どうやら僕は、生きる事自体が無理なようです
目の前は薄暗い天井が存在していた。カタカタと静かな音が聞こえる。ゴミ山と同じ鉄と油の臭いが鼻に付く。
まるでデジャヴだ。
「いたっ」
体を起こそうとすると、体中に激しい激痛が走る。頭から腰から胸から体中がとにかく痛かった。
「お前、倒れるのが趣味なのか?」
聞き覚えのある声に僕は体が痛まないようにゆっくりと起こそうとする。
薄暗い部屋、ベッドの下には地べたに座りながらノート型モバイル端末を使って空中にたくさんの画面を出してキーボードを叩いている少年がいた。
ボサボサに伸びた全く整っていない髪、鉄錆と油守れになって汚れた感じの少年…
「ミハイル?」
以前、僕を拾ってくれた子が、同じようにそこにいた。
確か名をミハイルと言っていた。
もしかしてこれは死に戻りという奴?
ついに僕も物語の主人公に……
そんな妄想を頭の中で広げつつも、体中の激しい痛みが過去にさかのぼったとかそういう不思議現象が起こった訳では無いと理解する。
世の中は理不尽だ。
「アンダーカジノに行く途中、何だか死体みたいのが落ちてたから何かと思えば、その前拾った人間だったからビックリしたぜ。何でまだここにいるんだよ」
ミハイルはモバイル端末の上に浮かんでいる半透明のモニタ画面を閉じて、僕へと視線を向ける。ダークブラウンの瞳にはかなり呆れたような色があった。
「いや、まあ、その……銀行に入ろうとした時にエールダンジェは武器だから持ち込んじゃダメだって銀行を案内してくれた子に言われてさ。それで中に入る間だけ持っててもらおうと思ったら…その……盗まれちゃって」
「…ここまで見事に引っ掛かるバカはこのスラムにいないだろうな。アホなのか?」
ミハイルは大きく溜息を吐く。
とはいえ、僕は言い返せる言葉を持っていなかった。
「もうやだよ……。何で僕ばっかり。うううううう」
何もかも嫌になってきた。僕は何も悪く無いのに、何でこんな酷い目に合わなければならないんだ。
「学校ではいつも理不尽にいじめられるし!」
「ウエストガーデンは火事になっちゃうし!」
「お父さんもお母さんも死んじゃうし!」
「カイトは悪い人達と一緒に何処か行っちゃうし!」
「お腹へったし!」
「お父さんに買って貰ったエールダンジェは盗まれちゃうし!」
「盗んだ連中にいじめられて!」
「こんな暗くて汚い街はもう嫌だよ。何で僕ばっかりこんな思いをしないといけないんだよぉ。うううう、うえええええええぇぇ」
出てくる言葉は泣き言ばかり。
もう何もかも放り投げてしまいたい。何を喋っても涙が流れて嗚咽しか出てこない。
いっそ、あのテロ事件の時に誰かが僕を殺してくれればよかったのに。何でこんな辛い思いを僕ばかりしないといけないんだ。
いつだってそうだ。
『生きろ』
お父さんが最期に残した言葉が、まるで呪いのように胸に突き刺さる。
鼻を啜り、僕は泣くのを我慢しようとするのだが、もう決壊した感情は一切止めることが出来なかった。
生きろと言われても、何をすれば良いのか分からないよ。どうすれば良いの、お父さん?
昔から、分からない事があればモバイル端末で何でもできたけど、ここではモバイル端末がムーンネットに繋がらないから何も出来ない。
「ピーピーうっせえ!」
かつてない頭の中に響くような衝撃が僕の脳天を貫いた。
僕を怒鳴りつけたミハイルは、右手にエールダンジェ用の長いスパナを握っていた。
「す、スパナ!?」
ミハイルの右手にある鈍器は、明らかに僕の脳天の痛みの原因だった。そのスパナは武器じゃないよ!?
