閑話~リラ・ミハイロワ~
何というヘタレなのだろうか?
いや、高所恐怖症なのは分かるけど。
俺、リラ・ミハイロワはエレベータに乗るレンを見上げながら思い切り溜息を吐く。
このフィロソフィア居住区の下層に住まう輩に嵌められて、デスマッチ形式のレースする羽目になったヘタレ野郎ことレンの飛行技師をする事になった。
当のレンだが、飛行士志望で空を飛ぶのが夢だった、小さい頃は親と一緒にスカイリンクへ行っていたとか口にしていた筈だが、簡易エレベータで高い場所に登るのさえ四苦八苦しているのだ。
腰が引けた状態で簡易エレベータに乗り、涙目でどんどん高い所に登っていくのを悲しんでいた。さながら生まれたての仔馬のような恰好で、ドナドナに出て来る仔牛のように運ばれて言った。
涙目のレンはまず上のスタート地点まで登ると、腰を引けたままゆっくりおどおどとスタート台に近づき、そーと足を延ばし台の上に伸せる。
お湯の熱い風呂場にでも入るような感じだ。
足を乗せても、簡易エレベータについている手すりにつかまったままで、エールダンジェを起動させる。
背中から光の翼が3対6枚が放出される。体から重力が切り離されて、そこでやっとレンはほっとした表情になり、飛行を開始する。
飛行練習場となっているチェリーさんの作業場で右に左にグルグルと回る。
チェリーさんに教わった基礎飛行練習のメニューを着実にこなす。この基礎飛行練習方法はチェリーさんが学生時代からやっていたという、太陽系で行なわれる飛行士にとっても標準的なものだ。元世界最高のエアリアル・レースクラブであり、世界最大のエールダンジェメーカーであるジェネラルウイングの基礎飛行練習方法だから筋金入りである。
チェリーさんはこの業界から足を洗っても、さすがに元一流飛行士であり、元一流飛行技師であった為、一つ一つが的確なのはさすがだ。
レンはそんな太陽系中の飛行士達全てが行なうだろう練習を日々こなしていた。
だが、センスがないのだろう。上手くなる雰囲気が全くない。これが軍用遺伝子保持者と一般人の差なのだとつくづく思い知らされる。
一般人でも世界で戦って勝つという俺の目標だが、少なくとも一般人の飛行士を勝たせるという事は限りなく困難なようだ。
レンは飛行練習を一通りやると、着陸してエンルギ補給を行なう。
そして、再び走ってエレベータのに乗る。そして、エレベータの上へ行くボタンを押すのに何度も躊躇い、最後はエレベータの床にしゃがみこんで目をつぶってポチッとボタンを押す。
駆動音と共にエレベータが上に進むのだが、レンは目をつぶって震えながら上に上がるのを耐える。
上に登り切りエレベータが止まるって体を揺らすと、体を一瞬痙攣させるように驚いて涙目になっていた。
それ、何回目?そう突っ込みたくなるのだが、やはり高い場所が怖いようだ。それでも手を床に付けたままゆっくりと腰だけを持ち上げて、床から壁へと手を付けながらゆっくりと立ち上がる。足はしっかりと震えていた。
だが手をゆっくりと解放してエールダンジェを起動させ、体を宙に浮かせる。
何度かレンの状態を見ながら分かったのだが、どうも高い場所と重力感がとにかく怖いようだ。飛行時も重力感を完全に無くせばホッとするのだが、少しでも重力感を感じさせるような飛行をすると体を硬直させて重力感が消えるまでまともに動けなくなる。
チェリーさんが俺の調整する為のポイントを抜き出している状況を見ているのだが、
「ハンデキャップが大きいわね。ただでさえ才能が無いのに」
というボヤキだけが俺の耳に入る。
従来、飛行士は重力感を残すことで自分の重心がどこに向いているか分かる事は、レース場での方向感覚をしっかりと体感することが出来る重要な要素だ。さらに重力を感じさせない為のエネルギーを使う必要もないから、出力を削る量も少なくなる。
