とにかくスラムは恐ろしい
またレナード視点に戻ります。ゴミ山が崩れて奈落の底へと落ちた所から始まります。
目の前は薄暗い天井が存在していた。カタカタと静かな音が聞こえる。ゴミ山と同じ鉄と油の臭いが鼻に付く。
あれ、僕は何で寝ているんだっけ?
もう夜になったのかとも思いつつ、体を起こそうとする。すると体中が痛む。ところどころ火傷が見えるし、あちこちに擦り傷がある。服もボロボロだった。
「一体、僕は……」
上体を起こして近くを見回す。
小さくて明かりのついていない暗い小さな部屋。埃臭くて固いベッドの上に寝ていたようだ。
「あ、起きたか」
どこからか、乱暴な感じな高い声が聞こえてくる。
声の方向をよく見てみると薄暗い部屋の端に、ノートブック型モバイル端末を開いて、何やらタイプをしている少年がいた。髪は長く目元が隠れていて、ボサボサで鋏で切ったのかと思うような適当な感じで、背丈は自分より少し高め、年代は同じくらいかなと感じる。
「えと……ここは?」
「……んと、まさか記憶喪失とかそういうのじゃねえよな?」
ボサボサ髪の奥から濃い茶色の瞳が僕を訝しげに見つめる。長い髪が顔を隠してよく分からないが、鉄錆と油で汚れてて、口調も乱暴な感じでちょっと怖い。
「え、……僕はレナード・アスター。みんなはレンって呼ぶけど……。僕、何でここにいるのかな……って」
「お前、ゴミ捨て場から落ちてきたんだよ。何であんな場所から降ってきたんだ?」
少年は呆れたように僕に尋ねてくる。
「落ちてきた?」
僕はそこでふと思い出す。
必死に逃げていたんだ。燃え盛る街から離れるべく、ゴミ山を登って…。そしたら戦艦が砲撃してきてゴミ山が崩れて…
「……そうだ、僕は……ゴミ山を登って……足元が崩れて山の下に落ちて行っちゃって…………」
記憶を掘り起こしてみるが、それ以上昔の事を思い出そうとするが何故か考えたくなくなり、そこで言葉を区切り、考えを止める。
「やっぱり。お前、ウエストガーデンから来たのか?まさかこんな場所で地元民と会えるとはな」
「地元民?」
「俺もウエストガーデン出身なんだ。名前を名乗ってなかったか。ええと……………一応、ここではミハイルで通っている」
何故名前を名乗るのに長い沈黙があったのだろうと首を捻る。自分の名前を思い出せなかったのだろうか?僕よりも記憶喪失を疑うのは君なのでは?とは思ったけど、それを口にしたらぶん殴られそうなのでお口にチャックだ。
「腕試しに、このフィロソフィアに来たんだよ」
「腕試し?」
何の腕を試しにここに来たのかは知らないけど、何か訳有りなのだろうと理解する。
「…ってここはフィロソフィアなの?……なんだか随分と遠い所まで飛ばされちゃったんだ……」
そうだ、僕はあのゴミ山が倒壊して、奈落へと落下していって……
ブルッと体が震える。あの深い谷底を見た事を思い出し、体に受けた浮遊感を思い出し、恐怖が体中を駆け抜ける。
「……何で生きてたんだろ」
自分でも何で生きているかビックリな状況だった。
「それはあれじゃないか?」
ミハイルと名乗った子はベッドの下に置いてある手提げ袋を指差す。
あれは僕がお父さんから買ってもらった誕生日プレゼント、『エールダンジェ一式』の入った手提げ袋だ。そういえば背負ったまま避難活動だのあちゃこちゃ走り回って忘れていたが、ずっとこの手提げ袋を背負っていたのだ。
「それは…」
僕は慌てて手提げ袋に飛びついて抱きしめる。これは僕にとってすごく大切なものだ。お父さんとお母さんから最後に貰ったものだから。
「そんなに慌てなくても取らねえよ。一応、中を見せては貰った。それジェネラルウイング製のスポーツ型ムーンライトだろ?カラーバリエーションからするとレオン・シーフォモデルか?」
「分かるの?」
「一応、そういう仕事してるからな」
ミハイルはモバイル端末の操作を止めて、腰にさしてあるスパナを手にしてクルクルと回して見せる。
エールダンジェの飛行技師といえばスパナが基本だ。
選手をあらわす表記の時、飛行士はエールダンジェの翼のように6つのひし形マークが配置された表記がされていて、飛行技師はスパナのマークが表記されている。
