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光輝くぼくらの未来  作者: 阿野真一
夏休み一日目
9/27

午後

 …………グスン。


 ……悲しいです。ものすごく、悲しいです。


 仲間外れにされると、こんなふうに感じるんですね。私、初めて知りました。


 ハァ……でも……落ち込んでばかりもいられません。次の作戦を練らないと。でも……なんだかどうしようもなく、やる気が出ないというか、気が乗らないというか……。


 もしかして、私がしていることは全て無駄なのでしょうか? このさき永久に、あの人にも他の誰にも気づいてもらえず、私はただここにあって、次第に朽ちていくだけの存在なのでしょうか? そう思うと、心が少しずつゆっくりと、どこか恐怖にも似た悲しみで満たされていくように感じます。


 だけど私には、他にどうすることもできませんし……。


 ハァ……あの人たちは、こんな思いをしている私という存在も知らず、さっきからずっと楽しそうに水遊びをしています。


 ハァ……この、やり場のないモヤモヤとした気持ち、いったいどう処理すれば……そうだ! 一発撃てば気が晴れるかもしれませんね! 発射準備はすでに整っていますし、ちょうどいいです!


 いえいえ、当てるつもりなんてないですよ。威嚇にもならないくらい軽く、です。そうですねえ、強いて例をあげれば、にくい人の写真を指で弾くような感じです。


 では! 狙いを定めて……発射!


 ……あ、あれ? 当たっちゃった!? うそっ、どうしよう……どうしよう!




       ♢♢♢




 空になった弁当をロッカーに入れたあと、俺たちは最寄りの浮き輪貸出機の前にきていた。目的地のウォータースライダーは川下にあるので、歩きでいくより浮き輪に乗って川を下った方が楽に移動できるからだ。貸出機は一辺約2メートルの立方体で、色は白に近い灰色。川の方を向いた面の、右側に硬貨投入口があり、ど真ん中に太く赤い文字で「うきわ」と書かれている。浮き輪を一本借りるのに百円必要だが、返却すればお金は戻ってくる。川辺に200メートルおきに設置されているので、目的地に着いたら最寄りの貸出機に返却すればいい。ウォータースライダーまでの距離は約1km。浜辺に近い浅いところでおよそ二十分、深いところでは、たぶん十分もかからない。帰りは歩くことになるが、のんびり出店を見物しながら戻ってくればいい。


「じゃあ、三人ぶん入れるよ?」


 咲紅がお金を入れるとシューッと空気を入れる音がして、赤い文字の下の取り出し口から虹色の浮き輪が飛び出してきた。最初に出てきたそれを受け取って川の中に入り、沖の方へ向かってザブザブと歩く。水が冷たくて気持ちいい。陽に照らされて熱くなった肌を見るまに冷ましてくれる。胸くらいの深さに来たところで、一度頭まで潜ってジュースのべたべたをサッパリ洗い流した。


「おーい、蒼志ぃ! 置いてくぜぇ?」


 潜っているあいだに二人は俺を追い越し、さらに沖の方へとバタ足で向かっていた。俺も同じようにして二人のすぐあとに続いた。


「蒼志、ちゃんとお財布持ってきてる? 去年みたいに全部あたしが出すの嫌だよ?」


「ああ、大丈夫。ほら」


 透明なビニール製のウエストポーチを引っ張って咲紅に見せた。このウエストポーチはサマーフェスタ会場の入口で毎年配っているものだ。あると便利なので、三人とも腰に巻いている。当然のことながら完全防水仕様だ。


「よっこらせっと」


 ある程度、沖に出たところで、翠が浮き輪の穴に尻を突っ込んで水に浮かんだ。俺と咲紅も同じようにして、三人でユラユラと流されていく。


 ふと見上げた青い空に、日差しを遮る雲は欠片も見あたらない。陽光が浄水場をとおったばかりの澄んだ水に射し込み、底の砂地に描かれた幾何学模様を照らしていた。魚でもいないかと目を凝らしてみるが、どうやらこの辺りは水がきれい過ぎるようだ。メダカ一匹、見あたらない。