「素人の高所恐怖症なんて、どうやって逃がせば良いんだよ」
俺はあまりにも高いレベルの仕事をする羽目になって大きく溜息を吐く。
「負けて当然よ」
「分かってるよ、それは。10分ハーフといっても、あれは殺し合いだ。レースでさえないんだから」
「そうねぇ」
「くそっ……どうやったら…」
「まあ、聞きたいことがあったらいくらでも聞いて良いわよ」
「あんがと」
チェリーさんが去り、俺は頭上で延々と練習し続けるレンを一瞥してから再び対策を練る。
だが、どう考えてもレンが勝てる可能性が頭の中にわかない。そう、内心では分かっているのだ。ド素人のレンの対戦相手は、どうしようもないクズであるが、レティシャよりも格上の高等学校で全月大会出場者だ。コンビを組んでた相手がレティシャだったとしても勝てたか怪しい。
だが、負けたくはない。
そうだ、確かに以前の相棒には事故で死なれてしまったが、俺の目標は世界一なんだ。エリック・シルベストルを越えなければならないんだ。どんな飛行士を受け持っても、どんな対戦相手でも勝てるようにならなければならない。飛行技師王と謳われたエリック・シルベストルはそんな飛行技師だったのだから。
だったら、レティシャより格上とはいえ落ちぶれた飛行士を相手に、勝てないまでも10分逃がすくらいできなくてどうするんだ。
同じ年代には、レティシャ以上かもしれない、桜みたいな化物がいるのに、俺は何を恐れようと言うのか。元より、その高みを求めてこの地にやって来た筈じゃないか。
俺は弱気になっていた事を思い直し、調整する為のデータを集め、対戦相手の過去のレースデータも集めて、どうやったらレンが逃げれるか、あわよくば勝利できるかをあらゆる角度から考える。
「そうだ、負けてたまるか。こんな所で…」
チャンスを与えてくれたチェリーさんに感謝をする。
そして……
俺はチラリと上空を再び眺める。
レンは素人で高所恐怖症で、上に行くエレベータのボタンを押すのさえも苦痛というヘタレなのだが、一つだけ可能性があった。
多くの飛行士の卵がへこたれる基礎飛行練習、様々な姿勢で同じような飛行をただただ反復運動する苦行のような練習を、レンは貪欲にやっていた。
決して弱音を吐かず、素人が最も上級者に近づく早道である練習をただただやり続けていた。
***
ついにレースの日がやって来た。
この2週間、ほとんど寝ないであらゆる手段でレンを生かす為の方法を探し続けた。ギリギリ間に合っただろうか?
機体差はほとんどないが、飛行士の差が激しく違う。だが、過去のレースを見る限り、元高校全月大会出場者とは思えない程に衰えているのが分かる。下層に落ちてまともに練習をしていないのだろう。
とにかくレンの機体は感度を良くしてノイズを消すことに努めた。咄嗟の動きで攻撃が避けられれば、レンとて逃げ切れる可能性がある。部品が壊れてもある程度無理なく動けるように保険に保険を重ねた調整だから、機体は非常にセンシティブだ。
だが、逃げ切る為の調整は結局のところ万が一にもレンが対戦相手マリウス・カルマンに勝つとしたらこういう機体しかありえない、そういう調整に持って行けたと思っている。
練習は裏切らないと言うが、それを言うなら、恐らくこの下層に落ちる前のマリウス・カルマンは2週間猛練習を積んだだけのレンなんか比べ物にもならない位の練習を積んできたはずだ。元々の才能もあったうえでだ。勝てる可能性は万が一どころか兆が一にもないかもしれない。
だけど、それが唯一のチャンスだと思う。
あまりにも圧倒的な差が相手を油断させる。7点取らずに再起不能にするやり方で勝利を狙うから攻撃の出力過多になって、その分だけスピードは低く設定されている筈。相手の攻撃が分かっているならある程度やり方もある。
俺は最後の調整を終えて機体をレンに着けてもらう。