何故かと言えば、エールダンジェは基本的にソフトウェアによって調整するけど、レース中に壊れるとまずいので、機体のコネクタは外側に剥き出しにせず、外部装甲の中に隠れている。そのアウターパネルを固定するのに使われるのがごっついボルトで、そのボルトは専用のスパナを使って開け閉めをするようになっている。
勿論、外部装甲を重力制御で閉める事は可能なのだけれど、何かの故障で外れてしまったりすると、中に収められている電力供給装置まで外れてしまい、空中で電力を失ったら死に至る。
つまり手でボルトによって締めるのは命綱を付けるのと同じ意味なのだそうだ。
それはそれとして、
「で、何でエールダンジェと僕が生きていた事に繋がるの?」
不思議に思うのはその部分だった。僕は別に装備をしていた訳でもないし、エールダンジェの電源を付けたわけでもなかった。
「お前、ゴミ山から崩れ落ちてフィロソフィアまで落ちてきたんだろ」
「た、多分、そうだと思うけど」
「大量のゴミが落ちてきたから、何か欲しいものでも見つかるかと思ってゴミ探ししてたらお前がフワフワ落ちてきたんだよ。一瞬、古典アニメのヒロインか何かが降ってきたのかと思ったぜ」
落ちてきた僕を見て、ミハイルもさぞがっかりしただろう。僕がミハイル側の立場だったらヒロイン交換を訴えるところだ。カイトと同じ養護施設にいたジャパニメーションファンのアンリが見たら一生の笑いものにされかねない。
「それが……この機体のお陰だって事?」
「ジェネラルウイングのエールダンジェは、独自のセーフティシステムが付いているんだよ。普通、電力供給装置以外に電力供給するシステムは作らないけど、電源が落ちてても高い速度を感じるとウイングフレームについている予備電源が作動して、周り一帯の速度を落とすようになってんの。事故防止の為のセーフティだな」
ミハイルはスパナをクルクルと手元で回して遊びながら、エールダンジェについて詳しく説明してくれる。
僕はそんな機能がついていた事さえ知らなかった。
もしかしたら、だからお父さん達はこの機体を買ってくれたのかもしれない。
思い出すのは両親の最期の姿。忘れようとしていたがふと思い出されてしまう。
何だか涙が出そうになるので、慌てて目元を拭いてから話を逸らそうと異なる話題を振ろうと考える。このままではまた泣いて動けなくなりそうだからだ。
「と、ところで、僕と同じくらいの年齢に見えるけど…プロの飛行技師なの?」
「このフィロソフィアにアマチュアはいねーよ。ウエストガーデンは大人になるまで稼がなくても飯が食えて学べてちょっとしたことなら無料で遊べる。でもここはガキだろうとテメエの飯はテメエで稼がなきゃならねえ。だから俺はここに来たんだよ」
ミハイルの言葉に僕は絶句する。それって自分で稼いで生きてるって事?なんだか凄い子だなぁと感心する。
「ウエストガーデンから来たんだよね?……僕はウエストガーデンに戻らないといけないんだけど」
そう、ウエストガーデンに戻らなければだめだ。あの後、カイトがどうなったのか気になるし、街や知り合いの事も気になる。
両親を弔わなければならない。
全部僕がやらないと駄目な仕事だ。
「ウエストガーデンに戻る?」
「そうだよ。どうやって戻れば良いの」
「さあ」
ミハイルは不思議そうに首を捻る。
「さあって……」
何で、この子、ここにいるの?自分から足を運んだんじゃないの?
「ここは確かにフィロソフィア居住区だけど、下層と呼ばれている特殊な場所だ。アンダースラムなんて呼ばれてるけど。実際には破産した人間や軽犯罪者が収監される刑務所みたいな場所だぜ。簡単に出ようと思って出れる場所じゃない」
「え?」
「このフィロソフィアの下層はウエストガーデンのゴミ山とつながっていて俺を含めて拾いに行く奴は多い。だけど、じゃあ、逆にそこを昇ってウエストガーデンへいけるのかと言われればNOだ。軽犯罪者と言っても人に加害した人間が多くいる。そんな人間を隣の州、隣の都市であるウエストガーデンに逃げさせてたら、俺らの故郷は犯罪者だらけになるだろ?」
ここって犯罪者の入る場所なの?
僕、間違えて刑務所に入っちゃったの?