「かなり深いぜ。底まで何メートルあるんだろうな。なあ、知ってるか?」


 と翠が聞いてきたので、


「会場内の一番深い所で4メートルだってさ」


 と答えてやった。これは以前、翠から聞いたことだ。自分で言った事くらい覚えておけ。


「わっ、蒼志、見てよあれ! 滑ってるよ!」


 咲紅に言われてウォータースライダーの方へ目を向けた。乳白色の丸い塔の頂上付近に四角い踊り場があり、そこから川面に向けて一直線に水色の滑り台が伸びている。


 いま頂上にいるのは黒に近い色のワンピースを着たお姉さんだ。係員に手を引かれ、じりじりと滑り台の方へ近づいている。大きく腰が引けているのは、きっとその高さのせいだろう。聞いた話では、今年のウォータースライダーの落下高さは約50メートル。去年までは今年の半分くらいの高さで、もっと曲がりくねった感じだったのだが……。


「おおっ、落ちたぜ!? なんだアレ、滑り台の意味あるのかよ!」


 黒系ワンピースのお姉さんは、大きな叫び声と水しぶきをあげて川面に激突した。その跡にうっすらと虹が架かり、しばらくして消えた。


 翠の言うとおり、この場合は落ちたという表現こそがふさわしい。傾斜角度はおよそ八十度、落下速度は毎時100キロを超えるかもしれない。滑り台を取っ払ってバンジージャンプにしても大差無いんじゃなかろうか。


「うわー……なんか……すごそうだねえ」


 いかん。咲紅が弱気になっている。うまくフォローしておかないと「嫌、滑りたくない!」とか言い出しそうな雰囲気だ。


「いやいや、たいしたこと無いだろ。だいたい、こういう物は外から見てる方が怖いって言うじゃん? 実際に滑ってみたら、それほどでもないと思うよ?」


「……そうかなあ……でも……んー……そっかぁ……」


 嘘だ。


 そして、そんなやりとりをしているうちに目的地が近づいてきた。浮き輪貸出機を目安に、俺たちは少しずつ岸へと近づいていく。――その時!


「ぐぉばばばばっ!」


 そんな叫び声をあげ、目の前にいた咲紅がその場でいきなりひっくり返った。ああ、どうやら浮き輪に穴が空いてしまったらしい。空気が抜けてぺしゃんこに潰れている。そのあと、自力で体勢を立て直した咲紅と砂浜に上がって浮き輪を調べると、五百円玉くらいの丸い穴が二つあいていた。たぶん、もともと穴が空いていた部分を切れ端かなにかで塞いでいて、それが剥がれたのだろう。


「ごほっ、ごほっ……もうっ! なによこれ、不良品じゃないの!」


「まあまあ、実質無料なんだから、これくらいは仕方ないんじゃない?」


 そう答えつつ咲紅の潰れた浮き輪と俺の膨らんだ浮き輪を翠に渡す。それを受け取ると、翠はバスケットボールのシュートの格好で、貸出機の屋根の返却口めがけて放った。三秒くらいして百円玉が三枚払い出されると、咲紅はそれをひったくるように掴んでウエストポーチの中に突っ込んだ。そして、


「蒼志! 翠君! ほら、ぼさっとしてないで、さっさと行くわよ!」


 そう言って川の中に入っていった。


 ウォータースライダーは対岸にあるので川を渡る必要がある。すぐ近くにそのための橋が架かっているのだが……咲紅は泳いで渡りたい気分のようだ。仕方なく俺たちもそのあとに続いた。


 近づいてみると、白い塔は土手を固めたコンクリートに半分埋まるようにして建てられており、水面より少し上の高さから、浅緑色の四角いデッキが川の中央に向かってせり出していた。順番を待つ人が並ぶためのスペースだ。咲紅と俺たちはデッキの端にあるはしごを上り、クネクネ折れ曲がった行列の最後尾についた。金属製のデッキは網目状になっているので、上から川が流れる様子が見える。真上にある塔の踊り場も、これと同じように作られているみたいだ。つまり、あそこからここが見えるってこと。ははっ、なかなかスリルありそうじゃん!


