生贄
僕はレースに向けて練習に練習を重ねた。
最初は高く飛べなかったけど、リラが僕がどうしたら怖くなるのかを把握して、その怖くなる要因を取り除いてくれたようで、飛ぶだけなら全然大丈夫になった。
但し、スタート台から飛び降りながら飛ぶのではなく、スタート台から即座に飛行しないと重力の落下感を感じてダメらしい。
通常のスタートはスタート台を走ってダイブし、空中で勢いをついたままエールダンジェを起動させて飛ぶというのが一般的だ。
だが、それができないのが僕の現状。カウント0と同時にエールダンジェを起動させて宙に浮いて、横に加速させるという、スタートするという方策をとることに決まった。
だが、練習の中でも20回のスタート練習の中で3回ほどは失敗して気絶した。開始から3秒くらいで相手が辿り着くという事実を説明されていたので、早く出発する練習をしていると、どうしても焦って起動せずにダイブしてしまい、落下してしまったのだ。
自分でも、もう気絶癖がついたのではないかと思うくらいだ。
このアンダーカジノでの賭博エアリアルレースのレース時間は10分間。レース終了は制限時間が尽きるか、どちらか先に7ポイントを落とされるまでとされている。
でも実際には制限時間と命のどちらかが尽きるまでみたいだ。
チェリーさんからエールダンジェを貸してもらえたのは感謝である。その代わり持ち出せないように、今現在、軟禁されているんだけど。
言われてみれば、エールダンジェを売って逃げた方が早い気もする。とはいえ、レースをバックレたらまた下層に落とされるのが目に見えているので、どうしようもないけど。
結局、今の流れから逆らえないようだった。
***
そして、ついにレース当日がやってきた。僕はレースをする為にカジノの奥にあるエアリアルレース専用スタジアムへとやって来ていた。
選手総合控室には二つの道があり、僕らは右側の道を通される。対戦相手は左側に行くのだろうか、とぼんやり考える。
カジノの係の人に通された場所は飛行士控え室兼飛行技師用作業室だった。レース場のある場所の方には、鉄格子が存在していた。鉄格子の奥はスタート台があり、その先にはレース場が見える。
鉄格子を出るとすぐにレース開始できるような作りになっているようだ。
飛行技師の入れるスペースは無いので、あの鉄格子の奥は本当に二人飛行士だけしか入れないようだ。なんだかプロレスの金網デスマッチみたいだ。あっちは死なないデスマッチだけど、こっちは死ぬデスマッチらしい。
僕のレースまで20分前になるが、どうやら僕らより先に行われるレースが、現在進行形で行なわれているようだった。
リラはこの2週間、ほとんど睡眠をとらないで僕のために機体調整をし続けてくれた。
そして、今、最後まで調整をして、控室についているエネルギコードをエールダンジェに差してエネルギー補充をする。
それが終わるとリラは僕にエールダンジェを装着させる。
「最後に締めるからな」
エールダンジェの最後のチェックを行なってから、胸元のアウターパネルとエネルギーパック、ウイングフレームの3点をを固定する大きなボルトをスパナで締めていた。
これが飛行技師の飛行士に出来る最後の仕事とも言える。
「とにかく、機動性や敏捷性を重視して調整した。スポーツ仕様だから最高速自体は時速400キロくらいしか出ないけど、対戦相手はお前を殺す為に出力上げてるから300キロを超える事は無いし、速度だけなら十分なマージン設定はしてる」
「……嫌な理由だ」
「というか、このフィロソフィアで使われるエールダンジェは軍用が多いから、俊敏性よりも攻撃性能過多なんだよ。フィロソフィアネットを探してマリウスのレースを2つくらい見たけど、少なくとも相手の200キロ程度で追いかけるような飛行だった。学生時代と全然違うからラッキーだな。インターハイの時の飛行をされたら万に一も逃げる事は不可能だ」
「な、なるほど」
リラは調整するのにそこまで調べていたのか。なんだかプロっぽい。
「とはいえ、レースは水モノだし、お前も練習じゃ100キロくらいまでしか出せなかっただろ?」
「ううう」
「レース場が倍以上に広がってるからもっとスピードは出せると思う。練習場は狭いから動きにくいだけだしな。ただ、お前がどこまで飛べるかは俺も分からねえし、何より……俺やお前みたいなU12の大会って時速200キロの出力制限が掛ってるからな。時速200キロで戦う事自体が未知の領域なのは確かだ。でも、とにかくやばかったら飛ばせ。それしかないからな」
