次回、最終回なのだろうか?俺達の戦いはこれからだって感じでレース前に終わるのではなかろうか?
静かな月の朝。
月面の上に存在する居住区は静かに一日の始まりを迎える。
まだ空の天蓋の映像が薄暗い。
俺、レナード・アスターはというと、今日も今日とて朝のバイトに行くついでにランニングをしていた。
ムーンレイク工科大オープンで再びの失態をしてしまい、個人でスポンサーを掴むことが困難になっていた。もっと前なら、最年少選手としての売りがあったのだが、最近はその売りがなくなってしまった。後期中学3年生ともなると、下の世代に数人はプロライセンスを持つ子供がいて、俺よりも若くしてレースに出るケースは見かけるようになっていた。
そろそろオファーをくれている3部のユースチームにでも入った方が高いレベルでやり続けられるのでは無いかという気がしてきた。
無論、リラと一緒では無いので却下だが。
11月初旬に行なわれた4節のレースが締め切られてから約一ヶ月が経ち、12月末に行なわれる6節の締め切りも打ち切られてしまった。お陰様で来年1月までレースに出られない状況が決定する。
プロのレースに出られないならば、中学のレースに出る事も真剣に検討してみてもいいかもしれない。もう中学最終学年だ。
どうしたものかと考えているが、高校受験を控えている今となってはどうしようもない。
俺のバイト先はバーミリオン運輸ウエストガーデン支店で、仕事は主に荷物の振り分けをする。
本来ならばこの手の仕事に人力は要らない。
ウエストガーデンは元々貧富の差が激しく街構造が複雑だったらしいのだが、10年前のスラム大火や5年前のテロ事件によって町構造が更に複雑になり、インフラが微妙に機能していない場所が転々と存在している。
その対応の為にどうしても人力を使うケースがでていた。
無論、AI内蔵したロボットにやらせれば良いのだが、これも5年前に壊れてしまい、頻繁に壊されてしまった為に立て直しに時間が掛かってるらしい。
俺達の住むムーンランド州に本社があり、太陽系全般的に展開している輸送会社なので大企業と言って良い筈だが、意外と世知辛いらしい。
俺は重い荷物をエールダンジェの重力制御装置によって持ち上げトラックに運ぶ。
いつものように荷物を運んで仕事をしていると、支店長さんも荷物を隣で運んでいた。今日はちょっと荷物が多めだったから、結構急がしそうだった。
支店長さんはどこにでもいる中年女性で、少しだけふくよか。普通、管理職は機械に仕事を分配するのだが、自分が動いている辺り、今日は特別なのだろう。忙しい忙しいと呟いているから。
ちなみに支店長さんは強化服を私服の下につけているようで、靴とスカートの間や首元に強化服が見える。
せっせと仕事をしている中、店長さんはポツリと何事も無く口にする。
「そうそう、レン君。前に言っていたスポンサー探しの件だけど、本社がレン君達のスポンサーになってくれるって言ってたわよ」
「へー。そうなんだー」
スポンサー探しって何だったっけ?
俺は唐突な話の振りに一瞬意味を理解して無かった。
そう、俺は今エールダンジェのスポンサー探し中だ。自分から売り込んでも中々話が進まない状況にある。そういえば支店長さんにバーミリオン運輸とかスポンサーになってくれないかなぁなんてぼやいていたっけ。聞いてみようかとか言ってたような事を言っていたが……。
「………って、本当ですか!?」
まさかバーミリオン運輸からスポンサーの話が進むとは思わず目を丸くする。
「前に言ってたでしょう?本社に聞いてみたらね、『良いよー』って」
「軽いですね。良いんですか?結構な額になると思うんですけど」
「私もそこら辺はよく分からないけど、今度の土曜日に本社の人がここに来るから、そこでお話しましょうって。学校の無い時間帯だとは思うけど大丈夫?