「男がピーピー泣いてるんじゃねえ」
ミハイルは僕の鼻先にスパナを突き付けて怒鳴りつけてくる。
「で、でも…」
「でも、じゃねえ!テメエ、いい加減にしないとチ●コもぎ取るぞ、コラ!」
「ぴぎぃ」
ミハイルの恐ろしい脅しに僕は屈するしかできなかった。この調子だと本当にやりかねないので必死に黙る。
「それより、お前、さっき妙な事を口にしていたな。ウエストガーデンが火事になったって」
ミハイルは油に汚れた赤茶けた髪の奥から、燃えるような濃い茶色の瞳を鋭く僕へ向けてくる。
あまりに真剣な目で見るので、僕は息を飲んで涙も引っ込んでしまう。
「う、うん」
「その話、もう少し詳しく聞かせろ」
「う、うん。分かった……んだけど………。もう限界。お腹減った…。あれから何も食べてないんだよぉ」
グキュルルルルルルルル
僕のお腹が悲鳴を上げるように大きい音を立てる。
「何て面倒くさい奴だ……」
ミハイルは僕を見て呆れるように大きい溜息を吐く。
***
ミハイルはベーグルを1つくれたので、僕はそれをむさぼるように食べる。
人生の中でこんなに固くてまずいパンを食べた事が無かった。だけどこんなに食べ物を欲した事も無かった。
「はうう、食べたぁ」
ほうっと息を吐く。あとはこのまま眠りたい所だけど。
「で、さっさと話せ。ウエストガーデンが火事になったってくだりだよ。どういう事だ」
イライラしたようにミハイルは僕に尋ねてくる。右手に持っているブラブラと揺れるスパナが怖い。
「ええと……僕も良く分からないんだけど緊急避難警報があって、空に穴が開いて、でっかい戦艦がビームをばんばん撃ってきて…」
「……テロか!?」
「てろ?」
「ミハイロワ孤児院はどうなってんだよ!」
「そ、そんな事言われても知らないよぉ」
ミハイルは僕の襟首掴んでブンブンと振り回す。目が回りそうだ。
とはいえ、僕が分からないと知るや、ポイッと捨てる。何て自己中なんだ。いや、別にもっと振り回して欲しいとかそういう積もりはないけどさ。
「あ~、役に立たなすぎ。くそ、ここはムーンネットに繋がってねえんだよな」
ミハイルはガリガリと頭を乱暴に搔いて悪態を吐く。
「あ、ミハイルもやっぱりネットが繋がってない事には困ってたんだ」
「仕方ねえ。あの店に行くか。まだこっちの貸しは残ってる筈だしな」
ミハイルはチッと露骨に舌打ちをして、部屋の中に広げてある荷物をバッグに詰め込む。
「あ、あの…」
「いいや、おまえもついでに来い。運が良かったら帰れるかもな」
「ホント!?」
「だから運が良かったらだよ。おまえの運のよさがどれほどかなんて俺はしらねえし」
「…」
ここ最近、気づいた事だけど、僕はどうやら凄く運が悪い気がする。
ミハイルの口振りからすると、帰れない確率の方が高そうだ。期待しないでついていこう。
もう何にも期待なんてしないもん。
***
大きなカバンを脇に抱えたミハイルは、ずんずんと先に進む。
どこに行くのか教えてもらおうと僕が後ろから話しかけてみるが、完全に無視されてしまうので、諦めてその後ろをついて行く事にする。
フィロソフィアの地下スラムでも商店街付近は賑やかで、途中で通過した時計台には315年5月3日9:15という日付と時間が示されていた。
地獄のような誕生日から既に2日が経っている事を示していた。
ミハイルは何もしゃべってくれないし、2人で無言のまま歩くのも何だか気持ち悪いので、何かしら興味のありそうな話を振ってみる事にする。
「ねえ、ミハイル。ミハイルって飛行技師で生活してるんでしょ?でも機体も持ってないのにどうやって稼ぐの?」
「あん?飛行技師は別に機体を弄るのだけが仕事じゃねえよ?」
スパナをブンと振り威嚇する様に僕を半眼で見る。
「そりゃ、知ってるけど。っていうか、スパナは凶器じゃないんだから、振り回すのは辞めようよ…」
というか、まだスパナで殴られた頭が痛いんだけど?まさか頭蓋骨が折れてなかろうか?散々乱暴にされて体中が居たいんだけど、今一番痛いのは君に殴られたスパナによる攻撃だからね?
とはいえ、乱暴で口は悪いし、凄くぶっきら棒だけど、何だかんだと世話を焼いてくれる。
食事もくれたし、2度も倒れている所を拾ってくれたのだ。
エールダンジェを簡単に持ち去ってしまう子がいると言うのに、ミハイルは僕のエールダンジェをとったりしなかった。
同郷だという話だし、少なくとも悪い子じゃ無さそうだ。
「他に殴れるものなんて持ってないし」
「…」
物騒な事を言うミハイルに僕は自信がなくなってくる。
悪い子じゃないよね?
