は解けていた。しかし、その身体は完全には戻らなかった。年齢と肌の色はもどったが、肉付きは丸く、骨盤が広く、肩幅は狭く、大凡女性のそれだった。
貴騎は床で寝ていた。結局ラグでは床が固く寝づらかったのか、壁を背に座りながら眠っていた。
あの夜、昏睡から目を覚ましたとき、自分の身体の変化に気づき、到底言い表せない喪失感に苛まれ、家に送り届け去ろうとする貴騎の手をただ無言で握りしめていた。薫にはわからないが、その時の表情は相当な悲愴感が漂っていたのだろう。貴騎もただ、「わかった」とだけ言って、薫の部屋に泊まることになった。
「おはよう、貴騎」
自らの喉から発せられる女声に違和感を覚えながらも、変身時を思い出しながら自分を誤魔化す。
「おはよう、起きたか」
眠りが浅かったのか、起きていたのか、貴騎は直ぐに返事を返した。そして、眼鏡を直しながら、薫を見る。薫はTシャツを着ているにも関わらず、布団を抱きしめ、胸元を隠していた。
「ご主人……」
猫は心配そうに見つめることしかできない。昨日の夜から言葉を交わせずにいた。
ジュリアと春風曰く、儀式礼装を媒介して先代の魔法少女と魂が共鳴し、肉体にまで影響を及ぼしたという。猫は精霊の知識によってそれを十分に理解していた。だからこそ、罪悪感に苛まれていた。
部屋に漂う空気は重く、外の鳩の鳴き声がはっきりと聞こえるほどに静かだ。
「これじゃお通夜だよ……」
沈黙を破ったのは薫だった。
「心配かけてごめん。もう大丈夫だから、とりあえず、朝ごはん食べよ?食パンも卵も確かあったはず」
気持ちの整理はつかない。それでも、昨日ほどの絶望感はない。今の困惑をそっと横に置いて、薫は笑顔を作り、キッチンに向かう。
「薫」
貴騎は呼び止める。薫は振り返る。
「それは、大丈夫ではない」
その一言を聞いた時、薫は笑顔のまま涙を零れさせた。
「あれ……ダメだなぁ、ホント」
薫は手で雫を拭う。
「大丈夫じゃなくても、朝ごはんは食べないと」
そう言うと、パンをトースターにしかけて、冷蔵庫から卵を取り出し、器で解き始める。それを見て貴騎は立ち上がるが、薫はその気配に振り返り、なだめるように両手を出して座るように促す。
「ここは僕の家で貴騎はゲストだから、任せて任せて」
そして、料理を再開する。溶き卵に牛乳を入れると、フライパンで焼き始める。スクランブルエッグを作りながら、いつもの癖で左足に体重をかけて、右足で左脛を触る。毛の感触の無いすべすべの素肌を感じる。フライパンに視線を落とすと慎ましくも胸の膨らみが気になる。料理の手を止めずに、確かめるように違和感を受け入れ続ける。心の困惑を埋め合わせていく。
「お待たせ」
薫はそういうと、小さな机に二人分のトーストとスクランブルエッグの皿を置く。そして、冷蔵庫に戻り、魚肉ソーセージを取り出した。薫は猫に歩み寄り、視線を合わせる。
「食べよ?」
「ご主人……」
猫は薫と目を合わせながら、依然として罪悪感に苛まれた表情をしていた。しかし、一度俯き、顔を上げるといつもの笑顔になる。
「その肉棒を早くよこすっす!」
そう言って、飛びかかって魚肉ソーセージを薫の手から奪っていく。いつの間にか薫には猫の表情がわかるようになっていた。