「すいてるわね。みんなまだご飯食べ終わってないのかしら」


「食後の一服とかしてんだぜ、きっと」


「俺も休憩してからの方が良かったんだけど、お嬢が急かすからさあ」


 そんな他愛のない話をしているうちに、行列はどんどん短くなっていく。塔の入り口の上にある電光掲示板によると、待ち時間は二十分程度らしい。さっきから一分おきに上の方で叫び声が響いているので、あと二十回「ギャー!」と聞こえたら、俺たちが叫ぶ番だ。


「あっ! ねえ、見て! あの人の水着、滑ったときに取れちゃわないかしら?」


「うおっ! マジかよ! すっげーなぁ!」


 咲紅と翠が列の先頭にいるお姉さんを見ながら話している。彼氏と二人で遊びに来ているみたいだな。見れば咲紅の言う通り、極端に布の少ない白いビキニを着ている。ふう。二人ともダメだなあ、全然わかってないなあ。


「バーカ。あれは取れてもいいんだよ。たぶん、あのお姉さんは露出狂なんだ。そういったハプニングを楽しんでるんだよ」


 俺がそう説明すると、咲紅が「えー?」と疑いの眼差しを向けてきた。一方の翠は「へーっ! すっげーなぁ!」と素直に喜んでいる。そして、俺たちがそんなことを話しているうちに、お姉さんとその彼氏は塔の中へと消えていった。


 白い塔の直径は5メートルくらい。その中身はエレベーターとそれを動かす機械で埋まっている。一度にだいたい十人ずつ乗せているので、八番目に並んでいる俺たちは次の便に乗せられることになるだろう。


「キャーーーッ!」


 あ、この悲鳴は露出狂のお姉さんかもしれないな、と考えていると、バスタオルを持った係員が何人か川に飛び込んで、たった今水しぶきがあがった方へと泳いでいった。やっぱり。どうやら予定通り楽しめているようで、なによりだ。


 それから数えて三回目の悲鳴が聞こえるのとほぼ同時に、エレベーターのドアが開いた。行列が係員の指示に従ってゆっくりと乗り込んでいく。


「順番にゆっくり乗ってくださーい! ……はい、ここまで! ここから後ろのかたは次の便でお願いしまーす!」


 日焼けした筋肉質の係員が大声で叫んだのを合図に、エレベーターの中にいる係員が三角形のボタンを押した。ドアがゆっくりと閉まり、一呼吸置いてから上方向に動き出す感覚。窓が一つも無いので外を見ることができないのが残念だな。


「おいお嬢、大丈夫か? もう、引き返せないぜ?」


 翠が咲紅を挑発している。


「だっ、大丈夫に決まってるでしょ! たいしたこと無いわよ、こんなもの!」


 咲紅が強がっている。よし、俺も冷やかさないと。


「翠が言ってるのは、トイレに行っておかなくて大丈夫かってことだろ? まあ、どうせ濡れるんだし、行きたくなったら急いで滑って川の中ですればいいじゃん?」


 咲紅が「あんたねえ! 女の子になんてこと――」まで言い返してきた時、軽い振動を伴ってエレベーターが停止した。頂上に着いたらしいな。咲紅の言葉は途切れたままだ。


「みなさん、お待たせしました! ここは地上50メートル、ウォータースライダーの頂上デッキです! これからエレベーターのドアが開きますが、危険ですので決して走ったり飛び跳ねたりしないようお願いします!」


 係員の声がやむと、すぐにドアが開きはじめた。微かに聞こえていた外の喧噪が急に大きくなり、隙間から強い光が差し込んでくる。緊張のためなのか、口を開く者は一人もいない。全員が少しずつ広がっていくドアの隙間を身動みじろぎもせずに見つめていた。