「最後に締めるからな」
エールダンジェの最後のチェックを行なってから、胸元の外部装甲と電力供給装置、重力翼制御装置の3点を固定する大きなボルトをスパナで締める。
「とにかく、機動性や敏捷性を重視して調整した。スポーツ仕様だから最高速自体は時速400キロくらいしか出ないけど、対戦相手はお前を殺す為に出力上げてるから300キロを超える事は無いし、速度だけなら十分なマージン設定はしてる」
「……嫌な理由だ」
俺の説明にどんよりするレン。でも、それが唯一の相手の弱点でもあるんだ。
「というか、このフィロソフィアで使われるエールダンジェは軍用が多いから、俊敏性よりも攻撃性能過多なんだよ。フィロソフィアネットを探してマリウスのレースを5つくらい見たけど、少なくとも相手の200キロ程度で追いかけるような飛行だった。学生時代と全然違うからラッキーだな。インターハイの時の飛行をされたら万に一も逃げる事は不可能だ」
「な、なるほど」
レンはそこにチャンスを感じたようで少しだけ明るくなる。
そう、相手は攻撃で潰すことしか考えてないから、そこが逆に突破口になっている。
「とはいえ、レースは水モノだし、お前も練習じゃ100キロくらいまでしか出せなかっただろ?」
「ううう」
「レース場が倍に広がったからもっとスピードは出せると思う。練習場は狭いから動きにくいだけだしな。ただ、お前がどこまで飛べるかは俺も分からねえし、何より……俺やお前みたいなU12の大会って時速200キロの出力制限が掛ってるからな。時速200キロで戦う事自体が未知の領域なのは確かだ。でも、とにかくやばかったら飛ばせ。それしかないからな」
「そもそも相手が元インターハイ選手って時点で、逃げられたら奇跡なのは分かってるよぉ。その奇蹟に賭けるしかないんだよね」
遠回りに言えば、生き残るのが奇跡なのだが、それは触れないでおこう。本人も腹を括っているようだ。
とにかく、俺もレンもこの2週間、やる事だけはやった。
後は人事を尽くして天命を待つといった所だろう。神の存在が科学によって否定された現在においても、そうとしか言いようがない状況だ。
「時間がないし、お前は気絶ばっかりしてたし、そもそもチェリーさんの工房兼飛行場は狭いから速度耐性がどこまであるか分からなかったからな。だからお前がどの速度まで飛行制御できるかは俺もわかんねえ。だから最後はやっぱり俺じゃなくてお前の能力次第だ。俺は少なくとも基礎だけで相手に勝てる機体には仕立てた積もりだ。咄嗟に逃げれるように感度もよくしてあるから、多少の事ならどうにかなる筈だ」
「うん。ありがと。僕、頑張るよ」
レンはコクコクと頷いて小さく気合を入れる。
すると試合が終わったのか、レース場の方から歓声が一際大きく聞こえる。
程なくすると、ガラガラッと音を立てて鉄格子が上に持ち上がる。
そこで俺達が待機してた部屋に、機械の担架に乗せられて運ばれてくる人影があった。
「!」
担架に運ばれて来たのは人間の死体だった。手足があらぬ方向に曲がって血まみれになっており、担架は出入り口の方ではなく処分場へと直行する。
一瞬、1月前の悪夢を思い出される。自分の飛行士が死んだときもこんな感じだった。無論、このアンダーカジノではなく、上層や中層の公で賭博をするフィロソフィアカジノでは処分場なんかに死体を運ぶことは無いが。
レンが明らかに動揺して体を震わせていた。せっかく調整したのに、これは明らかに機体性能を落すほど精神に乱れが生じていた。
だが、俺とてどんな声を掛けてやればいいかが分からなかった。
「と、とにかく、……死ぬなよな」
レンの胸元を拳で小さく叩く。これは、小さい頃、レティシャにしてもらったおまじないだった。度胸を示せという励ましだったと思う。
俺はレンに背を向けてその場を去ろうとする。
「えと、そのありがとうね」