「何レースくらいスポンサーになってくれるんだろう。いつも2レースくらいで切られてるからなぁ。とりあえずリラに話してみますね?やった!レースだ、レース!」
ムーンレイク工科大オープンの時、無様な醜態を晒してしまったのでどうにか挽回したい所だ。
だが、実力的にはレオンさんやディアナさんとのレースでかなり成長できたような気がする。今度こそステップアップツアー優勝で、一気にプロに注目される様になりたいのだ。
15歳までにステップアップツアー優勝、これは世界ランキング上位選手の大半が通る道だ。これで優勝するとしないとでは注目度も格段に違う。
***
俺はリラに事情を話して、日曜日には一緒にバイト先であるバーミリオン運輸ウエストガーデン・ロブソン支店にやって来ていた。
まあ、支店と言っても倉庫の横にある事務所って感じだけど。その隣に家があって、その家が支店長さんの家だとか。
事務所にやってきたのはスーツ姿の紳士だった。中年男性で生真面目そうな小父さんという風体である。広報部の人らしいが、そもそも運送会社の広報って何ぞやって感じだ。
俺達は学生服で参加する。式典や行事の時しか着たりしない服装だが、こういう時は万能なので助かっている。
そしてその広報部の人が提示した内容は、オレの予想を遥かに越えて破格の提案だった。
「来年1年間、全移動費用、宿泊費、レース参加費を全て受け持つ?」
来年、好き勝手にプロ活動していいって事だ。これ、ムーンレイク工科大学付属高校への進学そのものを考えたほうが良いんじゃないか?或いは入学を再来年まで遅らせるとか。
それにしても何でそんな破格な話が出たのだろう?何かのデマとかでは?
「まあ、これには裏が有りまして、ウチの輸送船は常に4~5人くらいの空きスペースを作っていて、社長や役員が早急な移動が入った場合に、そこに入れるようにしているんです。なので行きたくても便が出なくて参加出来ないレースもあるので、そういったレースは対象外になります。ですが、ウチの定期便を基本的に使ってもらう分には移動費は全て出します」
「なるほど。ほとんどただで行けるからと」
この時代は、エネルギーなんてほとんどた無料だ。メンテナンス費用の為に使用料を取るだけである。なので人が1人乗ろうが2人乗ろうが、スペースがあってちょっと重くなるくらいなら大したことではないだろう。
「勿論、ウチは太陽系主要都市に支店がありますし、ドライバーの休憩所がこの事務所の二階にもあるように、全支店についてます。宿泊費は出せませんがそこを使ってもらえる分には無料と。小さいけど4~5部屋くらい小さいカプセル個室があるんですよ」
「な、なるほど。レースの時もそこで休むと」
「普段、レースで遠征している時に泊まってる安宿よりは快適じゃない」
俺は目を輝かし、リラは休む場所がいつもより全然良いという事実に気付き、目を輝かしていた。
「練習用のエールダンジェのエネルギ費用もウチの支店にあるエネルギ充填機を使ってもらう分には無料で承りますし、レース登録したら、開催場所のエネルギは主催者側から出るそうですし、実質我々が出すのはレース出場費だけで、他は自由にウチのインフラを使ってくださいって話なんですよ。働かない社員みたいな扱いですかね」
「リラ、リラ。どうする?かなり良い話だと思うよ?」
俺はリラの裾をチョイチョイと引っ張って訊ねる。
リラは運送状況を確認しつつ、モバイル端末で行き先を見ていた。
「え、カジノアステロイドや観光自治区も運送先があるんですか?」
「定期便が出てますね。月の大手は、大型観光自治区や小惑星エロスみたいな大きい都市には出てますよ」
「例えば来年の夏にグランドチャンピオンシップ予選に出たいって言っても可能ですか?」
「グランドチャンピオンシップ予選ですか?出場者が乗る大型クルーザーの近くには支部があると思うので、定期便も出ていると思います。というか、グラチャン本選の観戦チケットが当たった人は、社内便を格安で利用して移動しているくらいですからね」
「なんてこった。食費以外、ほとんどただじゃん。支店場所から現地の公営の練習場まで歩いていける距離が多いし、レース準備もレースもほとんど楽勝。月に拘らないでどこでもレースが出来る」
「まあ、それで中学落第されたら困るから、ちゃんと勉強する様にね」
支店長さんが俺達に釘を刺す。
