7話 呪文《スペル》
倒れた道化を前に、貴騎は剣を牡牛に構えて警戒を続ける。
「春風、これは倒したのか!?」
「わかりません。塔の一部のように感じられるため、魔力状態の計測が困難です」
戦いは一瞬の出来事に感じられた。薫は貴騎の戦う姿を見て、心配しながらも一つの想いに囚われていた。
――自らの戦う姿とは。
薫は自らの姿を思い返す。魔法少女となった薫はその文字通りの少女だった。そして、それは借り物の姿であり、もはや変わることのできない姿だ。借り物の業を思い出す。この姿でかつて戦った先代の魔法少女は、アルカナの獣を清らかな水で浄化していったのだ。なぜこのような業に思い至ったのか。なぜ、どんな想いで、彼女は戦ったのか。自分が思い描くべき戦う姿はどんなものなのか。何を想い戦うのか。疑問は止まない。
――貴騎の思い描く戦う姿は騎士だった。
それは何かを護るための戦いだった。安全にこの戦いを終わらせる。被害を出さない、誰かを傷つけない。皆の盾でありたいという想いがその根底にはあったはずだ。薫の知る貴騎という男はそういう人物だった。
――何を成したいのか。
静かに自分に問う。装束に宿る少女の記憶に問う。浄化。癒し。水。
――僕は、助けたい。
装束の想いが流れ込む。水のように形を変え、水のように傍にあり、水のように誰かを潤したい。それが魔法少女としてたどり着いた答えだった。進むべき方向が見えた時、道も自ずと見えてくる。薫は新たな呪文を自らの中に紡ぎ出す。
「その子はまだ、解き放たれていない。任せて、僕が助けてあげる」
薫はそう言って道化に向けて歩き始める。
「ご主人……」
猫は心構えが変わったことを感じ取り、心配そうに薫を見る。
「キキキキ……」
次の瞬間、道化は全身から炎を吹き出しながら、起き上がる。貴騎は咄嗟に道化に対して切っ先を突き入れるが、その熱気に怯み狙いが外れる。鎧の金属が熱せられ、瞬時に高温に達する。貴騎は思わず後ろに何度か飛び退き、距離を取った。その横を薫が歩いて通り過ぎる。
『癒しの水を』
貴騎の軽度の火傷が完治し、鎧の温度が冷める。
「薫!」
貴騎は叫んだ。
「大丈夫だよ。一緒に行こう!」
薫は答えた。
「何にでもなれるけど、何者にもなれなかった者の愚者がその乾いた怒りを炎とするなら、僕の、水を司る杯の魔法少女の役目はそれに潤いを与えて鎮めてあげることなんだ」
『灼けつく炎を鎮めて、水の覆布』
呪文を唱えると、薄く揺らめく水膜が薫を覆う。その水膜は貴騎にも被せられた。
「ギギギ……」
炎の道化は最早笑い声とは呼べない枯れた声を出して、カードに代わって火球を投げる。薫は投げつけられた火球一つ一つに杯を向けて『癒しの水』をかけていく。『癒しの水』を受けた火球は炎の煌きを失って煙となって消えていく。薫はさらに攻撃が苛烈になる前に走り出した。それに追いつくように貴騎も走り出す。
道化は一つの大きな火球を作り出し、薫に向かって投げつけた。
「任せろ!」
貴騎はそう叫んで、薫の前に乗り出し、大火球を縦に両断する。薫は勢いを失った火球の欠片を『癒しの水』で鎮める。もう間合いだった。少し歩み寄れば手の届くところに燃え盛る愚者がいる。しかし、あの悪魔と対峙した時のような水源はここにはない。いや、杯の魔法少女は思い出していた。塔を渦巻く雷雲を、風の剣に断たれた竜雲を。薫は愚者と真正面に対峙して、窓から雲を呼び込む。何かを感じ取った愚者が薫に襲いかかるも、貴騎がそれを止める。
「……」
貴騎は言葉を語ることなく、これが役割なのだと理解して愚者と切り結ぶ。ただ、いくら斬りつけようとも、切り口から炎が噴き出すばかりで、愚者に傷を与えている手応えが無い。貴騎はただ信じて待つしかなかった。
薫は渦巻く雲を集めて、杯を満たしていく。貴騎と愚者が打ちあっているうちにそれは満杯となった。薫は呪文を紡ぐ。
『杯を満たして、聖杯秘儀……』
それは始まりの呪文。そして、終わりの呪文。それは手紙の封蝋を剥ぎ取るように、激情を剥ぎ心を解く魔法。
『封印剥離!』
杯から放たれたそれは、水と呼べるものではなく、雨上がりを告げる天の架け橋、虹色の光の粒だった。それはハートを形作り、燃え盛る道化を打ち据える。
光の波に呑まれた道化は徐々に炎が消え、不気味な笑顔の仮面が剥がれる。道化は安らかな笑顔を作り、同じ光の粒となって消えていった。光の奔流が止んだとき、そこには愚者のカードがあった。薫はそれに歩み寄り、カードを手にする。
「やったっすよ、ご主人!」
猫も駆け寄り、犬のように薫の周りをぴょんぴょんと跳ねまわる。
「愚者の消失を確認。お疲れさまでした」
春風は貴騎の肩に留まり、二人を労う。
「これが、魔法少女の役割なのだな」
貴騎はそう言って薫を見る。薫が愚者のカードを取り込むと、手首の装飾が宝石をちりばめたものに変わり、そのまま気を失うように倒れる。
「薫!」
貴騎は咄嗟に抱き留める。
「ご主人!」
猫は心配そうに見上げる。悪魔を倒したときのように変身が解けない。
「そんな、ご主人!やっぱりさっきの呪文は先代の……」
「薫に何があったんだ?」
貴騎は薫の様子を見ながら、猫に問いかける。
「ご主人は儀式礼装に眠る先代の記憶を引き出しすぎたっす……。今はきっと先代の記憶を追想してるっす。それもかなり深いレベルで、っす……」
猫は顔を伏せる。
「こうなったら、目が覚めることを祈るしかないっす」
貴騎は薫を抱きかかえたまま、何も言わずにその顔を覗き込んだ。苦しむでもなく安らかに彼女は眠っていた。