レンは俺に感謝の言葉を掛ける。だが、今思えば、レースなんて受けずに逃げてしまった方が生き延びる可能性はあったのではないかと思ってしまう。
感謝なんてしてくれるなと、そう口に出そうとして言葉を止める。レンを不安にさせるのはよくないからだ。
「生き延びてからにしろよ、それは」
レンの顔をまともに見ることが出来ず、ただそうあって欲しいと願う言葉だけを掛けて去る事しかできなかった。
***
俺がフィロソフィアアンダーカジノのエアリアルレース場の座席に座る。
レース開始も間もなくといった時間でようやくチェリーさんがやってくる。
「レンちゃんには悪い事をしたわ」
そんな事を口にするチェリーさん。
「?」
俺は首を傾げる。さっきこっちに来るときチラッとレンの控室の方へ向かう人影を見たが、どうやらチェリーさんだったようだ。
「何か悪い事言ったのか?」
「ええ、今更のネタバレよ」
「ネタバレ?」
「リーちゃんも気付いてなかったようね」
「あ?」
「ここ、下層ではレースをキャンセルしても借金なんて増えないのよ。だって、破産してきた人間がここに来るのよ?カジノを見ればわかるけど、頻繁にレースのキャンセルや突発レースが発生したりしていたでしょう?」
チェリーさんの言葉に、俺は言葉を失う。
つまり、確かにレンはマリウスと対戦カードを無理矢理作られていたが、別にバックレてしまっても問題なかったと言っていたのだ。
「ちょ、待てよ!だったらレースなんてやる必要なかったじゃねえか!」
「そうね」
「今すぐ、アイツを連れ戻せば…」
慌てて立ち上がりレース場の方を見るが、よく見ればレース場の両端にある選手控えになっているスタート台の上には、既にレンとマリウスが立ついた。
若干、レンは顔を真っ青にしてレース場の外側にある牢屋を掴んで何か叫んでいるようだが。
「無理よ。ちゃんとレース場から出れない状態になるのを確かめてきたもの」
「なっ……、何の恨みがあってそんな事を!」
「恨みなんてないわよ。ただ必要な事をしただけね」
「必要?」
「貴方が飛行技師として歩き出す為にね」
チェリーさんは淡々と答える言葉に、俺は冷たいものを感じる。
「リーちゃんは何があっても世界一になると言っていたのに、飛行士を失って以来、らしくなかった。レースに向き合う切欠が欲しかったのよ」
「それがレンだったと?」
「ええ」
チェリーさんは真面目な顔でうなずく。
俺の背中に冷たいものが伝う。
「そ、それじゃ、まるでアイツは…」
「そう。だからレンちゃんには悪いと思ってるわ。最初から受ける必要のなかったレースなのよ。リーちゃんに再びレースと向き合う為に、わざと黙って、機体を貸し出してレンちゃんを死地においやり、リーちゃんに本気でレースに向き合わせたの」
「そんな……」
俺は愕然とする。俺がその事実に気付いていれば回避できたのに。
「レンちゃんは良い子よね。気弱だけど、素直だし、高所恐怖症だけど、きっと飛ぶのが大好きなのでしょうね。命の掛かったレースが先にあるのに、基礎飛行練習をするときだけは楽しそうだったもの。1人の飛行士として心が痛むわ。でも、私の買ったリラ・ミハイロワがこんな場所で足を止めて朽ちるなんて絶対に許さない」
チェリーさんはジロリと俺を見る。
そうだ、俺は飛行技師として生きると決めてここに来た。だが、しかし……。
「飛行技師は全てを養分にして生きていかなければならないわ。前の飛行士の子の時もそう、そしてレンちゃんの死をも養分にしなさい」
死
その通りだ。確かに最善は尽くした。だが、恐らく99.9%以上の確率でレンは死ぬだろう。その位の差が対戦相手とレンの間には存在していた。
カウントダウンが10秒を切る。
俺はあまりの事実をいまさらな話を聞かされて、まともにレンの姿を見る事も出来なかった。