「「う」」
リラもどこでもレースが出来るという事実に思いを馳せていて、受験勉強と言う一点をうっかり頭から抜け落ちそうになっていたようだ。
「でも、どうしてこんな美味しい話を……」
リラはそこで首を傾げる。聞けば機体の胸部と額にバーミリオン運輸のシールを張るだけで、これだけサポートしてもらえるのは大きい。実質ただみたいなものでも、微妙な経費の上澄みにはなる。
「まあ、いくつかは有るけれど、ウチが同じように何人かプロテニス選手のスポンサーをやっていたり、他のスポーツのスポンサーをしているのは知っているかい?」
「まあ、それは。確か、ムーンゴールドリーグに昇格したニュームーンFCの胸ロゴのスポンサーでもありますよね」
「そこまで知ってるとは」
「いや、一応バイトなんで」
バイト先にスポーツ系の広告が貼られている。スポンサーをしているという視点で見てみると、メール配信で情報も普通に流れているのだ。最近まで気にしてはいなかったけど。
スポンサーをしてる○○選手が全英オープンで本選に出場したとか、ニュームーンFCが1部昇格したとか、スノボの○○選手が大技を決めた際に会社のロゴがアップで映っていたとか。
「昔はもっとスポーツのスポンサーをしていたんだけど、この10年でウエストガーデンを中心にウチも大打撃を受けていてね。新しくスポーツ選手のスポンサーをするのを止めていたんだよ。ニュームーンFCが二部落ちしたのも資金繰りが厳しかったせいだしね。ムーンランドで一番大きい複合企業でもあるオーティも事業を少し小さくしてしまい、うちの経営が上向きにならなくて」
確かに色々と慎ましやかな生活を送ってきた。何もしなくても喰えるというが、何かしている人は逆に言えば色々と出来るのがこの月の良いところだった筈だ。
それが出来ていない状況は確かにおかしかったのかもしれない。
「最近、どうにかそのスポーツ選手のスポンサーする費用が確保できるようになってきてね。で、折角ならムーンランド州のスポーツ選手にしよう。ウエストガーデンへの被災者支援金を今年で打ち切るんだからウエストガーデンの被災者で誰かいないかなって話になった時に、何人か若いスポーツ選手はピックアップされて、ウチがスポンサーできそうな子供の中に君達がいたって事だ。まあ、誰にするかって所で支店長の推薦が決め手だったね」
「うわー、ありがとうございます」
「ふふふ、どういたしまして」
支店長さんにお礼を言うと、支店長さんは嬉しそうに返してくれる。
「まあ、バイトの休みが増えちゃうかもだけど、まだ辞めないで欲しいかなぁ。色々と大変で」
支店長さんは俺に言うのだが、やって来た広報さんにチラッチラッと目配せをしている。広報さんに訴えても何も出ないと思うが、恐らく本社に増員の為の予算アップの後押しをしてよ、っていうメッセージなのだろう。
俺がそんな事を考えていると、リラがフォローをする。
「それは勿論。荷物持ちをエールダンジェで繊細な作業をしたり、往復走にもなるし、半分くらいトレーニングになってるからバイト先として認めてたし」
「俺のバイトはリラの承諾が必要だったのか!?」
今になってリラに上から目線でバイトを認められていた事実を知ってビックリだった。
もしかして気に入らないバイト先なら辞めさせられていたのか!?必要資金調達以外にも目的があった事実に驚いた。
俺達は契約書に目を通し、契約に関するチェックをしてくれるAIを通す。
色々と気になる契約文書を簡単に訳してくれて、特に問題なさそうなので、それで契約をする事にする。こうして俺はプロ資格を持つだけの飛行士から、契約しているプロ飛行士に戻ったのだった。
実に半年振りであった。
***
それから1週間後の事だった。
久し振りに桜さんと連絡を取り合う事になった。1月振りだろうか?お互いに忙しいので中々会えていない。
久々の理由は、桜さんが今年の8月末に、俺達の住むウエストガーデンを引っ越して、隣の州にあるテルヌーブにあるセレニティという大都市へと引っ越したからで、もある。今年度からは、桃ちゃんが桜さんの通う『聖セレニティ女学館』の付属校に進学が決まり、2人で寮に入る事にしたそうだ。
何だかんだ言って、桜さんは妹の桃ちゃんを優先して生活基盤を決めている。
