黒い髪のアナスタシア〜主婦だって勇者になりたいスピンオフ〜
やはり教会になど入るのではなかった。
礼拝堂に並ぶ長椅子の一つに隠れながら、俺は後悔していた。
「隠れていないで、もっと私にその美しい髪の毛を愛でさせてくださいよ」
気色の悪い事を言いながら、銀色の髪と灰色の瞳の司祭は、きっと祭壇で微笑んでいる。
死んでもゴメンだ。
いや、死ぬ訳にはいかない。
俺にはやる事がある。
その為に『勇者』になったのだから。
司祭のいるであろう方角から、眩い光の弾丸が飛んで来る。
それは俺の隠れる長椅子を掠め、目の前の椅子を木っ端微塵にした。
手の中の小さなナイフでは太刀打ちできそうもない。
次弾に備え、俺は足に力を込めた。
やはり、次に命中したのは俺の隠れていた長椅子だ。
俺は隣の椅子に跳ぶ。
跳んだ先にまた、光が落ちる。
何とか避けたが、次の攻撃を受ければ隠れる場所はない。
俺の考えはバレバレなんだろう。
あいつは猫が小動物をからかうように、俺を弄んでいる。
それなら、もう向かって行くしかない。
俺は椅子の陰から飛び出す。
司祭にナイフを思い切り投げつけた。
それはあっけなく司祭の持つ金属製の杖に叩き落とされる。
想定内だ。
全速力で距離を詰め、俺は拳を司祭の顔に目がけて叩きつけた。
筈だった。
拳はいとも簡単に掌で止められている。
「ようやく姿を見せてくれましたね」
司祭は艶然と微笑んだ。
ヤバい。
俺の身体は杖を持った腕に抱き竦められた。
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『勇者』と認定されてから丸一日、俺は森に沿って歩いていた。
武器がない。
それは何よりも俺の士気を下げていた。
手元にあるのは食料と少しの薬草と回復薬、そして『勇者』の徴『破魔の剣』。
剣?
そんなのは名ばかりだ。
掌に収まる大きさの筒の中に、何に使うのかも分からない玉が三つ。
一つには黒い靄が閉じ込められ、後の二つは無色透明だ。
これで何をどうすれば剣になるのやら。
王様も少しで良いから説明してくれ。
もしくは説明書でも入れておいてくれ。
こんな物を渡されて、日の出と共に王都を放り出されて、どうやって『魔王』を斃せと言うんだ。
『勇者』認定試験の際に自前の剣を折ってしまったのが、今更ながら悔やまれる。
途方に暮れていた俺の眼前に、古びた教会が現れた。
俺が触れる前に開かれた扉から、銀色の髪と灰色の瞳の司祭が顔を覗かせる。
「何かご用ですか?」
その時に気づけば良かった。
奴の目が人間のものではない事に。
俺は今、武器を持っていない。
それが、本来なら増すべき注意力を鈍らせていた。
教会は、神々の谷という名の宗教団体の祈りの場だ。
神々の谷は、魔物を殲滅するために有志が集った組織が元となっているらしい。
それが今や信仰の対象となり、信徒を次々と増やしていた。
当然、教会には武装した神々の谷の人間が出入りする。
つまりここには武器がある。
そう思ったのが運の尽きだ。
祭壇の奥にある小部屋に案内され、荷物を降ろして一息吐いた俺に、司祭は毛布を手渡した。
有り難く受け取って荷物の脇に置こうとした俺に、奴が言う。
「綺麗な黒い髪ですね。異国の方ですか?」
俺は眉を顰めた。
確かに俺の髪は黒い。そして長い。
黒い髪がこの国では珍しい存在だと認識はしていた。
後ろで一つに縛っているから普段は気にしていなかったが、やはり目に留まるのだろうか。
ただ、男に綺麗と言われても嬉しくない。
むしろ気色悪い。
その上、俺は自分の出自を知らなかった。