自分の置かれた状況に愕然とした思いを抱いていると、さらにミハイルは説明をしてくれる。
「毎年10万人くらいルナグラード州から逃げようとする貧民達が1人くらい上手く逃れてムーンランドに逃れたって聞いたけど……失敗して最下層に落ちたら二度と生きてこっちへ戻れないだろうな」
「何それ、怖い」
どうやら、のうのうと生きていられるウエストガーデン居住区と違って、フィロソフィア居住区は過酷な都市のようだ。
そして、その言葉は、ここから離脱する事は不可能だと暗に言っているに過ぎなかった。
僕は目の前が真っ暗になるのを感じる。
「あとは金だな」
「カネ?」
「100万MRあれば上層に行けるだろうし、そこでウエストガーデン市に通信を送れば帰れるんじゃね?」
「そうだ、通信を送れば…」
僕は慌ててポケットからカード型モバイル端末を取り出す。半透明な画面を空中に投射して操作しようとする。
「あれ、通信が繋がってない」
画面には一切の操作が出来なくなっていた。ローカルのアプリが動いていても意味がない。
そういえば基本的にネットワークに接続した後に使えるファイルだ。接続できていない状況というのが今までなかったので考えた事もなかった。
まさか、月のネットワーク回線に接続できてないの?
よく見れば通信状況を示す場所を見るとバツがついていた。今までこんな画面見た事が無かった。どうすれば良いのだろうか。
「そりゃそうだろ。ここはまともなインフラは無いぞ。フィロソフィアは専用のローカルネットは敷いてあるけど、ムーンネットは上層と最上層だけだからな」
「そんなぁ」
何て酷い場所なんだろう。ウエストガーデンに生まれてよかったと思う反面、とんでもない場所に来てしまったと感じる。おそるべしアンダースラム。
「ちょっとしたバイトで500MRくらいは手に入る。で、一日分の食料はそれでどうにかなる。オレみたいに所有権の浮いている場所で適当に暮らしていれば金は掛からないし、生きる事に関して困ることは無いだろうけど」
「そうなの。でも…うううう、困ったなぁ。早く戻りたいのに」
別に帰る先に待っている人が居る訳では無い。でも、戻らなければ何も始められないような気がする。
何かに焦っているのだが、自分でも何に焦っているか分からない。
「だから、説明してやってんじゃねえか。グダグダうるせえな。だから、テメエのそのエールダンジェ、借金の担保にして上層に登って、自分のモバイル端末で通信すれば良いだろ。ウエストガーデンにでも連絡して、ルナグラード州のフィロソフィアに落ちたから助けてくれって言えば来てくれるだろうよ。向こうの技術なら即座にお前が本物かどうか確認して迎えに来てくれるだろうし、借金だって緊急避難処置って事で面倒見てくれるだろ」
「そ、そーなの?」
僕は不思議に思って首を捻る。
というよりも100万MRっていくら位なんだろ?スポーツ型エールダンジェはそこまで高い製品でもないと思うんだけど。
「ここはムーンランド州と違って上と下じゃインフラの差が圧倒的に違うんだよ。下層はフィロソフィアの回線しか通ってないから何も出来ない。中層だって結構不自由だからな」
「……地下スラムがある……とは聞いてたけど、そんなに深いんだぁ。でも、フィロソフィアの中層って普通の人が暮らしてるんだよね?不便じゃないのかな?」
上層というのは有名なフィロソフィアカジノのある場所なのだろう。月のラスベガスとも呼ばれる場所だから僕も耳にはしたことがある。お隣だけど一度も足を踏み込んだことのない土地だ。
その下の中層にフィロソフィアで暮らす人達がいて、そのさらに下の下層には犯罪者や破産した人を収容する場所があるというのだから、ウエストガーデンのような1層構造の居住区ではなく、どうやらこのフィロソフィア居住区は何層かに分かれている構造のようだ。
「というか、中層の人間だって別に上層に行けない訳じゃない。中層で暮らして、仕事で上層に行く人が圧倒的に多い」
「そうなの?」
「ああ。通行料の100万MRは通行費じゃなくて、上層へのエレベータの使用許可証なんだよ。これは他人の金じゃなくて自分の資産でのみ購入可能なんだ。だから、親が上層に行けるようになっても、小さい子供が生まれてしまったら、小さい子供は上層に行けないから、子供が独立するまで親は中層で暮らして上層で稼ぐってのは結構ある話だぞ」
「複雑な都市だなぁ」
取り敢えずよく分からないというのと、僕が上に登るのが大変だというのだけはよく分かった。
「まあ、フィロソフィアにとって上層より下で生まれた子供は、上層へ行く事が大人として認められた証拠っていうか、一種のステータスなんだよ」
懇切丁寧にミハイルは説明してくれてるのだが、既に僕の頭は許容量を超えていたので右から左へ聞き流されていた。
よく分からないので、とりあえずエールダンジェを借金の担保にして、上に登ればどうにかなるって事で良いんだよね?