とはいえ、あの病弱だった桃ちゃんが10才になったと言うのだから時間の流れを強く感じる。10歳といえば、俺がリラと出会い、フィロソフィアでひどい目にあり、中層に上がって桜さんと初めて戦ったのもこの年齢だった。
さて、そんな桜さんと連絡を取るというが、別に直接会うわけではない。
確かに会いに行くにはいささか遠い。だが、遠くても現代社会にはネットワークによるヴァーチャルリアルな電脳空間が存在するのである。
まあ、電脳空間に入るには、市営のネットカフェから通信を繋げる必要があるのだが。ウエストガーデンはこの手の施設が無料なので利用しやすい。飲食物を頼まなければ、だけど。
当然、電脳空間へダイブしている間は他人に触れられても気付かない恐れがあり、誰も弄れないように俺とリラはそれぞれカプセルの中に入って、電脳世界に突入する。
俺が目を開けるとちょっとした中世ヨーロッパを思わせる世界が広がる。
待ち合わせ場所にしていた喫茶店の前に、桜さんのアバターが立っていた。
「やあ、久し振りですね、レン君。それと……リラですか?」
「久し振りです」
「相変わらずそのアバターなの?少しは弄れば良いのに」
俺達は3人で出会うのだが、この世界はヴァーチャルリアルワールド。俺もリラも桜さんも別の姿をとっている。
桜さんは本人にそっくりで、フィロソフィアにいた頃と同じく袴姿である。以前、訪れた無形刀流高山剣術道場に紛れていても気付けないだろう格好である。本物と違って胸が全くなく、髪を高い所に括っており、ジャパニーズサムライみたいな感じだ。
女性的というよりは中性的、推定Eカップはあろうかというあの胸がないのが寂しい。
俺はボディスキャンから弄ってないので普段と同じ格好である。
で、リラはと言うと………。
その前ロドリゴ邸にいた円柱型の丸っこいキャタピラのついたロボットの姿である。金色のヒューマノイドと一緒に反乱軍として銀河帝国と戦いそうなロボロボしい格好をしている。
あのロボを非常に気に入ったようだ。
「リラは弄りすぎだと思います。というか、それどうやって動かしてるんですか?」
「ふふふ、企業秘密よ」
ウィーンと音を立てて動いている辺りが物凄くリアルだ。チェリーさんのモデル仕事を受けた際には、謎のモデルとして騒然とさせた事さえあるスーパー美少女振り&中学生離れしたナイスバディは何処へ?まさかの文字通り寸胴である。
喫茶店の中に入って店員さんに一つのテーブルに通される。
丸っこいロボ子はヴァーチャルリアルワールドにある喫茶店のイスにちょこんと飛び乗る。俺達が普通に座って3人でテーブルを囲むのだが、見た目は俺と桜さんとイスにロボットを乗せている風にしか見えない。
汎用ネット世界なので、色んな人が通っているが、きっと俺と桜さんがデートしているように見えるのだろう。いや、桜さんは男装中。まさか、俺、男とデートに見られてるんですか?
「ムーンレイク工科大付属高校の受験は大丈夫ですか?」
「本校には編入する方向で、高校は地元のムーンレイク工科大系列の通信学校に行く予定にした」
「え。本気ですか?」
「スポンサーがついたのよ。1年間。ムーンレイク工科大附属に入ったら経験詰めないからさ。先生もそっちの方がいいって言ってたし」
ロボ子、ではなくリラはロボットらしい動きをしながら桜さんに説明をしていた。
「そんな良いスポンサーが?」
桜さんは俺の方を見る。
「はい。バーミリオン運輸なんですけど、レース登録費用を出してくれて、移動や宿泊やエネルギは、自分達のインフラを使う分には自由に使って良いと。実質活動が無料でできる様になりました。ウエストガーデンだからスカイリンクの利用も無料だし、機体は自分のを持ってるし。機材の消耗とかそこら辺はバイトで賄うとして、来年1年は好きなだけレースに出れますよ」
「凄いですね。うーん、グランドタワーやインターハイは絶対に出たいけど、そんなに自由に活動できるなら、高校の大会に出なくても楽しそうね」
桜さんは羨ましそうにオレ達を見る。
「その桜もグランドタワーに1年生から出場するんでしょう?」
「ええ。どうにか出場を決めました」
グランドタワー、それは高校の全国大会の名前で、インターハイは個人戦と団体戦があるのだが、グランドタワーは個人戦のみの大会となっている。
色んな種目が同時に行なわれる高校生の祭典であるインターハイと違って、グランドタワーは高校飛行士達の祭典である。月の中ではメジャーツアーよりも人気が高く注目度が抜群。
