103.第3話 ハニートラップ
友加里は折れたヒールを持って、喫茶店の出口に近い歩道に立っていた。裏路地にある喫茶店にはあまり客が来ないようだった。
「本当に大丈夫かな」
ロリポが言うには、ソーシャルハックの王道は、古今東西を問わず、ハニートラップだという。友加里はハニートラップに引っかかるような人物を周囲の人物で知らないだけに、これがうまくいくとは信じていなかった。
喫茶店のドアにつけられた鈴がカランとなる。ターゲットである柚木が喫茶店から出てきた。柚木はすぐに友加里に気が付いたようで、困った様子の友加里に近づいていった。
「何かお困りですか?」
友加里は本当に話しかけてきたことに驚くが、事前の打ち合わせ通り「え、えぇ」と答えた。
柚木は友加里を一通り観察した後、「あぁ」と一人納得した。
「ヒールが折れてしまったんですね。もしよろしければ、僕が直しましょうか?」
「申し訳ないですが、そうしていただけると助かります」
遠慮しつつ依頼するという高度な返答をして、友加里は柚木の差し出した手を取った。
「そこの喫茶店に入りましょう」
「はい」
そして、柚木に寄りかかりながら片足で歩く。
「あ」
「おっと」
しかし、片足で歩くのはとてもバランスが難しく、すぐに柚木に寄りかかってしまった。柚木は慣れた様子で友加里の肩を引き寄せて支えた。
「す、すみません」
友加里は演技ではなく本当に赤くなる。
「大丈夫ですよ。あ、喫茶店から何か履物を借りてくればよかったですね」
「そ、そうですね。でも、ここまで来ましたから喫茶店まで支えてくださるとうれしいです」
「えぇ、もちろん」
柚木は物腰が柔らかく、人づきあいが好きな性格のようだ。しかし、自身のベンチャー企業では秘密主義を貫いている。今受ける印象と伝え聞く話で大きく違うことに友加里は混乱していた。
なんとか喫茶店につくと、友加里に席を進め、柚木は喫茶店のマスターのところへ行ってしまった。
漏れてくる声を聴いているとどうやらマスターから道具を借りようとしているようだ。マスターも柚木と古い知り合いのようで、すぐに道具を取りに奥に入っていった。
柚木が友加里の座っている席に戻ってくる。
「マスターに道具を持ってきてもらう間、何か飲み物を用意しましょう」
「え?」
「あぁ、僕ぐらいの常連になると、勝手に飲み物を入れても怒られないんですよ」
軽く笑いながら、柚木はメニューを差し出した。
「では、紅茶でお願いします」
「暖かい方でいいですか?」
「えぇ」
「承りました」
柚木は本当にカウンターの中に入っていった。
友加里は事前情報通りに事が進むことに驚いていたが、柚木が自分のノートパソコンから離れたこの機会を逃すわけにはいかなかった。
柚木のカバンからはみ出ているノートパソコンのUSBポートに刺さっていたマウスのレシーバーを外す。そして、友加里が持ってきたまったく同じマウスのレシーバーを指した。あとは柚木がパソコンを起動してくれるだけでデータを抜ける手はずだった。
「あ、お砂糖は居れますか?」
突然大きな声がして肩をすくめる友加里。手に持ったレシーバーを落としてしまった。
「はい。二杯お願いします」
返事をしながら、腰を折って床を見渡す。レシーバーは反対側の椅子の下に落ちていた。友加里は拾おうと思った。
「お茶お持ちしました」
柚木の声がした。友加里はかがんでいた腰を上げると、柚木が心配そうな顔で立っていた。持ってきているはずの紅茶はすでにテーブルの上に置かれている。
「やはり、足を痛めてましたか?」
そう言いながら柚木は膝をついて、友加里の足を取った。友加里が断る間もなく柚木は丹念に足を見始める。
友加里は顔が熱くなるのを感じる。男性に振れられたことなどなかった。しかも、柚木は優しい印象を受ける美形だった。
「特に腫れてはいないようですが、念のために冷やしておきましょう」
またカウンターの方へ行ってしまった。友加里は熱くなった顔を抑えながら、落ちてしまったレシーバーを回収した。これで友加里の役目は終わりである。あとはパソコンを起動させた後に、友加里の持ってきたレシーバーを回収するだけだった。
「氷を持ってきたから、これを足首の上に載せておいて」
柚木はビニル袋に氷水を入れたものを持ってきていた。友加里はそれを受け取ると、言われた通りに足首の上に置いた。
「あ、あの」
「ん?」
柚木はひと段落したとばかりに席に座り、自分の分の紅茶を飲んでいる。
「お仕事の邪魔をしてしまっているようですし、私は少し休ませていただいたら帰るので、お仕事をしていてください」
「お気遣いありがとう。じゃあ、マスターが工具を持ってくるまでメールチェックでもさせてもらうよ」
柚木はノートパソコンとマウスをカバンから取り出すと、ノートパソコンを開いた。