異国の者かと聞かれても答えようがない。
俺が曖昧に頷くと、司祭はあろう事か手を伸ばして髪に触ろうとした。
俺は思わず身を引く。
「おっと、失礼。あまりに美しい髪だったので、つい」
つい、で触られるなんて、たまったものではない。
「そこまで綺麗に伸ばすのは、何か願を掛けていらっしゃるからですか」
「いや、別に」
お前に教えてやる義理はない。
「重ねて失礼を。いや、私は美しい黒髪を見ると居ても立ってもいられなくなる質でして」
そこでようやく気付いた。
奴の瞳孔が縦に長い事に。
魔物だ。
どうして教会に、など愚問だ。
ここは森に寄り添うように建っているのだから。
使われなくなった教会が森から来た魔物の棲処になっていたとしても、何の不思議もなかった。
俺は動揺を悟られないように荷を解くフリをしながら、武器になりそうなものを探す。
あるのは食事用のナイフくらいだ。
何もないよりマシか。
ナイフを握ると、振り向きざまその首筋に切りつける。
しかしそれは難なく躱された。
「これは物騒ですね」
奴は眉一つ動かさない。
それ程、自分の腕に自信があるという事か。
「黙れ魔物。大人しく斃されろ」
俺は舌打ちしながら司祭に切りかかった。
ナイフは悉く躱される。
だが、ジリジリと壁際まで追い詰めた。
逃げ場がなくなればこちらのものだ。
俺は甘かった。
司祭は左手を伸ばす。
その先にあったのは、儀式に使うような、先端に繊細な細工をあしらった金属製の杖だった。
俺は臍を噛む。
もっと周囲に気を配るべきだった。
俺は杖がある方へ誘導されていたんだ。
杖から眩い光が放たれる。
次の瞬間、俺の身体は後ろに吹き飛ばされた。
背中が壁にぶつかり、一瞬息が止まる。
辛うじて倒れ込まずに済んだ俺に、奴は悠然と歩み寄った。
「覚えていますか。昔、こうして手合わせした事。懐かしいですね」
何を言っている?
俺はこいつに会った覚えもなければ、ここに来た事もない。
「あなたの剣技は素晴らしかった。その美しい髪を舞わせながらの身のこなし、また私に見せてください」
杖が再び光を帯びた。
俺は身を翻す。
ドアを体当たりで開けると、祭壇から礼拝堂へ飛び降りた。
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「ああ、ようやくこの髪に触例る事ができた」
耳元で響く恍惚としたその声に、全身が粟立つ。
「アナスタシア、やっと私の元に戻って来てくれたのですね」
誰の事だ?
俺はそんな名前じゃない。
その腕から逃れようと必死でもがくが、魔物の力は人間の比ではない。
捕らえられたら絶望的だ。
司祭は俺の髪をその手に絡ませる。
気持ち悪い、離せ!
肺が締め付けられ、声を出す事もできなかった。
髪が引かれ、奴の灰色に濁った双眸が俺を見つめる。
「愛しいアナスタシア。私にあなたの髪をもっと愛でさせてください」
うっとり囁くその目に、俺は映っていない。
恐らく初めから、こいつは俺の事なんか見てはいなかったのだろう。
この男は、俺の髪に誰かを重ねているだけだ。
俺はその事実に少し冷静になる。
状況は変わらない。
でも一つ、思い出した事があった。
『破魔の剣』が腰に下げた袋に入っている。
何の説明もなかったが、『勇者』の徴として王様が持たせたものだ。
魔物を前に、今使わないでいつ使うと言うのか。
袋には辛うじて手が届いた。
中をまさぐると、筒が指に触れる。
俺はそれを握り締めた。
剣なら剣として仕事をしろ。
この魔物の腕を簡単にぶった斬れるような、鋭い刃となれ!