ちなみにグランドタワーの今年の優勝候補は高校2年生のベンジャミン・李、言わずと知れた2年前の中学生王者である。
「ついに桜さんが全国テレビデビューか。遠い人になっちゃうね」
「あら、レン君がその気なら近い人になっても良いんですよ」
桜さんは俺に肩を寄せて頬に触れそうなくらい唇を寄せて来る。
「ど、どのくらい近い人になれるんでしょう?」
ゴクリと息を飲む。
「人の飛行士を誘惑しないでくれると嬉しいんだけど。このサムライめ」
ウィーンとロボットの手がドリルになって、オレの頬をグリグリ捻る。リアルでやられたら口に穴が開きそうなレベルだ。
「何故か、ネット上の筈なのに、異常に痛い」
「先生から教わった人間の痛覚コードを解析して、ヴァーチャルリアルプログラムへ取り付けたメカニック魂の篭ったテクよ」
「愛よりサドっ気を感じる相棒が怖い」
俺は桜さんの胸で泣いた振りをして、桜さんもよしよしと励ましてくれる。
これがリアルならふわふわで幸せな感触があるのだが、ヴァーチャルリアルの姿は中世的で胸がないからふわふわな感触が0である。
「飛行技師にそんな技術必要ですか?」
「先生曰く、レース中に怪我した飛行士がどうしても飛びたい時の応急処置だそうよ。まあ、先生はそれで勝たせた事が有るモンスターだけど、普通は棄権するところよね」
「ロドリゴ・ペレイラも大概化物の類ですからね」
桜さんも溜息と共にぼやく。
そういえば、その前はロドリゴ邸にお世話になったが、普通なら誰もが天上界に住まうと思うような化物だ。あんなにフレンドリーに接してアドバイスを貰えるなんて俺達はかなり恵まれていたように感じる。桜さんから見ても天上界の住人なのだから。
「怪我しても飛べばいいと思うんだけど飛べないの?」
だが、それよりも、怪我をして飛べないという話の方が気になって、俺は訳知り顔な2人に尋ねる。
すると桜さんは首を横に振る。
「そりゃ、怪我したら飛べませんよ。飛行は姿勢でバランスを取るのに、その姿勢がまず崩れているのがデフォルトになります。普通に飛ぶ分には変わりませんが、コンマ数秒の操作ミスで簡単に負けてしまうレースにおいて、怪我は致命傷です。中学生レベルならまだしも、プロの領域ではかなりシビアになりますよ。精神状態が乱れただけで負ける世界で、物理的な怪我なんて論外です」
「言われて見ればそうかぁ」
そこで桜さんはそもそも何の話をしていたっけと首を傾げる。
「話がそれたけど、何の話してました?」
「ああ、ジェネラル市にはスポンサー契約がある間は移動しないって話」
「ああ、それね。で、1年のスケジュールはもう組んだの?」
「まだよ。どうせなら桜のステップアップを邪魔しに行きたいから桜のスケジュールを聞こうと…」
ロボ子扮するリラはウインウインと腕を回して桜さんに宣戦布告をする。
「別に邪魔しに来なくても良いのですけれど。確かにレン君とはアンダーカジノ以来、実戦の場で戦っていませんね。私は高校の大会の合間に出られたら出るって方針なので、本当に何も決まってませんよ?ちなみに決まっているのは所属してるベジェッサ電機オープンにワイルドカードでの出場位でしょうか?あと、インターハイ予選の合間にコロニーツアーに出てみようかってコーチと画策してますね」
桜さんは自分のスケジュールをさらけ出してしまう。余計な事を。リラの奴が調子に乗って本当にぶつけてくるじゃないか。
「レン、当たりたくないの?負け越したままでよいと?」
「いや、スカイリンクでの練習試合とか含めたら、もう勝ち越してるし。桜さんとはもっと大きい場所で戦いたいし、別にステップアップツアーで互いのステップを潰しあわなくても」
「何を言っているの。レン、レース中の接触は事故よ。うっかり胸とか揉んでも事故で許されるのよ?」
「その手が……って、騙されないもんね。エールダンジェは胸をがっちり保護してるじゃん!インナースーツだって体のラインはもろに出るけど、外から感触なんて楽しめない事くらい分かってるんだからな」
桜さんはクスクスと笑い
「だったら、お尻という手もありますよ?」
「はっ……そ、そういえば、その手が!………何故、俺はあのチャンスを生かさなかった!」
桜さんの言葉に、かつての自分を省みて愕然とする。
俺のバカ!