ちょっとの沈黙が流れたものの、僕は気を取り直して質問を続ける。
「ミハイルって僕と同年代……だよね?大人にお仕事なんて任せてもらえるの?」
「機体なんて渡したらそのままパクる奴がいるのに、渡せる訳が無いだろ?そんなアホ飛行士がいたら仕事なんて請けねえよ」
お前はアホなの?と言わんばかりにミハイルは僕をみる。
身を持って体験した僕としては耳が痛い。この土地はこういう場所だとしか言いようがない。
「機体に触れさせて貰えないから、飛行士に売り込みをかけて、オプションデータを作って売るんだ。向こうも迂闊に機体を渡したり、データを全部書き換えさせたりは絶対にしないからな。敵の回し者かと思われるし。だから、向こうが使うか使わないかを選択可能なデータを売るんだよ」
「なるほど、データを売るのかぁ」
「ここは誰も信用できねえんだ。大体、中層ならともかく、下層は犯罪者の吹き溜だぞ。誰一人信用できねえよ」
「そうかなぁ。僕はミハイルを信用できると思うけど」
少なくともミハイルは泥棒もしないし、僕を二度も助けてくれた。ウエストガーデンの基準でもかなりのお節介焼きだと思う。
「なっ……そ、そんな事を言ってるから、テメエは何もかも失って放り出されてるんじゃねえか」
「ううう」
ミハイルはプイッとそっぽ向いてしまう。僕としては反論の余地が無かったけど、僕はミハイルの耳が赤くなって照れて口汚くなっているのを見逃さなかった。
「オプションデータっていくら位で売ってるの?ここじゃ、ちゃんとした仕事にはならないと思うけど」
「単純な話だ。ムーンネットにはつながってないけど、フィロソフィアのローカルネットにはアクセスできるんだよ。そこからアンダーカジノの記録を抜き出して、相手の課題や目標を読み取って、新しい技術ができるような新プログラムを作る。で、プログラムを確認してもらって、問題なければ金とプログラムを交換する。勝利給も請求してんだけど、勝利給を支払われたことは無いな」
「何で?」
約束を守るのは普通じゃないのかな?
いや、そもそもこの街ってそこらへん、どうなってるの?嘘つきはおまわりさんに怒られちゃうよ?
「適当に言い訳をされて支払いを拒絶される。それに突っぱねられて無理やり金をせびるほど腕力がある訳でもないし、ここは半分くらい犯罪者だけの掃きだめだから、訴える事もできねえよ」
「それは、凄く汚い」
何だろう、お巡りさんはここにいないのだろうか?
……まあ、いないだろうね。ウエストガーデンだったら暴力があれば警備ロボが駆けつける。
「つーか、まともな契約なんてこっちじゃ存在しないんだからしゃーねーだろ。向こうも敵のスパイかもしれない奴に情報を簡単に流せない。本当は担当メカニックになって、もっと上を目指してえんだけど、ここじゃそれが精一杯だな」
ミハイルは少し自棄になった口調で舌打ちをする。
「…」
「とはいえ、何人もの飛行士の情報やその為の対応を飛行技師として経験を積める。いろんな長短をもつ飛行士の担当になった積もりでたくさんの事を知る事もきっとプラスになってる筈だ」
ミハイルはニッと白い歯を見せて笑う。
「……ミハイルは何でそこまでして飛行技師やってるの?」
「プロだよ。本物のトッププロになるためだ。俺みたいな孤児はエールダンジェなんて買ってもらえない。飛行士志望ならスカイリンクに行って、レンタルショップでエールダンジェを借りたり、VRやシミュレータで練習する事も出来るだろう。でも飛行技師は現物の機体と飛行士がいないと練習さえできない。違うか?」
「でも、勉強すれば良いじゃん。技術的な事とか」
エールダンジェの飛行技師は頭の良い人達ばかりだ。
誰も彼もが有名な大学を出ている。むしろクラブチームが有名な工業学校を経営していたりするケースまである。それほど飛行技師は知能を必要とされている。
カイトも学校では図抜けた天才だった。
頭の悪い僕にはちょっと関わりの無い世界だとは思うけど。
「お前はアホか?そんなありきたりでプロになれるかよ」
「えー、でも、皆勉強してるじゃん。メカニック候補生って、学生の段階から、クラブチームが経営するエールダンジェ専門の学科がある付属学校を受験するって位だし」
例えば月には学校を経営しているエアリアルレースのクラブがあって、その学校で自社に所属する若い飛行技師を教育するというのは良くある話だ。子供を引き抜くのは禁止されているけど、留学先のクラブに所属するのは問題ないという理論である。
「確かに勉強は大事だろうけど、それは誰もがやっている事だろう」
「ん?…まあ、確かに」
