狐と神様
──かみさま
──かみさま、どうか
──私に■を助ける力をください──
小さな小さな狐は、その時から神の使いになった。
***
その山は古来より不可侵の山として地元の人間に知られている。
その山の神は大層な人間嫌いであり、一度山に入ろうものなら多くの災厄をもたらすとされている。
そんな神を鎮めようと山と人里の境界に造られた祠には、山の神と人とを繋げる狐の御神体がある。
「……こら、もっと私を構え!」
「五月蠅いですよ、集中させてください」
山の奥深く、人間が未だ立ち入れぬ場所に白い髪の男と黒い髪の女がいた。
男は切れ長の目に金の色を宿し、麗々とした面立ちをしている。体つきは男性らしくしなやかながらもがっしりとしているのが、白い着物の上からでも見て取れる。白い髪は背の中ほどまであり、陽光を受けてキラキラと輝いた。
女は可愛らしいぱっちりとした琥珀の瞳を不機嫌に染めていて、背丈ほどもある長い髪を指で弄くっている。服装は襦袢のような薄い着物のみで、男のように宮仕えに似た服装をしているわけでも履き物を履いているわけでもない。
「私はお前の母だぞ、蔑ろにするな!」
「貴女の腹から産まれた覚えはありません」
「山腹で産まれたなら私が母も同然でしょう! なんたって、私はこの山の神なのだから!」
ふふん、と女は胸を張る。それに一瞥をくれもせず、男は神気を練るために目を閉じた。
女は山の神である。もう憶えていない程昔から存在し、山に立ち入ろうとする人間から山を護り続けている。彼女への畏怖と信仰がそうさせたのか、それとも昔からそうなのか、山の神は人間の姿をしている。人間が嫌いな山の神は、そのことを大層嫌っていた。
男は山の神の使い、狐である。まだ野狐であった頃から白い見た目をしている。山の神に神気を分け与えてもらってからは、この姿のままだ。
二人は、人間にとってはそこそこ昔と言える年月を共に過ごしている。
「むー。もっと構えと言っているのに!」
「五月蠅いですよと言っています。静かにしてください」
仲はそれほど悪くはない。
***
男はまだただの狐だった頃、両親とはぐれて人里に迷い込んでしまったことがある。
人に見つかっては追いかけ回され、逃げる内に帰り道を見失い。やっと人里から離れてみれば、そこは見知らぬ森の奥。不安に思った子ぎつねはキュウキュウと二度三度鳴き、すっかり薄暗くなった森をさまよった。
『ああ、此処にいた』
『今助けるから』
『さあ、早く帰ろう』
人間の姿をした、しかし人間とはかけ離れた存在感を持つ山の神が途方に暮れた子ぎつねの前に現れた。
彼女はわざわざ子ぎつねのためにここまでやって来たのだという。自分の山から離れ、隣の山の神に無断でその山に入った彼女は後日、彼女の山の一部を他の神によって焼かれてしまった。
そのことを知った子ぎつねは、力をつけたら必ず恩返しをしようと誓ったのだ。
神気を貯めるのには信仰と畏れが要る。そして、神気は何かを成すために必要なものである。焼けた土地を再生させることにも、何かの願いを叶えることにも必要なのだ。
だからこそ、その神気を消費するようなことには対価が発生する。人間の願いを叶えるのであれば、人間から対価を貰うといったように。
しかし、焼けた土地だって余程の神気がなければすぐ再生するわけじゃない。だというのに、この山の神はすぐに再生させてしまったのだ。
神気がなければ山の神は死ぬ。そうすれば山は緩やかに死んでいくというのに。
(……だから私が代わりに神気を貯めているというのに)
自由奔放に構え、構えと。自分の命を気にすることもせず。
(神の使いになってみれば、周囲の山に比べて驚くほどに少ない神気に驚いてしまった)
周囲の山々は潤沢な神気を貯えて、神の使いを沢山抱えているという。同じ頃に生まれている筈の山なのに、何故こうも違うのかと嘆いたのは五つ向こうの老いた山。
……こんなにも違っている理由はわからなくもない。
この山の神は人間をとても嫌っている。一度立ち入らば、少ない神気の一部を消費してまで天罰を与える始末。畏怖によって多少は還元されども、このままではあまりの消費の早さに神気が尽きるのが先になる。
もしくは、人に味方する神に殺されるのが先か。
(そうならぬためにも、神気を練り集めているというのに!)
男は山の神の代わりに人間に働きかけて祠を造らせたり、信仰を集めるために山近くの土地を実り良くしたりとそれなりに働いている。おかげで、少なくなっていた神気も徐々に増えてきた。
「全く、あの御方は……」
「呼んだ?」
「っ」
気配なく山の神が忍び寄り、思わず独り言を呟きかけた男の背後から声をかける。思考に浸っていた意識が驚いて真っ白になった。
「驚かせるのはおよしなさい」
「驚かせたつもりはないんだけど。ね、何を呟いてたの?」
「……どうして貴女は神気を貯めようとなさらないのか、と」
何度もした話に、山の神は顔をしかめる。そんな顔をされたって明確な答えをもらうまで何度でも聞く気なのだ。
顰めっ面で黙りこくってから、山の神はいつもと同じように答えた。
「人間が嫌いだから」
「生まれた時から人間に嫌なことをされた記憶はないのでしょう。なのに、何故」
ふいっとそっぽを向いて、山の神はぎゅうっと男を抱きしめた。男は戸惑い、驚いて耳と尻尾が出てしまう。
「嫌いなものは嫌い」
ぽつりと呟く山の神に、男は形のいい眉尻を下げた。
***
人に追いかけ回され、隣の山に入った子ぎつねはそこで別の人間に見つかった。
弓で射られ、掠めた矢に恐れおののき奥へ奥へと逃げた子ぎつねは、その先が崖とも知らずに茂みを飛び越えた。
即死は免れたものの、そのままではどちらにせよ死んでしまう程の重傷を負った。子ぎつねが親からはぐれた一部始終を、山の神はずっと見ていた。
人間は嫌いだ。私の愛しい子たちを戯れに殺す。
人間は嫌いだ。私の慈しんだものを戯れに壊す。
人間は嫌いだ。私の可愛い子たちを戯れに穢す。
また、人間によって私の山の子が死ぬのか。
何がどうであろうと、あの子が死にゆくのはあの子を追い詰めた人間のせいだ。
山の神は、人間への怒りをそのままに隣の山へと押し入った。
神気を多く使って子ぎつねの傷を癒し、そのまま自分の山へと帰った。隣の山の神には侵入したことや傷を癒したことで大層怒られたが、それ以上に自分は人間に対して怒っていたのだ。
狐に、あの時の記憶はほぼない。せいぜいが迷った後、無事山に帰った。その程度だろう。
その後自分の使いになったのは予想外だったけれど、長らく共に過ごせるならそれもいいと思っている。ただ、人間に構っているのを見るのは複雑だ。
ああ、また私を無視してる。私のために色々なことをしてくれるのは嬉しいけれど、私はもっと構ってほしい。どちらにせよ神気なんて、“わざわざ人間から集めなくとも貯まるものなのだから”。
「私を構えー!」
「五月蠅いですよ、主様──」
***
──かみさま
──かみさま、どうか
──私に山を助ける力をください
それは、山の神にとっては熱烈な愛の誓いに等しい言葉。遠い昔の、始まりの言葉。
その時から狐に恋をした人間嫌いの神様と、神様のために日々働く狐のお話。