 そして……時間をかけて、ドアが完全に開ききると、


「それでは一人ずつエレベーターから降りていただきまーす!」


 係員が一人ずつ外へ誘導し始めた。何人かが外に出て、小さな悲鳴がいくつか聞こえたあと、俺たちもエレベーターのドアをくぐった。眩んだ目をこすりデッキを見回すと……先に出た何人かのうち、半分がしゃがみ込んで身動きがとれなくなっている。残りの半分はというと、エレベーターを降りたすぐ脇で壁に手をついたまま震えていた。


 まあ、手すりはそれほど高くないし、網目状のデッキを通して五十メートル下の地上が見えてるし。下手すると命を落としかねない状況だからな。これが普通の人の正しい反応なんだろう。かくいう俺も恐怖を感じていなかったわけじゃあない。ただ、好奇心がそれを圧倒してたってだけだ。


 俺はもう一度あたりを見回して、右の方――町の外がより遠くまで見える方――へと歩いて行き、肩くらいの高さの柵につかまって、果てしなく広がる風景を見晴らした。


 雑然とした低い町並み。その向こう側には萌黄色の草原が広がっている。さらにその向こう側には深緑の森が茂り、もっと向こうにはうっすらと青い山がそびえている。


 目を凝らすと、草原を黒っぽい点が移動しているのが見えた。あれが外敵と呼ばれている危険な動物なのだろうか。遠すぎて小さな点にしか見えないが、町の外になんらかの生き物がいることは確かなようだ。


 あの森でも、たくさんの生き物が暮らしているんだろうな。あっちの山には、まだ誰も見たことがない植物が芽吹いているかもしれない。そんなふうに外の世界に思いを馳せていると、足下から弱々しく咲紅の声が聞こえてきた。


「蒼志、蒼志ぃ。順番きたよ」


 しゃがんだ姿勢のまま、ここまで移動してきたらしい。俺の左足を両手でつかんで揺さぶっている。でも、あれ?


「なんで? 俺ら、まだあとじゃなかったっけ?」


 ふと、エレベーターの方を見ると、何人かの大人たちが「お先にどうぞ!」といった表情で、手の平を上に向けこっちに差し出している。俺たちに順番を譲ってくれるようだ。


「じゃあ、遠慮無く!」


 俺は笑顔でそう言って、滑り台の方を見た。翠の準備はすでに整っているようだ。滑り台の一番上の平らな部分に仰向けになり、なぜか係員のお姉さんの手を握って話しをしている。ふむ、肩までの茶色い髪に健康的に日焼けした肌。小柄で、大きな目が印象的な可愛らしい人だ。なるほどな。


「翠ぁ、早く行けよ。後がつかえてるんだからさぁ」


「ちょっと待てよ。もうちょっとだから!」


 すると、係員のお姉さんがにっこり笑って、


「いくら頑張っても、私は落ちないよ? この下に素敵な彼氏がいるからね」


 そして、しばし見つめ合う二人。次の瞬間。


「バーカーヤーローーー!」


 そう叫びながら、翠が滑り台へ一気に身を踊らせる。その体はみるみるうちに小さくなっていき、最後の「ロー!」を言い切る頃には盛大な水しぶきをあげていた。水面が落ち着いたあとも、仰向けで水に浮かんだまま動こうとしない。そのままの体勢でゆっくりと川を流されていく。相当ショックが大きかったのだろう。なんのショックかは言わずもがなだ。


「咲紅、次はおまえだ。急がないと、お漏らしするところを見られちゃうよ?」


 俺は少し大きめの声でそう言った。すると……。その声はエレベーター前にいる大人たちの耳にも届いたのだろう。すぐに「えっ? あの子ここで……」とか「お手洗い……」とか「やだ、可哀想……」と、ささやく声が聞こえてきた。