多くの飛行技師達は全員がその手の学校の出身だ。だから優秀な飛行技師になるには、その手の学校に通うのは当然だろう。
「飛行技師は30代以降にピークが来るといわれてる。何でかって聞けばそれは経験値だ。現場じゃないと学べないものがあるんだから、現場に行くのが一番良いに決まっている」
ミハイルは視線を上へ向ける。それはまるで更なる高みを見るかのように。
「でも、学生だって飛行技師として経験積むじゃん」
「ばっか、お前。名門クラブに所属したら、専属飛行技師じゃなくて、飛行技師達のパシリしかしねえじゃん」
「パシリって…」
言われてみれば、名門エアリアルレースクラブの飛行技師というのはチームで動く。選手の相棒となる専属飛行技師にはたくさんの部下がいる。専属飛行技師になるまでの道のりは果てしなく厳しい。多くの専属の部下から実力を示して、専属に選ばれなければならないのだ。会社員が社長になるまでピラミッド構造を登っていく必要がある世界だと聞く。
「自分が強くなる為には何が必要かも分からないのに、皆が身に付けるお勧めの勉強を頭に詰め込んで、何の意味があるんだよ。それを覚えたって、隣で勉強している奴と並ぶだけじゃねえか。俺はそんな有象無象で終わりたくなんかねえ。もっと高みへ行くんだ」
ミハイルは空に手を伸ばしギュウッと握り締める。
僕はミハイルから強力な熱量を感じる。カイトも同じものを持っていた。
「ミハイルももしかしてグラチャンに勝ちたいとか夢を持ってる人?」
「飛行技師の王の名前を俺の名前に塗り替える」
飛行技師の王
年間グレードS全制覇を3度も達成し、飛行技師の概念そのものを変えたといわれる偉大な飛行技師である。彼の名前はエリック・シルベストルというフランス人だ。若い頃に月にわたり、3つの月のクラブでそれぞれ偉業を成し遂げている。
元々、エアリアルレースは飛行士だけで、飛行技師は担当が1人だけという規定が存在し無かったらしい。
彼はたくさんの仲間を指揮して、組織と人数という物量で通常の調整の域をはるかに超えた機体の変更をやってのけ、飛行士の実力を倍にも3倍にも伸ばしたのだ。
あまりにそれが強すぎたので、専属飛行技師以外はレース場の調整所に入る事を禁じられたのだ。無論、調整所の外で大掛かりに調整をして、飛行技師が飛行士に取り付けるだけという形になったりと、屁理屈に屁理屈を重ねるような事になり、専属飛行技師が飛行士の待機する調整所で作業をし、その外には作業所が作られた。
ハッキリ言えば飛行技師王というのは、エアリアルレースの概念そのものを変えた人物ともいえる。
かつて飛行技師は飛行士のお飾りだったのだが、飛行士と並び立つものへと押し上げたのが彼なのである。
それを超えるってのはどれだけ凄い事なのか理解しているのだろうか?もう、飛行士が飛行技師の付属物にでもならない限り越えられないのではないのだろうか?
唖然とする僕に、ミハイルはニッと笑って、右手に持つスパナで自分の肩を叩く。
「ウエストガーデンじゃお勉強とクラブ活動だ。皆がやってる事だろう。でもここは本気のレースを10歳になる前に体験できる。レベルだって機体はしょぼくても高校生の全国に出るような実力者だっている。確かに食っていくのは厳しいけど、年齢制限なんて関係なく大人と戦える。俺は優れた頭は持ってないから、天才達と『用意どん』で、横並びでスタートして勝てる筈もねえ。だから俺はここに来たんだ」
僕はカイト以上にスケールの高い事を口にして、本当に実践している人を初めて見た気がする。そして、あまりにもその姿が眩しかった。
一人の人間に素直に憧れを抱いたのは、この時が人生で初めての事だったかもしれない。
そんな中、僕達はカジノのある街並をあるいていると、ふとミハイルは足を止める。
「おい、お前、名前を何て言ったっけ?」
ミハイルは空中に張り出されている試合予定表を見ながら、僕に名前を尋ねてくる。
「レンだよ。レナード・アスター」
「………何で、お前の名前が再来週の試合予定に張り出されてんだ?」
「?」
ミハイルの問いに僕は首をかしげながらアンダーカジノで行われるエアリアルレースの予定表を見上げる。
『マリウス・カルマン VS レナード・アスター』
僕からエールダンジェを盗んだ青髪の男の顔写真と僕の個人証明用写真が試合予定表に貼り付けてあった。
「な、何じゃ、こりゃーっ!」
なぜか僕がこの都市の賭博試合に出る事になっていた。
エールダンジェというよりはあの殺し合いみたいな、エールダンジェを付けて殺し合うような賭博試合だ。
お父さん、どうやら僕は、生きる事自体が無理なようです。