テーブルを叩いて悔しがっていると、リラと桜さんが冷たい視線で俺を見ていた。
「って、引っ掛けられた。べ、別に興味ないし」
慌てて取り繕うが時すでに遅し。
「レン君は弄り甲斐があって楽しいですね」
「その中身が本気だから困るんだけどね。うっかり過ぎてその企みが一度も成功した事がないから笑えるけどさぁ」
「人を笑いものにしないで下さい…」
クスクス笑いあう桜さんとリラの二人に俺はうなだれるしかできなかった。
というかネット世界ではセクハラする気も起きない姿というのはどうなのだろう?
だが、いつかレース中に起こるハプニングを成功してみせる!必ずだ!
心の中で叫ぶが、決して顔には出さない。ヴァーチャルワールドだと表情に出やすいからよくない。
「じゃあ、年明けの第7節から最終節のグラチャン予選までは出るんだ?」
「全部出るかは検討中だけどね。学校もあるし。でも、グラチャン予選までに現役トップクラスの飛行士とあたって置きたいわね」
「それは誰もが夢を見る所だけど、現役トップクラスなんてあたるチャンスがあるのか?メジャーツアーの予選さえ出れないこの俺が」
「コロニーツアーでツアーファイナルの権利をもぎ取れれば将来のグレードS級の飛行士とは当たれると思いますよ?一緒に出ますか?」
とは桜さんのお勧め。
コロニーツアーは正直に言えば出たくない。
アステロイド帯にある小惑星エロス近隣にある人口小惑星『観光自治区』とも呼ばれる居住区でリーグ戦を行なうのだ。こいつがかなりしんどい日程だ。
雪山、海上、森林、遊園地という4つのテーマパーク的な居住区で、それぞれ15試合で合計60試合も行なうのだ。4週間で。
端的に言えば、15連戦→移動→15連戦→移動→15連戦→移動→15連戦→移動→決勝トーナメント、というローテを5週間で行なうわけだ。
もう、アホかと。
ただ、1週間だけバカンスついでに子供を連れて来る、元プロ飛行士とか、プロ資格を取ったけどプロ活動しないで他の仕事についた人とか、そんな飛行士が集まる。
年齢も下から上からたくさんだ。強さもピンキリ。
若手にたくさんの実践の場を与えるべく、意外と多くの飛行士がこのツアーに参加する。ビッグクラブの若手もここでたくさんの経験を積ませようと送り込んできたりする。その場合、1ツアーだけでなく4ツアー全部出場したりする。
レース形式だが、1ツアー16人のリーグが8つ、つまり128人が出場する。
その中で最も勝率が良い選手が優勝者となる。
勿論、15勝するケースもあるので、KO率が決め手になるらしい。
4ツアーから選出される4人の優勝者と、2つ以上のツアー参加者で最も勝率の良い順にランキングがつく。そして、合計16人が5週目に小惑星エロスにあるカジノ居住区でツアーファイナルというレースで争う。
このツアーファイナルはなんと『グレードB』のレースであり、出場するだけで賞金額も高く、1度勝てばランキングポイントがたくさん入る。
誰にでもチャンスがあると言う意味では、注目のツアーなのだが、それ以上につかれるのだ。
「レンはアンダーカジノのスローペースの経験は豊富だけど、プロの経験値はまだまだだからね」
「いやいや、結構なレース数をこなしてるじゃないですか」
桜さんはブンブンと手を振ってリラの言葉を否定する。
「レンは基本的に突然才能に目覚めるとか、気持ちが変われば強くなるとか、そういうタイプじゃないのよ。厳しいレースをこなして色んな経験を身につけていくタイプよ。実際、アンダーカジノの頃だって、何度もしくじってたわ。能力的にはレンが圧倒できる相手でも負ける事が多くあった。今もそう。一気に60戦くらいしたら、グググッとレベルアップしそうだけど」
「最初に1日でばてて、あとの19日のレースは記憶の彼方になるような気がしてならない。やめよう?コロニーツアーやめよう?」
俺は売りに出される子牛の如く目を潤ませてリラに訴えてみせる。だが、今日のリラは見た目がただのロボ子。手が稀にスクリューになったりする危険な存在で、子牛を料理する調理ロボにしか見えなかった。