「そもそも相手が元インターハイ選手って時点で、逃げられたら奇跡なのは分かってるよぉ。その奇蹟に賭けるしかないんだよね」
というか、奇跡を起こさない限り生きる道がない。そもそもレースに出なければ莫大な借金を背負わされて、どうなってしまうかさっぱり分からない。もしかして凶悪事件を起こした犯罪者のいる最下層行きとかになるかもしれないし。
よく分からないけど。
「時間がないし、お前は気絶ばっかりしてたし、そもそもチェリーさんの工房兼飛行場は狭いから速度耐性がどこまであるか分からなかったからな。だからお前がどの速度まで飛行制御できるかは俺もわかんねえ。だから最後はやっぱり俺じゃなくてお前の能力次第だ。俺は少なくとも基礎だけで相手に勝てる機体には仕立てた積もりだ。咄嗟に逃げれるように感度もよくしてあるから、多少の事ならどうにかなる筈だ」
「うん。ありがと。僕、頑張るよ」
僕はコクコクと頷く。
すると試合が終わったのか、歓声がさらに一際大きくなる。
程なくしてガラガラッと音を立てて鉄格子が上に持ち上がる。
そこで僕らの待機してた部屋に、機械の担架に乗せられて運ばれてくる人影があった。
「!」
だが信じられない光景に僕は恐怖を感じる。
レースを見た事があったのだから、敗者がどうなるかなど覚悟くらいはしていた筈だ。
だが、担架に乗せられた人間は両手両足があらぬ方向に曲がっており血塗れで人の形を留めていなかった。そして担架は僕達の入ってきた『出入口』ではなく『処分場』という方向へ運ばれていく。
あと10分後には試合が始まり、20分後にはレースが終わる。
その時、自分がどうなってしまうのかを想像して寒いものが体中を駆け抜ける。
「と、とにかく、……死ぬなよな」
コツン
リラは僕の胸を拳で叩いて苦しそうな顔で声を掛けてくれる。そして、この控え室から去ろうと出入口の方へ歩き始める。
「えと、そのありがとうね」
「生き延びてからにしろよ、それは」
リラは僕の方を振り返らず、手を軽く振って去っていく。
***
一人になって静かになり、恐怖を感じだす。
ズタズタにされた人間を目の前で見せられたからか。体が怖くて震えが止まらない。生き残るんだ、そう願いながら、ギュッと手と手を握りしめる。
いや、いっそ逃げた方が良いんじゃないか?
莫大な借金を負わされても生きていればどうにかなる。このレースは出たら死ぬ。家族で飛んだことがあるだけの素人の僕が、元高校で州代表になった事のある飛行士と戦って逃げれる筈がない。
相手は殺しに来るのだ。
でも、それじゃあ、協力してくれた人たちを裏切る事にもなる。
どうしよう。
ぐるんぐるんと考えていると、入り口の方のドアが開く。
ビクッと反応してしまうが、そっちの方を見るとそこにはチェリーさんがやって来ていた。
係りの人がやってきたのかと思った。
「チェリーさん?」
「レンちゃんが怖くて震えてるのかと思って励ましに来たのよ」
「そ、そう……」
ここに居られたら逃げるに逃げれないんだけど。
なんか、もうレース開始までのカウントダウンの時計が、自分の死刑執行のカウントダウンに見えてきた。
『レース開始5分前です。選手はスタート台へ準備してください』
「あら、もう、レースみたいね。取り敢えず中に入った入った」
「あ、はい、そうですね」
放送が流れて、僕はチェリーさんに押し出されるように鉄格子のある場所の奥へと入る。
すると鉄格子が音を立てて下に降りてくる。鉄格子によって控室からも隔てられ、僕はスタート台に一人立たされる羽目になる。
これは怖い。
今、対戦相手とは鉄格子のなかで二人きりとなっていた。
僕はスタート台に立ち、鉄格子の外にいるチェリーさんを見る。
「で、その、何か用だったんですか?」
僕の問いにチェリーさんは酷く申し訳無さそうな顔をする。そして僕の問いに答えようともしなかった。
何なんだろうと首を捻る。
「あなた、リーちゃんにお世話になっていたでしょう?あの子がいなかったら死んでいてもおかしく無かった。そうでしょう?」
「ま、まあ、そうですね。それに生き残る為にここまで調整して練習にも付き合ってくれたし」