そして、レースの幕が切って落とされる。
レースはレンが逃げて、マリウスが追いかけるという展開になるのだが、明らかにマリウスは手を抜いていた。
これは俺の予想通りだった。マリウスは遊びながら追い回すという展開。
基礎飛行の一つ蛇行をつかって、れんは必死にマリウスに銃撃で追い立てられるのを必死によけながら飛び続ける。
俺はもはや当たらない事を祈るしかできない。両手を合わせて祈るだけしかできないでいた。
「耐えなさい。これは貴方が今後、進むために必要だった事。受け入れなきゃダメよ。そしてちゃんと結果を受け入れるのよ」
チェリーさんは俺を励ますように肩を抱き、声を掛ける。
今更、後の祭りだ。
俺がウジウジしていたせいで同郷の同学年の男の子を死地に向けてしまったのだ。
そんな中、ついにレンに銃撃が炸裂する。強力な威力が脇腹に入り、レンの顔が苦痛に歪む。一気に落ちそうになるが、重力に引き寄せられて落ちることは無い筈だ。そうならないように設定していた。
レンは落下せずにどうにか持ち直す。
何とか俺も息をついて安心する。まだ逃げれるチャンスは十分にある筈だ。だが、レンの動きがおかしい。どうやらあの一撃で骨にダメージが入った可能性が高かった。
怪我まではさすがに織り込んでないけど、咄嗟に逃げれるようにしたのは確かだ。逃げるだけの調整が生きたと言えるだろう。
だが、ついにレンはマリウスの魔の手に捕まってしまう。
レンは光の弾丸を頭に食らい、ヘッドギアが壊されて頭から外れてしまう。さらに追い撃つようにマリウスはレンに近づいて蹴りを入れ、地面の方へと吹き飛ばされる。
あまりに衝撃が激しく、周りは大きく盛り上がる。さすが下衆の集まる裏カジノ。
地面に落ちたレンはぐったりしており、そこにマリウスは重力制御輪体付靴による前蹴りを入れる為に、レンの頭に向けて右足で突っ込みに来る。
「やめろ、やめてくれ!」
さすがに防御態勢は完璧にしていたが、相手は規定を超えた攻撃性能で仕留めに来ている。人間の頭なんて簡単につぶれる威力の蹴りがレンの頭へと飛んでいく。
「自分のやった結果を見なさい。リーちゃん。それを乗り越えて行くのよ。貴方はこれを乗り越えてプロになっていかねばならないのよ」
チェリーさんの言葉に歯をきしませ、そして俺はレンの恐怖に引きつった顔を見る。
レンの頭が潰れて死ぬ、そう感じた。
「「!?」」
だが、予想に反して、レンはマリウスのとどめの一撃となる蹴りを紙一重でかわしたのだ。
レンはそこから再び逃げ、マリウスは何やら叫びながら追いかける。
飛行士はまだ諦めてなかった。俺は心の底からホッと息を吐く。だが、まだ窮地から脱しただけで、危機なのは変わっていない。レース場にいる限り、レンは獲物で、マリウスは狩人でしかなかったのだから。
再び、逃げるレンと追うマリウスという構図になる。
レンは更にアクセルを握り、逃げる。様々な情報サポートをしてくれるヘッドギアを失ったせいなのか、完全にオーバースピードだ。確かに早く飛べるように設定はしたが、レンはそこまで速い速度で飛べる練習なんて一切してなかった。
「え?」
「ちょ」
そこで私だけじゃなく、チェリーさんも驚いたような声を漏らす。
レンの速度はどんどん上がっていく。それでも飛行ミスは一切しない。これ以上は危ないと思ったが、レンは全く体をぶれる事もなくマリウスが飛べる速度域をぶっちぎって振り切ってしまう。
マリウスは振り切られてショートカットを狙うが、レンは更に速度をあげる。
設定最高速度400km/hに達していた。手を見れば拳を握り切っている。フルアクセル状態だった。
「ちょ、高校のトップだってこんな速度で飛び続けられないわよ」
チェリーさんが驚きの声を上げるのは分かる。レンの飛行は完全にオーバースピードだ。