「さてと、俺は明日に向けて仕事があるんだ。お前の相手をしてる暇は無い。最低限の義理は果たしたんだからさっさとここから出ていって、ウエストガーデンでもどこへでも帰ってくれ」
ミハイルはシッシッと僕を追い払うような手ぶりをして邪険に扱う。
でも、言われてみれば当然だ。落ちてきた僕を拾って保護してくれたのだ。感謝してもしきれない。これ以上、邪魔になるのはしのび無かった。
「そ、そうだね。それじゃあ、僕はこれで。色々とありがとう」
僕はエールダンジェの入っている手提げ袋を背負い、手提げ袋と一緒に転がっていた僕の靴を履くと、この部屋の外へ向かって歩く。
「あ、そうだ」
すると、何かを思い当たったようにミハイルは僕の方を見る。
「ウエストガーデンに戻れたらミハイロワ養護施設のイアンナ母さんにオレは元気でやってたって伝えておいてくれよ。この位の恩義はあるだろ」
「え、あ、うん。分かった」
ミハイルと別れた僕は、部屋を出て外を歩く。
明かりはほとんど点いておらず薄暗い。夜じゃなくてこの下層と言われている土地そのものが暗いのだと理解する。
「何だかゲームのダンジョンに来たみたい」
別にモンスターが出る訳じゃないと思うけど、不穏な空気が漂ってる気がする。
灰色の町並みは薄暗く、天蓋の位置もかなり低い。天蓋というよりはアーケード街というか大都市の地下街みたいだ。
まあ、ここはアンダースラムなんだけど。
取り敢えず上へ向かうエレベータのある場所を探すべく歩きだす。
ミハイルのいた建物を出てからしばらく歩くと、閉塞感の漂う薄暗い街並みが広がる。
地下スラム…とは聞いていたものの、人が少ないので最初は安心していたのだが、突然人の怒鳴り声が聞こえて来たり、ガラスの割れる音が響き渡ったり、人の悲鳴が聞こえたりする。
街路の端で毛布にくるまって寝ているあからさまな浮浪者もいれば、道の真ん中で酒瓶を抱えて寝ている人が居たりする。
ウエストガーデンには明らかに存在しない人種が盛沢山だった。
「こ、これはちょっとやばすぎるよぉ。迂闊だったかなぁ」
僕は目を合わせないようにそそくさと先に進む。とんでもないところに来てしまったと改めて思うのだった。
そもそもウエストガーデンでは、何の苦労もなく生きていた。
科学全盛時代の昨今、ほとんどの物事が科学技術で完結してしまうのが当然だと思っていた。
食べ物1つとっても、モバイル端末のウエストガーデン公式アプリを起動させて、食べたいメニューをポチッと押せば、輸送路から家まで3分で作りたてが無料で届いてしまう。料金もかなり格安。西暦時代では高品質と呼べるだろう衣食住を格安の公的サービスで受けられる、それが僕の住んでいたムーンランド州ウエウストガーデン市での暮らしだった。
でも、僕にとっての当たり前は、今日、幻想として消えた。
同じ月連邦共和国でも、ルナグラード州フィロソフィア市は貧富の差が激しいらしい。
特にこの下層にあるアンダースラムには僕の知る全てが無かった。
まず最初に気づいたのは普段無料で繋げているムーンネットワークに繋げられないという事。モバイル端末で何でも済ませることが出来る昨今、それはそのまま何のサービスも受けられない事を意味していた。
さらに次に気づいたのは僕の使っているカード型モバイル端末の充電が出来なくなっていることだ。無論、ほとんど使えないのだから意味をなさないものかもしれない。それでも、救助のために連絡を取ろうとした時、通信が出来ないのでは困る。
カード型モバイル端末の電源を落としてポケットへ捻じ込む。上層に着くまで取り敢えず電力保持に努めよう。
ウエストガーデンへの道筋の策を授けてくれたミハイル曰く、僕の持っているエールダンジェを担保に、ムーンネットワークに接続可能な環境のある地下スラム上層へ行く交通費を手にすれば良いだろうとのこと。
僕としてはお父さんが買ってくれたエールダンジェを戻ってこなくなるかもしない場所に渡すというのは正直に不安が大きいかった。
でも、ここで生きていける自信は僕には全く無かった。
歩いて行くと大きい通りに出る。
人通りは多くなってくるが、ガラの悪そうな人が多くちょっと怖かった。ジロジロとみられているのも気になる。
そんな中、奥の方からバタバタと駆ける人の足音が近付いてくるのを感じる。