そんな俺を置き去りにしてロボ子なリラと男装な桜さんはどんなレースが良いかで勝手に盛り上がっていた。
出場するの俺なんだけど。
「ネクタリス飲料オープンが終わったのが大きいよね。本選出場で、ネクタリス飲料のジュース無料チケット300リットル分とか」
「1日1リットル飲んでも300日かぁ」
「去年、出場して養護施設では1月で消えたけど」
「人いるもんね。あ、ソードマスターズは?」
「出場辞退は容易そうだけど、レイブレードと盾以外の武装禁止とか、レンが1回戦で負ける姿しか想像がつかない」
「地球に行ってみたら?」
「地球は予選勝ち抜きは余裕だけど優勝厳しいからなぁ。地球はレベルの差がでかいから。トッププロだって優勝できないツアーだったりするでしょ?私的にはアグリコラかな、優勝したら副賞で飛行技師と飛行士にそれぞれ乳牛1頭分の牛乳が毎日手に入るらしいよ。飲めない分は金にするのも、養護施設に届けさせるのもOKだってさ」
「電気売買みたいな感じ?」
「資産が増えるみたいで良いじゃん。直接牧場に行って自分の牛から搾乳してその場で加工してもらうことも可能だって。ウチの子供達連れても良いんじゃない?まあ、牛が最後に食べられないのが難点ね」
「何もかも奪うの?リラってやっぱり鬼畜だと思うよ」
「牛は家畜でしょ?仲間ね。それに牛乳よりも牛肉に飢えてるのよ」
桜さんとリラは楽し気に話をしていた。レース出るのは俺なのに。
それと、家畜と鬼畜は仲間じゃないと思う。そしてやっぱり、リラは悪魔か何かなのだと思う。見た目は天使だけど中身が悪魔って駄目なんじゃないだろうか?
「じゃあ、その対抗のシーランドマリンオープンは?こっちの副賞はマグロ1本だそうですよ?それに、決勝はグラチャンみたいに広いレース場だし、スピード狂のレン君なら上に行けば行くほど強くなりそうじゃない?」
「出来ればそこじゃなくて、グラチャン前の第12節にあるメジャーツアーのマルブランクカップに出たいわね。同じシーランド州でもこっちに出れる様になっておきたいわ」
「そこまでにポイントを貯めて、予選になら出れるラインにいきそうね。でも、少なくともステップアップツアー優勝2回分くらいしないと厳しいでしょ。スバル杯の勝ち点が残っていてもここ最近はポイントどころかレースにさえ出れてないんだから」
「そこよね」
俺がボーっとしている間にも2人で何か話をしているようだが、この話は本当に俺に関係ある話なのだろうか?
夢を見るのは良いのだが。
ああ、レオンさんとのレースも、ディアナさんとのレースも楽しかった。
あれから全くレースをしていないので、まずレース感覚を取り戻すほうが大事だと思う。
去年までなら桜さんがウエストガーデンにいたので、いつもの練習場でレース前に勝負勘を取り戻す為に相手をしてくれたのだ。
だが、今は桜さんがウエストガーデンにいないので勝負勘を取り戻すのが難しい。
大体、リラはいつも俺の状況をあんまり考えないで勝手に振り回すのだ。
そういえば、ディアナさんもロドリゴさんに振り回されていたと聞く。だが、ディアナさんはそれが良いとか言ってたけど。だが、どんな無茶振りされてもディアナさんはご褒美を糧に頑張っていたと言う。どんな厳しい事があろうと、日々の生活には張りが必要なのだと言っていた。
「そうか、俺に足りなかったのはご褒美なのだ!」
ふと俺は真理に気付く。
「「は?」」
2人は俺の突然のぼやきに小首を傾げてこちらを向く。まるっこいロボのアバターを使っているリラは意外に器用な動きをする。
「ご褒美だよ、ご褒美。ディアナさんも言っていた。こうして毎回毎回無茶振りと高い目標を突きつけられる飛行士の身にもなるべきなのだ。故に、俺はリラからご褒美を所望する。そりゃ俺達は世界一に行くという大望がある。それでも俺にはご褒美が必要なんだ」
熱い視線で訴えて見る。
届け、オレの想い!