そして、マウスを使おうとしたとき、画面上のカーソルが動かないことに気が付いた。
「あれ?」
マウスの裏を確認するとレーザー光は出ている。そして、ノートパソコンに付属のタッチパッドではマウスは正常に動作していた。
マウスのレシーバーを抜き差ししてみるが、状況は変わらなかった。原因を調べるためにコントロールパネルを開こうとも思った柚木だが、すぐに思い直してクラウド上にあるメールアプリを開いてメールの内容をチェックし始めた。
その間、友加里は足首の冷たい感触を楽しみながら、柚木を何気なしに見ていた。
「おーい、持ってきたぞ」
マスターが声をかけると、柚木はノートパソコンを畳んでカウンターに向かう。友加里は柚木が完全にカウンターに行ったことを確認すると、レシーバーを交換した。これでうまくいったはずである。
「十五分ぐらいで直ると思うから、もう少し待っていてね」
ヒールの応急処置は素人でも簡単にできる。柚木は細長い釘を取り出すと、慣れた手つきで打ち込んでいった。
「お上手ですね」
思わず本音が漏れる。
「大学時代にリサイクルショップのバイトをしててね。たいていのものなら修理できるんだ。ものを直すこと自体は大げさな技術が必要なわけじゃないんだけど、直したものを見たときの人の反応が面白くて結構長い間やってたよ」
それが今はARサバゲーを作る会社の社長というのはどういう経緯からなんだろう。友加里はどうせロリポあたりが調べていることだから、帰ったら聞こうと思った。
「そういえば、彼氏と初めてデートする女子高生がちょっと大人びてハイヒールを履いてきたら、途中で側溝の網にはまって折っちゃったって泣いて店を訪ねてきたことがあってね」
突然、思い出話を始める。柚木の手は止まっていないので、単に友加里が暇をしないように適当な話をしているようだった。
「もちろんハイヒールはすぐに直せたんだけど、今度はお化粧がすごいことになっていてね。僕はお化粧の知識はなかったから、同じバイトの女子大生に任せたんだけど、女性って本当に化粧で化けるよね」
友加里は学校には通っていないが、通っていれば高校一年である。一瞬、自分の年齢がばれてしまったのかと思って身を固くした。
「女子高生ぐらいの女の子が二十歳ぐらいの女性に見えるんだもん。びっくりしたよ」
「お化粧の仕方は年齢によって違いますから」
女子高生がやるメイクと女子大生がやるメイクでは大きな違いがある。学校に通って確認しているわけではないが、友加里にも人並みの知識はあった。
「なるほど。まあ、デートはうまくいったみたいだけど、なぜか僕が気に入られちゃったみたいでね。結局、彼氏とは別れちゃったって言ってたかな」
そのあとが気になる友加里ではあったが、ヒールの修理は終わってしまった。柚木は手を止めると、友加里の足元に靴を置いた。
「足は痛くない?」
「はい」
友加里が答えると、柚木は友加里の足にあった氷水の入った袋をどけた。そして、持っていたハンカチでわずかな湿り気をぬぐう。
「これで履いてみて」
友加里が靴を履くと、ヒールがしっかりと支えてくれる反発を感じた。ゆっくり立ち上がってみるが、すぐに折れてしまうようなことはなさそうだ。
「すごいですね。壊れる前と違いが判らないです」
「お褒めに預かり光栄です」
「もしよかったら、これを受け取ってください」
友加里は持っていたハンドバッグから五千円を取り出すと、柚木に差し出した。
「いいよ。今の僕はリサイクルショップの店員というわけではないからね」
「でも」
「じゃあ、連絡先を教えてよ」
友加里は驚いた。あまりにもロリポの描いたシナリオ通りだからだ。
「いいですよ」
本当の連絡先を教えるわけではない、プリペイド携帯電話を使っている。いざとなれば、捨ててしまえる「連絡先」だった。
友加里はお互いの連絡先を交換すると、柚木にお礼を言って喫茶店を後にした。柚木は少し喫茶店に残ると言い、出口まで見送ってくれた。
喫茶店を出てほっとしながら歩いている友加里の後をふたつの影が続く。友加里はその影を誘い込むように更に奥の路地に入った。
「趣味悪いですわよ」
友加里は同じように角を曲がってきたロリポとゲイツに向かっていった。
「いやー、心配でー」
ロリポは空々しく答えた。
「心配しなくても、ちゃんと首尾上場です。こちらを」
先ほど回収してきたレシーバーをロリポに渡した。ロリポはそのレシーバーを受け取ると、慣れた手つきで分解して中に入っていた基盤だけポケットに入れた。
「じゃあ、帰ろうか。あ、でも柚木のお兄ちゃんが気に入ったら、もう一度喫茶店にもどってていいよ」
「戻りません」
友加里は強い調子でロリポの提案を断り、ゲイツの腕を取った。ゲイツは驚いた様子もなく、友加里に腕を貸す。
「そう。じゃあ、おうちに帰って、この情報の開封の儀と行きましょうか」
ゲイツを促すと、ロリポは路地を出て行った。