「そうね、リーちゃんは基本的にぶっきらぼうで男っぽいところがあるけど、心根は凄く優しい子。だから、あの子は上層で担当した飛行士が死んでしまってから、担当を持とうとしなかったわ」
少し遠い目をしてチェリーさんがリラの事を想う。
「あれ、下層では信じる相手がいないから担当になんてなれないって聞いてたけど」
僕は大前提が異なる事に首を捻るのだった。
「それは建前よ。モバイル端末を使えば現物支給なんてしなくても問題ないし、やりようによってはいくらでも出来るわ。そして、あの子は上層で基礎学校の子供とは思えない程、勝ち星を挙げていた。知識がある訳じゃない、技術が高いわけでもない。それでも自分の選手と対戦相手の戦力分析による調整と勘だけでね。だから、働くことはできないわけじゃなかったのよ。私が裏でバックアップしてるのを知ってるから迂闊に手を出すバカもいないでしょうし」
「あ……」
チェリーさんは僕にリラの抱えていた問題を話す。
単純に言えば、リラは受け持った飛行士がまた死ぬ事を怖がって、新しい飛行士を受け持とうとしなかった。
「だから最初に謝っておくわ。貴方には本当に申し訳ないと思ってる。私は酷い女ね」
いやいや、アンタ、男やろ
レース前に思いっきり突っ込みたくなったけど、そこは黙っておく。というか、何で僕が謝られるの?
「私はあの子を再び立ち上がらせたかった。あの子にはセンスがある。あの子の野望は大きくて、正直、私は無理だと思ってる。でも、あの子の理論は、まだ誰も試した事の無いもの。師匠……いえ、飛行技師王の論理とは異なる論理が作られるかもしれない。あの子が無理でも、あの子を見て誰かが大成させるかもしれない。それくらい意義のある形を作っているのよ」
元プロ飛行士兼飛行技師だったというチェリーさんはかなりリラを買っているようだ。
リラ自身に多くを期待はしていないけど、リラがやろうとしている事を応援しているようでもあった。
「そんな子が、たかが凡庸な1人の飛行士を失っただけで、消えるのは嫌だったわ。プロを目指すなら超えていくべき壁なのだから。無論、そんな体験を出来るものでは無いけれど、飛行士の死を自分のせいにする必要なんてない」
チェリーさんの説明に僕は納得する。
つまりチェリーさんは再びリラに担当飛行技師をやって欲しかったという事だろう。僕に半ば無理やり担当させようとしたのはそういう意図があったのか。
そもそもリラは僕の飛行技師になる事を最初は嫌がっていた。
それにしても、元プロから見てもリラはセンスがあるのかぁ。僕じゃ全然分からなかったけど。っていうかチェリーさんってどの程度のプロだったの?
僕の疑問は尽きない。
「だから……私は貴方を生贄にさせてもらう。貴方はレースに出れば間違い無く死ぬわ。相手の子は暴行罪で逮捕されて地下スラムに落ちてきたプロ飛行士資格を持つ子だからね」
「!?……相手ってプロ…なの?」
プロ資格は僕でも受験すれば受けられる。
実績と関係なく必要な技術と知識があればプロになれるのだ。とはいえ、後期中学生や高校生でも全国大会に出るレベルじゃないとプロ資格なんてとても受からない。言われてみれば元インターハイ出場者というのだから元プロだって不思議ではない。
僕はとんでもない相手と戦う羽目になった事を教えられて驚くしか出来なかった。運が悪すぎる。
「ごめんなさいね。貴方には本当に申し訳ないと思ってる。私はリーちゃん、リラ・ミハイロワの為に貴方を殺させて貰う。でも貴方の死はきっと無駄にならない。いずれ世界を変えるような飛行技師になる養分となって生きていく。あの子はここで飛行技師であろうと飛行士の失敗さえも血肉に変える事が出来る事を覚える。1人を事故で失わせた位でウジウジさせるつもりは無いの」
チェリーさんは何度と無く申し訳無さそうに謝る。
「でもどっちにしても僕はレースで殺されちゃうかもしれなかったし、逃げる方法を教えてくれたリラやこんな良いエールダンジェを貸してくれたチェリーさんにも感謝しか…」
謝られても、僕からすれば感謝しかない話だ。
勝てないレースにろくな装備も無しで放り込まれて殺される。死ぬような借金を背負わされるか死ぬかの二択だったのだ。少なくとも運よく生き残れる手段を指し示してくれたのだ。
