11話 名前《ネーム》
名前。薫はシャワーを浴びながら猫の名前を考えていた。古い記憶、彼女の前任者はバストと名前をつけられていた。あの追想の間、それがエジプトの神様であることを理解できていた。
「バスト二世」
ダメだ。ここでそれをつけたら最低だと思う。今度は猫の言葉を思い出し、自らの人生を追想する。
――九年前。薫は小学生だった。学校終わりに貴騎と遊んだあとの帰り道。夕暮れの空の下、貴騎と自転車を押しながら歩いていた。信号のない住宅街の十字路、薫は貴騎と別れ、遊具もない小さな公園で中学生らしき人たちが猫を取り囲んでいた。
「どうしよう?」「俺の家はペット禁止」「わたしもダメ。小学校の頃怒られた」「うーん」
黒い子猫は泥だらけだった。生まれてどれほどなのか、それは薫にはわからなかった。ただそれはとても小さかった。怯えているのか、口を開き威嚇しているようにも見える。しかし、体が動かないようで、逃げることもなくその場でただ立ち尽くしていた。
「どうしたんですか?」
薫は気が付くと声をかけていた。中学生曰く、この公園で疲れ切った子猫を発見し、近くに同じく黒い大人の猫の死体があったという。
「僕が連れて帰るよ」
薫は考えもなくそう言っていた。猫を抱き上げると手が泥だらけになる。猫は必死に抵抗した。爪が皮膚に突き刺さり、痛みを感じる。しかしそれも力なく、大きな傷にはならない。薫は自転車の籠に猫を乗せる。猫は怯えた様子で籠の中におとなしく収まる。跳び上がる体力と勇気がないのだ。薫は夕暮れ色の空の下、黒い子猫を連れて家路についた。
「猫は飼えません。この家に上げることも許しません。返してきなさい」
ありきたりな結末だった。子供が捨て猫を拾って親に拒否される。よくある光景がここでも再現された。玄関先に猫を置くとそのまま待たせて家に入る。猫は動く体力もなかった。ただされるがままに怯えながら待つしかなかった。
しばらくした後、薫はお湯を張りタオルを浸した風呂桶と水を入れた深めの紙皿を持って来た。
「ごめんね、ちょっとだけ我慢してね」
薫はそう言って、猫の泥を拭き取ってやる。猫は必死に抵抗するが、それも虚しく全身の泥が落とされたいった。そして、器の水を目の前にして、それをぺろぺろと飲んでいく。
「あとこれもどうぞ」
薫は一本のちくわを一口サイズにちぎって掌に乗せる。子猫は一度警戒するも、それを食べ始めた。どんどんと飲み込んでいく子猫のペースにちくわをちぎる手が追い付かず、子猫自らちくわにとびかかった。それほどまでに回復していた。
「よかった。元気になった」
子猫がちくわを食べ終えると、薫はまた自転車の籠に載せる。猫は抵抗しなかった。すっかり日が暮れ、暗い道を自転車で走る。猫はただ前を向いていた。ほどなくして先ほど、出会った公園に到着した。薫はそこにもう一度猫を放つ。
「ごめんね、お母さんがうちで暮らすのはだめだってさ」
薫はしゃがみ、猫に語り掛ける。猫はじっと薫を見つめていた。
「名前ももう考えてたんだけどなぁ」
そのとき猫が一つ鳴いて、視線を避けた。
「そうか、他人から名前を貰うなんていやだよね。この名前は僕が猫を飼った時にとっておくよ」
薫は立ち上がる。
「それじゃあ、行くよ。また、今度遊べたら、ね」
手を振って、猫から離れる。猫は追いかけることはなかった。自転車にまたがったとき、猫の鳴き声が聞こえる。薫が振り返ると、そこに猫はいなかった。それは猫の別れの言葉だったのかもしれない。
「じゃあね!また遊びに来るよ!」
月明りの下、薫は自転車を走らせる。その後一週間、薫は毎日この公園を訪れた。しかし、その猫の姿を見ることはなかった。
――シャワーの音が耳に入る。薫は心の中で猫に語り掛ける。
「ねぇ、聞こえる?」
「ご主人!?念話できるようになったっすか!?」
頭の中に猫の驚きの声が響く。
「ううん、なんかできる気がして。やっぱりできたね」
「なんすか、ご主人?背中は流せないっすよ?」
薫は表情に笑顔を滲ませながらくすりと笑う。
「ううん、名前。子供の頃から決めてた名前を思い出したんだ」
「え!?早く、早く教えるっす!」
興奮気味の猫の声が薫の言葉に対して食い気味に響く。
「七海」
薫は短く答えた。
「七海、七海っすね!なんかすごい長い間待った気がするっす!七海っす!!」
猫は噛みしめるように名前を反芻する。ユニットバスの外からは何かをひっかく音が聞こえる。
「こら!爪を研がないで!!……これからよろしくね、七海」
「こちらこそよろしくっす、ご主人!」