髪に夢中の魔物は、俺を締め付ける腕の力を弱めていた。
この機を逃す訳には行かない。
身体を下に沈める。
筒を持つ手を振るった。
その手に剣を握っていると思い描いて。
確かな手応えと共に、俺の髪ごと奴の腕が切り落とされる。
髪と一緒に血がそこらに散らばった。
奴はそれを見て息を飲む。
「アナスタシア、大切な髪に何という事を!」
自分の腕より人の髪が大事か。
理解できない。
そして俺はあんたの愛しい人じゃない。
「俺はアナスタシアじゃない」
司祭は怪訝な表情を浮かべた。
「俺の名はメトロ。『勇者』メトロだ」
長い髪のなくなった頭が軽い。
師に憧れて、裏切られた後はその屈辱を忘れないために伸ばしていた髪だ。
しかし、髪のためにこんな所で殺される訳にはいかない。
『魔王』である師に会って、一発お見舞いするまでは死ねないのだから。
「髪が欲しいならくれてやる。だが命まではやれない」
しばらく俺をぼんやり見ていた奴は、我に帰ったのか一度瞳を閉じる。
そして、笑みと共に再びその目を開いた。
「これは失礼。黒く長い髪を見ると、つい昔の想い人と重ねて我を忘れてしまうのです」
司祭は杖を脇に置き、落ちた腕を拾い上げる。
「私も元は神々の谷に属していました」
おもむろに腕を元あった位置に付けると、白い光がそれを包んだ。
光が収まった頃には、何も起きなかったかのように腕が繋がっている。
「この教会が谷の管轄を外れた際、私はそのままここに残りました。私の想い人ともここで別れてしまいましてね」
奴は、俺に昔話を聞かせながら回復を終えてしまった。
小さな傷を治すならともかく、落とした腕を一瞬でくっつけるなど並大抵ではない。
腕を斬り落とされても騒がなかった訳だ。
対する俺は魔法など使えない。
司祭の魔力が尽きるまで、こちらに有効打は皆無だった。
「私はここで待ち続けるのです。いつかアナスタシアが帰って来るのを」
魔物に成り果てた奴の元へアナスタシアが戻る事は、恐らくないだろう。
しかし先程までの流れで、俺に同情心など湧く筈もなかった。
ここで斃しておかなくては、俺みたいに気色悪い目に遭って、命を落とす者も出るかも知れない。
いや、相手は魔物だ。
放っておいては絶対に死者が出る。
俺は剣を構えた。
魔力が尽きない限り回復できるなら、魔力が尽きるまで攻撃を続けるしかない。
体力の消耗は気力で補えば良い。
奴が杖を拾い上げると同時に、俺は剣を振りかぶった。
金属同士がぶつかる鋭い音。
剣は杖に弾き返される。
何度も、様々な角度から打ち込んだ。
一度も当たらない。
奴は一歩もその場を動いていないというのに。
攻撃の手を緩める訳にはいかない。
更に手数を増やす。
増やした筈だ。
それでも、何も変わらない。
舌打ちしたい気持ちを抑えながら、大上段から斬りつける。
閃光。
しまった。
俺はまともに光の弾丸を食らい、長椅子を巻き込みながら教会の入り口辺りまで吹き飛ばされた。
呻き声が自分の口から漏れる。
起き上がるどころか、呼吸さえまともにできない。
瓦礫を踏みつけながら、奴が近づく音が聞こえた。
何とか顔を上げると、奴は哀れむように俺を見る。
「あなたの剣捌きは、まるで舞踏を見ているようです。とても美しい」
どこかで聞いたセリフだ。
つい昨日、体格の良い試験官が同じ事を言っていた。
俺の剣を折った奴だ。
あいつが馬鹿力だったからだ。
そのせいで俺は今窮地にいる。
あいつが剣さえ折らなければ、俺はこの教会になど立ち寄らず、こんな目に遭う事もなかったのに。
『勇者』にあるまじき思考だと自分でも思う。
こんな所で魔物にやられるなら、『魔王』の元になど辿り着ける筈もない。
それは単に自分の実力不足だ。
分かっていても、あの試験官を恨まずにはいられなかった。
司祭は、灰色の双眸で俺を見つめる。
「誰かを想いながら、剣を手に踊っているのですか?」
ああ、そうだ。
ずっと追っていた。
俺の師である彼の背中を。
彼の動きを真似て、彼ならどう動くか考えながら闘って来た。
彼が目標だったから。
彼が『魔王』であると知るまでは。
いや、知ってからも俺は憧れ続けた。
彼の優美で繊細で、それでいて力強い闘い方に。
それは俺にはそぐわないと、あの試験官は言っていた。
俺には俺の闘い方があるのではないかと。