トッププロなら遅い方だが、俺達前期中学は最高速度200km/h規制があるが、そもそも100km/hを超えるくらいでレースをする。後期中学になればそれを超える事が許されても、全月大会では200km/hを超える選手は少ない。
「基礎だけでバランスを取ってるのか。そりゃ、基礎だけしかやってなかったけど…」
俺はレンが速く飛び過ぎてバランスを崩すのを心配したが、全くの杞憂だった。恐らく、レンも相手を遅いと感じたのだろう。攻撃に転じ始める。
ここから先はもはや独壇場だった。
まるでどっちが格上なのか分からない程、スピードに差が出来ていた。レンは上手く射撃が決まらないと気付けば、相手に密着する程近づいて射撃をしてポイントを次々と奪っていく。
やがてそのスピードで飛ぶ楽しさに魅入られたようにマリウスのポイントを奪っていく。
「信じられない」
「逃げるどころじゃない。どっちが格上なんだよ」
チェリーさんが信じられないのも当然だ。このレースに出る前のレンをさんざん見てきたんだ。
レンも恐らく自分の方が圧倒的に強い状況にあることに気付いたのだろう。堪えようとする笑いを抑えられないと言った感じで、次々とポイントを奪っていく。
「あの子、スピード感覚や目の良さが半端じゃない。恐らく極限状態で集中力が増したせいか。恐らくはまともに練習もせずに、昔取った杵柄だけで勝っているマリウスなんかじゃ話にならないわ。年に1度位、才能の無い子でも、稀に高い集中力を更に極めたゾーンに入る感覚を掴んで、急に上位へ食い込めるようになったりするけど。このレベルで、そこに辿り着いた子を、私は生で初めて見たわ」
チェリーさんはあまりの驚きに凍り付いていた。
俺もだ。鳥肌が立っていた。今、自分の飛行士が、自分の調整した機体の全てを使い、遥か格上の相手をまるで自分が遥かな格上のように料理しているのだ。
マリウスは飛んでいるスピード域が余りに違い過ぎて目に脅えが映る。それ位、飛行士として格の違いを、ド素人のレンが元全月高校大会出場者を圧倒していた。もしもレンに殺す気があれば、おそらく衰え切ったマリウスならば容易に殺せるだろう。その位の差が
ビーッ
『7対3 レナード・アスター選手、KO勝利です!』
電子ブザーの音が響き、レンの勝利が放送される。
その瞬間、会場はすさまじい怒声が響き渡る。オッズにしても大穴が開いたからだ。
「何て子なの」
「あのド素人が、全盛期ならレティシャにも勝てるような奴に…勝っちゃった」
あまりの事に俺も信じられなかった。
「どんな飛行士だって、100キロの壁、200キロの壁、300キロの壁と、多くスピードの壁を感じるものだけど、素人のまま300キロを超えて飛ぶなんて。確かに逃げ切るにはそれが出来なきゃ厳しいっていう形で練習させていたけど」
元全月代表選手であり、ワールドトーナメント優勝キャプテンを務めたチェリーさんでさえ、あまりの事に驚いていた。
「まあ、でも…良かった、生き残って」
俺としてはただそれだけで良かった。勝利はおまけに過ぎない。今回の第一優先は飛行士を生かす事だったんだから。
立ち上がって迎えに行こうかとする俺に、チェリーさんが声をかけてくる。
「リーちゃん、あの子と組んだらどうかしら」
「は?」
「あの子、どこまで来るか分からないし、軍用遺伝子保持者じゃないから才能も怪しい。だけど、現時点でプロの壁は超える可能性があるわ。リーちゃんがプロの飛行技師になるなら、プロクラブと契約するまでフリーで戦う必要がある。あの子はそこまで一緒に飛べる。まるで……運命が導いたかのような」
ロマンチックな話が好きなおっさんはともかく、俺にはやる事がある。
まずはレンを騙してデスレースにぶち込んでくれた目の前のおっさんにきっちり代償を払ってもらわないといけないだろう。話はそれからだ。
そう思って、少しだけ楽しくなってくるのだった。