どちらも100%死ぬ未来に対して、0.001%でも生き残れるチャンスを残してくれたのは、機体をくれたチェリーさんだった。
「それが勘違いなのよ。だって、そもそも、破産した人間が放り込まれる下層の人間がレースをボイコットした所で何のペナルティがあるっていうの?」
「え?」
「貴方もリーちゃんも気付いて無かったからね。そもそも…こんなレース、受ける必要なんて無かったのよ。多分、相手もこれに乗ってきたら儲け物程度にしか考えて無かったはずよ。そして、殺してエールダンジェを奪えたらラッキー、自分に全財産を賭けて大儲けできる、程度の事を考えていた筈ヨ。確かに上層や中層だったらレースに出なかったら補償金を払う羽目になり、金が足りなければ下層に落ちる。でも、下層ではそんなルールないわよ。だって下層は全員破産しているんだもの。借金なんて0より下には下がらない。身分の保証なんてあってないものなのよ。殺されていない可能性も高いんだし。勿論、1週間くらい出入禁止のペナルティ位は負うけど、そもそも名前と身分を変えてしまえば直に出れるわけだし」
「!」
受けなくても良いレースだった!?
チェリーさんの暴露は衝撃的どころではなかった。僕はチェリーさんに騙されて、殺し合いのレース場に放り込まれていたのだ。
ただ、リラが立ち直る為だけに、僕はチェリーさんに売られたのだ。
「貴方はあの子が立ち上がるのに良い踏み台だったわ。ありがとう。それじゃあ、さようなら。せめて苦しまずに死ねる事を祈っているわ」
チェリーさんは桃色の髪を揺らして、僕に背を向けて去って行く。
『レース開始2分前です』
レースは今にも始まろうとしていた。
僕は何も考えられなくなるくらいに動揺していた。
足元が崩れて行くような感覚に襲われる。
リラが言っていたじゃないか。ここにいる連中を信じるなと。
結局、このスラムに落ちて、信じられた人間はリラ本人だけだった。リラをバックアップしてた男でさえ、リラの為に僕を死地へと追い出したのだ。
レース前だと言うのに、悔しくて悲しくて、何故か目が霞んでくる。2週間も洗ってない汚れた服で僕は目元に溜まる涙を拭く。鉄格子から逃げれないかと必死に上に持ち上げようとするがびくともしない。
「助けて!誰か助けてよ!」
必死にここから逃げようと鉄格子を押し広げようとするが、びくともしない。する筈がない。叫んでも、レース場に集まる人々の声にかき消されていた。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!死にたくない!死にたくない!
レース場の方を見る。スタート台には楽しげに僕をみてニヤニヤと笑う青髪の男がいた。
マリウス・カルマン。
チェリーさん曰く、プロ資格を持つ飛行士らしい。犯罪者としてこの地下スラム最下層に落ちた男だ。
というか、この下層のスラムでは『KO負け=死亡』と言える状況だから、戦績は無敗なのだろう。悪かったら死ぬだけなのだから。
***
カウントダウンが10を切る。
レース場中央に半透明の空間ウインドウが開いていて、数字がコミカルに踊る。その数字の動き一つが腹立たしくさえ感じる。
僕は腰が引けたままスタート台に右足を乗せる。台というよりは高さが階段1つ分だけ高い段差がレース場の手前にあるだけともいえる。ガタガタと震えが止まらない。
高いからか、命の恐怖からか全然分からない。下を見ただけで気絶しそうなので前を向く。
レース場は直径200メートル、高さ200メートルの中空円柱状の空間でレースが行われ、僕はその丁度高さ100メートルの位置にある外壁からスタートをする。
凄まじい人数の観客はそれを取り囲むように座って見ていた。
レース場の上と下にはテレビ放映とおなじモニターもついている。プロと全く同じような形式である。観客が『殺せ殺せ』と怪しげな盛り上がりを見せている事以外は。
もはや恐怖しか存在しなかった。
レース開始のカウントダウンが処刑開始のカウントダウンか、自分の命のカウントダウンなのでは無いかと疑いたくなる程に。
だが、無常にもレース開始のカウントダウンを示す数字は、どんどん数が小さくなる。
0になると同時にレース開始の合図の電子音が鳴り響く。
僕は空を見上げながら、両手で握っている手袋型コントローラーを握り、斜め左側に飛ぶ。
良かった、まず第一関門のスタートで気絶しないで済んだ!