それを、目の前のこいつにまで諭された気がした。
愛する人への執着を続けた末に、人間でなくなってしまった元人間に。
このまま変われなければ、俺は死ぬ。
それだけはごめんだった。
目を閉じる。
一つ呼吸をして、目を開いた。
目の前の魔物に礼を言う。
「ありがとう。お陰で目が覚めた」
痛む身体を引きずって立ち上がった。
煙のように消えかけていた剣を、再び形にする。
「それは何よりです。教会は、悩める者を救うためにあるのですから」
奴から聖職者らしい言葉を初めて聞いた。
俺は思わず笑みを浮かべる。
「そうだな、俺はお前に救われた。次は俺の番だ」
構えは取らなかった。
剣を無駄に振り回す必要はない。
ただそれを一番効果的な場所へ的確に持って行くだけだ。
一歩踏み出せば事足りる。
魔物の心臓目がけて、俺は剣を持つ手を伸ばした。
魔物は目を見開く。
その胸に剣が突き立てられていた。
魔力が剣を伝って掌の中に吸い込まれて行く。
正確に言うと、掌にある筒に入った玉の中に。
ようやく理解した。
『破魔の剣』の使い方を。
斃した魔物から魔力を奪い取り、次の魔物を斃すために使う。
形に囚われないのは、『勇者』によって得意とする戦術が違うから。
俺の場合は剣だったが、別に槍だろうがお玉だろうが構わないのだ。
魔物を斃せさえすれば。
俺は剣を抜いた。
司祭が床に膝をつく。
焦点の合わない灰色の目で俺を見た奴は、何故か微笑んだ。
「お帰りなさい、アナスタシア」
こちらに手を差し伸べようとして、そのまま前のめりに倒れる。
もう事切れているだろう。
確かめもせず、俺は踵を返した。
武器は手の中にある。
この教会に、もう用はない。
近くに町や村はあるだろうか。
このざんばら髪をどうにかしたい。
何より、一刻も早く立ち去りたかった。
得るものがあったとは言え、怖気がつく思いをしたこの場所から。
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俺が『勇者』になって幾ばくか経った頃だ。
とある町で、一人の女性に会った。
昔は黒々とした髪が良く似合っていたと言う、白髪の女性だ。
俺が泊まった宿の主人の母親で、自身もまだまだ現役だと精力的に働くのが印象的だった。
名前をアナスタシアという。
彼女が切り盛りする宿の酒屋で一人飲んでいると、近くの席から会話が聞こえた。
「そういや、森の近くの廃教会の話、知ってるか?」
「おうよ、あそこに行くと髪の毛むしり取られるって怪談だろ」
「お前にはむしり取られる髪がないから大丈夫だなあ」
そこに、アナスタシアが加わる。
「それ、あたしが昔使ってた教会だよ」
「ああ、アンナさん結婚前は神々の谷で活躍した戦士だったんだよな」
「あの教会にいたのかい」
「まあね、あんまり良い思い出はないけど」
「何だい何だい、聞かせておくれよ」
アナスタシアは、少し逡巡するそぶりを見せてから口を開く。
「いやね、あたしを好いてくれた男がいたんだけどさ。どうもあたしの髪に惹かれたみたいで、髪の話ばっかりしてたんだ。それで、気色悪くて振ってやったんだよね。もしかしたら、そいつが人の髪を毟る魔物になったのかも知れないよ」
客は笑う。
「神々の谷だけに、髪にご執心ってか」
「ガハハハ」
アナスタシアも一緒に笑っている。
神々の谷に属していた人間が魔物になろうとは、露ほども考えていないようだった。
「冗談はともかく、あの人はあの後幸せになれたのかねえ」
「アンナさんは優しいな、振った男の心配なんてして」
「だって、不幸になってたらこっちの寝覚めが悪いだろう」
「まあ、そうだな」
「ガハハハ」
俺は勘定をお願いした。
このアナスタシアが、あの魔物が愛したアナスタシアと同じかどうかは分からない。
ただ、心の隅に引っかかっていた小さな棘が、少し肉をえぐられて取れた気がした。
「真実がどうであれ、彼にとっては幸せな最期だったと思う」
呟いてから、俺は酒屋を出る。
後ろから誰何の声がしたが、俺は振り返らなかった。
あの教会に花でも手向けに行ってやろうか。
いや、やっぱりやめておこう。
思い出したら全身が粟立った。
もう一生あそこには行くまい。
魔物はもういないから、『勇者』がそこに行く必要もないのだし。