するとリラはしばし考え込む。
「確かに……先生も言ってたけど、レーサーにはそういう身近な張りというのも大切だとは言ってたわね。レーサーを掌で躍らせるには」
ボソッと最後に恐ろしい言葉が付け加えられた気もしたが、どうやらご褒美案は通ったらしい。一瞬、現実かどうか頬を抓ってみたが、やはり痛く無かった。そうかここは夢だったのか。
って、違う。ここはヴァーチャル世界だ!痛くなくて当然だ!
マジ!?
マジデスカ!?
「良いわ。何して欲しい?スポンサーも取って来たし、久し振りのレースだもの。今なら機嫌もいいから何でも聞いてあげるわよ?」
「マジですか?夢とちゃう?何でもって何でも?えーと、その……た、例えば…ほ、ほっぺにチューとかでも?」
オズオズと俺は聞いてみる。
するとリラのアバターであるロボットはキュインキュインと視界センサっぽい場所を点滅させる。
「本当にそんなんで良いの?言って置くけど、こんなサービス、今回だけよ?」
「ど、どうやら物凄くマジっぽい。じゃ、じゃあ、そのおっぱ、いやいや、さすがにそれは…」
引かれるか軽蔑されるだろう。さすがにまずい。どこまで許される。今回限定でならかなりせめれそうだ。
「今、レン君の煩悩が凄い大回転してますね」
桜さんが呆れるように俺を見る。
だが、呆れられても構わない。二度とないチャンスかもしれないのだ。リラが優しい上に、あわよくばあんな事やこんな事までさせてくれるかもしれないのだぞ?
「オッパイでも揉みたいの?」
「い、いや、さすがにそこまでは…」
「良いわよ」
「「良いんですか!?」」
俺と桜さんが同時に驚きの声を上げる。
「そうね、アグリコラオープンで優勝できたら、私の大事なオッパイを揉むなりしゃぶるなり好きにして良いわ」
「……みなぎってきたーっ!」
俺は今、猛烈に感動している!
やってみせる!ステップアップツアーに出てくる二流プロなんぞ一捻りだ!今なら俺は世界最強ホンカネンだろうがカルロスさんだろうがジョアン・ダエイだろうが捻ってやるわ!
「い、言って置くけど、後で無しとか、だめだからな!」
「言わない言わない」
「変わりにメイの胸で我慢してとかも無しだぞ?」
「メイの胸は私のオッパイじゃないでしょう?」
「け、決勝で惜しくなって、態と負ける調整とかもダメだからな」
「そんな事する訳ないでしょう。約束してあげるわ。レンが私のオッパイを揉める為に全力を尽くすと」
すると俺の瞳から涙が流れてとまらない。
「おかしいな。ヴァーチャルリアルなのに、何かをやり遂げたような。もしかして俺は明日死ぬのだろうか?次回、最終回なのだろうか?俺達の戦いはこれからだって感じでレース前に終わるのではなかろうか?」
「現実に戻ってきなさーい」
キュインキュインとロボット姿のリラが光を点滅させてイスの上で動いて、俺の注意を引く。
「いや、大丈夫。俺は平気。ち、ちなみにヴァーチャル世界でとかも無しだからな?」
「生乳よ」
「よーし、俺について来い!優勝の1つや2つ掻っ攫ってくるぜ!」
いつもやる気はあったけど、今回ばかりはやる気の度合いが違う。ディアナさん、これがご褒美効果なんですね?俺も貴女のような世界王者になれる気がしてきました!
「何ていうか、やる気になっているレン君って珍しいですね」
「一応、普段からやる気はあるんだけど、表に全く出さないからね。勝ち気よりも飛ぶ事の楽しさが上回っている感じなのよ」
「なるほど。で、本気なのですか?」
「…………まー…………………本気?よ?」
「レン君、ご愁傷様」
リラと桜さんが何か話し合っているようだが、もはや俺を止めるものはいないだろう。
全ては乳の為に!
本作で度々、言葉に出て来る高校飛行士の祭典『グランドタワー』
人類が最初に足を踏み入れたと呼ばれるムーンレイク州アームストロング市にある巨大スタジアムの名称であり、高校生飛行士の夢の場所とも言われているレース場である。
まあ、モデルは日本の高校野球における甲子園、高校サッカーにおける国立みたいなものですが。
本作ヒロインは甲子園に連れてってという謙虚なことは言いません。何せ世界一の舞台に連れて行って、というよりも世界一の舞台に連れて行くという位の図太さですから。