なんだろうと慌てて道の端っこに退ける。
すると奥からは小柄な少年が走って逃げてくる。褐色の肌をした少年で年齢は僕よりも年下に見える。
「待ちやがれ、このクソガキが!」
「ぶち殺してやる!」
その後ろから追いかけて来る男たちは物騒な事を口にして走って来る。いつの時代の人間なのか、スキンヘッドのレスラー風の男とモヒカン頭の大男。どっちも汚れたシャツにジーンズという格好で、端的に言えば不良と呼ばれる人種にしか見えなかった。
僕はビクビクと道端に退けてその様子を眺めていると、少年は道路のくぼみに足を取られたのか、バランスを崩して僕の見ている直ぐ近くで転んでしまう。「や、やべっ」
「追いついたぜ、ペドロ」
「テメエ、よくもやってくれやがったな」
息を切らしてスキンヘッドとモヒカンの2人が少年を取り囲み、ポキポキと拳を鳴らして迫ろうとしていた。剣呑な雰囲気に僕は恐れて息を潜める。
「さあ、金を出してもらうぜ」
「チョロチョロと逃げやがって」
モヒカンが転んだ少年の襟首を掴んで持ち上げる。これは俗にいうカツアゲという奴だろうか?さすが犯罪者の落ちる地下スラムである。
映画でしか見た事のない、僕の体験した事のない世界が展開されて、あまりにも恐ろしかった。
「ひっ……ゆ、許してくださいよぉ」
「うるせえ!その生意気な口を2度と動かないようにズタズタにしてやらぁ!」
モヒカンは拳を振り上げて少年を殴ろうとする。
「や、やめろお!」
愚かな事に僕は咄嗟に喧嘩の現場に入ってしまった。スキンヘッドもモヒカンも揃ってこちらを見る。
「んだ、テメエ」
「何、ガキの癖にオレらに命令してんだよ、あ?」
モヒカン男はコメカミに浮かべた血管をヒクヒクと痙攣させながら、僕を睨んでくる。
僕は恐怖で身を竦ませる。だけど、目の前で僕と同じくらいの子供が殴られるのを見て、黙っていられるような子供に、残念ながらウチの両親は育ててくれなかったのだ。
口にして後悔ばかりするのだけれど。
「え、ええと。そ、そんな子供をいじめるのは…よ、良くないって言うか……」
怖くて声が小さくなっていってしまう。
いや、普通に怖いよね?暴力振るう大人とか相手にするの。
「ああ?」
「だ、だから、そんな小さい子供をいじめるのは格好悪いと思うから辞めた方が良い…というか」
「調子乗ってんじゃねえぞ、このクソガキが!」
モヒカンは殴ろうとして胸ぐらを掴んでいた少年を投げ飛ばして、僕の方に襲い掛かって来る。
モヒカンは拳を思い切り振りかぶって僕へと殴りつけようとする。僕は必死によけようとするのだが、体が全く反応しない。指がちょっと動いて、体がちょっとだけ後ろに動くくらいのものだ。あまりの怖さに、まるでスローモーションのようにゆっくりと近づく拳を、動かない体では避ける事もできず、思い切り頬に拳を叩きつけられて、目の前に星が飛んで、世界がクルクルと回りだす。
地面に頭をこすりつけて、痛みで涙目になりそうだった。虐めっ子に殴られ慣れているとは言え、さすがに大人の拳は痛すぎる。
そんな時、俺を殴る前に地面に放り投げられていた少年は、体をゆっくりと起こそうとしている姿が、僕の視界の隅に入る。
僕もグルグル回る目が徐々に定まってきたので、直に『逃亡』という判断に行き着く。
何だかおっかない男達は殴った僕を罵倒しているようだが、頭がグルグルしていてあまり聞こえていなかった。ひざがガクガクしてるけど、そこは根性で堪える。
モヒカンが僕に近付こうとしているのを見える。殴られて随分と吹き飛ばされたようで、思った以上に距離が離れている様に感じる。痛みはあるけど、我慢できる痛みだ。
そこで、追いかけられていた少年と目が合う。僕達は運よく彼らから一定の距離を取った状態になっていた。
僕と少年は同時に、同じ方向、モヒカンの背後、スキンヘッドの方へ走り出す。
「あ、テメエら、待ちやがれ!」
「くっ」
スキンヘッドは完全に棒立ちだったので2人同時に左右から逃げようとする僕達を捕らえられず両手を振り回すしか出来なかった。
僕と少年は2人で必死に走って逃げる。
「テメエラ、待ちやがれ!」
「逃げんじゃねえぞ、コラ!」
そんな事を言われて逃げない奴がいるのだろうか?
とにかく逃げるしかなかった。
とにかくスラムは恐ろしい、それが僕の得た教訓であった。