相手を見ると相手も左側に飛んだようで互いに上から見て時計回りに回るように飛行してレースが始まる。
実は通常のレースは反時計回り、つまり右側に飛ぶのが普通だ。左手に盾を持つので防御の手をレース場の内側に向けるのがセオリーなのだ。
リラ曰く、『相手はレンを舐めている。だからさっさと近付いて叩きのめしたいから逆周りで近づいてくるだろう』という指摘をしていたがその通りだったという訳だ。
僕は円柱状のレース場を時計回りに飛びながら、強く手袋型操縦器を握りしめ、速度を上げていく。
だけど、マリウスはショートカットをして一気に僕の背後へと迫ろうとする。僕はゆっくりと下へ方向を変えて逃亡を謀る。
「おらおらおら!逃げろ逃げろ!テメエの逃げが終わった時が最後だ、クソガキ!」
マリウスはニヤニヤと笑いながら重力光拳銃で僕を後から追い立てるように撃ってくる。
勿論、これは想定通りだ。彼から背後に回りこまれたら大きく蛇行しながら照準から外れるように動く。プロでもこうやって逃げるのはよくある事。
そもそも、この2週間練習したのは基礎飛行だけ、特に蛇行して相手から逃れる飛び方を重点に置いていた。
これもリラの想定した追いかけっこと同じで、相手の照準に合わないように必死に逃げる。
そして背後に突かれそうになったら照準が合って無くても、取り敢えず重力光拳銃で背後に牽制の射撃を入れる。
相手は殺すつもりなのだから点数を気にする必要はないはずだけど、飛行士なら絶対に逃げる習性が体に染みついている筈だと言っていた。
確かにマリウスは僕の射撃に対して態々左右に動いて照準を合わせないように動いていた。
僕が飛んでいると、ふとそこですれ違い様にリラの姿が観客席にいるのが見える。隣にピンク色のおっさんがいたから凄く分かりやすかった。
いつも偉そうでスパナを振って僕を脅してた男勝りのリラだが、神様がいない事を証明された現代にも関わらず、まるで神様に祈るように両手を組んで僕の方を見ていた。
いつもそうやってしおらしくしていれば女の子に見えるだろうに。
チェリーさんはリラを労わるように見ている。このオッサンはリラの味方ではあるが僕の敵だった。最初から気付くべきだったのだ。
でも、今更、後の祭りだ。
そんな中、僕の撃った光の弾丸がまぐれ当たりで相手の腕をかする。勿論、衝撃が低いし、腕はポイントにならないので別に点数をリードしたわけではない。
これが明らかにまずかったと認識したのは直にだった。
「テメエ、マグレでかすったからって調子に乗るなよ!」
マリウスは一気にスピードを上げて、一直線に僕を追ってくる。怒らせてしまったために、こっちの攻撃は無視して一気に速度を上げて来るのだった。
必死に前を向いて相手の攻撃を警戒して加減速を繰り返しながら逃げる。
今度は飛んでる最中にペドロの姿がすれ違い様に目に入る。ニヤニヤと笑ってみていた。右手には賭博用のマネーカードが握られている。さぞ大量の金をマリウスに投じたのだろう。
何がアニキだ。
煽てて馬鹿にして僕からエールダンジェを奪って行った犯人だ。
僕は必死に逃げようとするが、効率よく追ってくるマリウスに追いつかれてしまう。
そして重力光拳銃を僕へ向け、照準を合わせる。
近すぎる!
逃げようと思ってもマリウスのつけた照準から逃れられない。そこまで急な動きを僕は出来なかった。
トリガーが引かれたと思った瞬間、脇腹に激しい衝撃を受けて体が落下していく。
死ぬほど痛い。
しかも、体が落下するGを感じて一気に竦む。
僕は何もかもが終わった……と思った。
だけど、エールダンジェを操作してないのに、まるでフワリと浮遊感だけが残り僕の体に落下の恐怖感は走らなかった。
それはまるでリラが僕の背中を支えてくれたみたいに。
飛行技師は飛行士を支えるものだと、かつて多くの有名なエールダンジェ関係者から聞いた事があった。
どういうものか今一ピンと来なかった。そういう事かと今日、この日、納得する。
僕はレースでもリラに支えられていた。こんな掃き溜めで禄でもない人間ばかりだったけど、たった一人だけ僕を助けようとしてくれた人がいたじゃないか。
僕はとにかく逃げに専念する。脇腹の打撃がポイントは胸のポイントとして1つ落ちていた。僕のやる事は10分間逃げ切る事だけで、戦う事じゃない。
僕は体を翻して立て直そうとする瞬間だった。
「ぴぎっ」
ミシッと響くようなあばら骨。方向転換で体を翻らせようとした瞬間に走った痛みは尋常じゃなかった。さっき、マリウスに銃撃を食らった場所だ。
もしかして折れてる?
基本的に旋回する時は体の重心を動かす事でナチュラルな移動を可能にしている。痛みは体の重心を変える時の妨げになる。
曲がろうとした方向に痛みを感じて、バランスを崩しそうになる。それでも体を指先のちょっとした操作で上手く曲がれる。
『咄嗟に逃げれるように感度もよくしてあるから、多少の事ならどうにかなる筈だ』
窮地になればなる程に、僕がどういう状況でも逃げれるように、リラが助けてくれている事に気付かされる。僕は確かにリラが一緒に戦ってくれている事だけを機体から感じる。
1人騙されて孤独の戦場に身を投じているわけじゃないんだ。
痛みに歯を食いしばり、とにかく逃げる。
「ちっ、しぶとい!こっちは5分以内に片付けないとペドロから掛金を徴収できねえってのに」
マリウスからチッと風を切る轟音の中から聞き取りにくい文句がボソボソと伝わる。何をしゃべっているか分からないけどとにかく僕を殺しにくる。そういう雰囲気が後からありありと感じられた。
逃げないといけない。
永遠のように感じられる時間を過ごしているのに、まだ1分しか経ってない。エアリアルレースを見るだけだった頃、レース時間は前半が10分『しか』ない事の短さを感じていた。
まるで一瞬の出来事のような白熱したレースだった。
だけど、違う。
やってる方はこの戦いを10分『も』続けるのか。
初めてのレース、対戦相手はプロ資格保持者、そしてルールは無用の殺し合い。まるで長距離走を走って疲れているときのような、終わらない長さを感じる。
逃げないと………逃げないといけないのに…。
僕がどんなに逃げようとしてもマリウスはあっという間に僕の進む先を理解しているかのようにショートカットして近付いてくる。そして重力光拳銃を僕へと向けてくる。
次の刹那、激しい衝撃が僕の頭を揺らす。
光の弾丸が僕の頭を叩いたのだ。ヘッドギアが破壊され頭から外れる。ヘッドギアは重力に従って地面に落ちていく。
マリウスは更に近付いて、僕のおなかに蹴りを叩き込む。僕はそのままヘッドギアの落ちて言った地面の方へと吹っ飛ばされる。
重力に引っ張られるように地面に落ちて行っても、重力を一切感じないのはリラのお陰だろう。
僕は重力落下していったヘッドギアよりも早く地面に落ちていくが、高い所から落ちると言う恐怖心は低かった。
僕は背中を地面叩きつけられる前に停止が利いて空中で緩やかにとまるが、上から落ちてきたヘッドギアは、僕の直隣で地面に叩きつけられて破壊される。
背筋に冷たいものが走る。高い所から落ちるとどうなるかと言う恐怖心が湧き上がる。
体は恐怖で凍り付いて動かない。
そして、マリウスは僕の方へと飛んでくる。
「くたばれ!」
地面に落ちた僕に対して、マリウスは空中から僕に止めを刺しに飛んでくる。離着陸用のローラーのついた硬質の重力制御輪体付靴を僕の顔面へと向けて。
アレを食らったら間違い無く死ぬ。
走馬燈のように過去の事が頭を去来する。
カイトの事、学校の事、両親の事。腹立たしい現実。裏切られ続けたフィロソフィアでの事。ボサボサ頭のぶっきら棒な友人。
『貴方はあの子が立ち上がるのに良い踏み台だったわ』
チェリーさんの言葉が耳に反芻される。
ああ、でもそうか。
どうせリラに助けられた命だ。リラの為に散るなら別に良いじゃないか。僕は徐々に近付いてくるマリウスの蹴りを俯瞰しながら、彼女の為の生贄になるなら、仕方ない。
そう、諦念するのだった。