「いやっ! 違っ! あたし、べつに我慢とか、してませんからっ!」


 顔を赤く染め否定の言葉を並べる咲紅。だが、ひそひそ話しが止む気配は全くない。


 それから咲紅は、しゃがんだ姿勢のまま「違いますから!」とか「大丈夫ですから!」とわめきながら、ズルズルと滑り台に近づいていき、お姉さんの手を借りて滑り口に仰向けになると、


「あっ、あっ、あたしっ! しーてーまーせーんーからーーー!」


 そう叫び声をあげ、川に向かって一直線に突っ込んでいった。翠のときより小さな水しぶきがあがり、咲紅は水面を10メートル以上も滑って止まった。あ、こっち向かってなんか叫んでる。


「バカァーーー!」


 いつの間にかひそひそ話しの内容が、したのか、していないのかに変わっていた。


 さて、ようやく俺の番だ。改めて足下をのぞき込むと……やっぱ高いなぁ。咲紅も、翠も、他の人たちも豆粒よりも小さく見える。単純に考えると距離が50メートル離れているだけなのだが、俺の頭脳は重力というものを正しく理解しているようで、下からここを見上げた時とは全く違った印象を心に伝えていた。


 だが俺は、男らしくやせ我慢をして滑り台まで歩いて行き、お姉さんの手をしっかりと握って仰向けになる。さあ俺はなんて叫ぼうか、と考えて思い付いたのは、ずっと昔に若者たちのあいだで大流行した言葉。ようし、


「行くぞ! キャット「あ! 空中三回転は禁止だよ!」」


 え。


「危ないから、ね? もしやったら、今後一切永久に、ウォータースライダー出入り禁止にするから。いい? わかった?」


 ……まあ、そんな気はしてた。


「だー! よー! ねーーー!」


 俺はとっさにそう叫びながら、空に向かって飛び出した。一瞬、体のスピードに心がついてきていないような感じがして、直後、水面に叩きつけられる。そして、大量の泡と一緒に浮かび上がりながら、心の内で「くそっ、空中で三回転してたら絶対にヒーロー、いや、伝説になれてたのになあ!」と歯を軋ませた。


 水面に浮かび上がるとすぐに、咲紅がイヌカキで近づいてきた。そして、勝ち誇ったような笑みを浮かべると、


「地味ね。あれぇ? 確か……このあいだ言ってなかった? こんどウォータースライダーですげえことしてやる! みたいなこと」


「うるさいな、おまえみたいに滑りながらお漏らしするよりマシだろ?」


「しっ、してないわよ! そんなこと、してないわよ!」


 咲紅が顔を赤くして全力で否定しているところに翠が追いついてきた。このあたりは足が届く深さなので、三人並んで砂浜の方へ歩いていく。


「ああ、惜しかったなー。あのお姉さん、すっげえタイプだったのになー。たぶん、もう一押しで落とせてたぜ?」


 翠がしみじみとした様子で語っている。


「えーっ!? あれで惜しかったの? あたしには、全然そうは見えなかったけど」


「はぁ、ダメダメだな、お嬢は。女心ってやつをまったくわかってない。彼女、表面上は僕のことを冷たくあしらっているように見えたかもしれないけど、内心はまんざらでもなかったと思うぜ? だって、瞳が潤んでたし」


「……さて、小腹も空いてきたことだし、出店でも見てまわろうか」


「賛成! あたし賛成!」


「そうだな。蒼志、ナイスアイデアだぜ!」


 携帯を取り出して画面を見ると、すでに午後三時を十分ばかり過ぎていた。おやつを食べるには、ちょうどいい時間だ。とりあえず二人になにが食べたいかを聞くと、咲紅は「お好み焼き!」で、翠は「たこ焼き!」だった。


「おまえら、もう少し違った味の物にしろよ。ちょっとずつ食べさせてもらっても面白味がないだろ?」


「あたし絶対、お好み焼きだからね。翠君、別のにしてよ。今川焼きとか、たい焼きとかがいいんじゃない?」


「なんでだよ。別にいいだろ、自分が好きなもん食えば。それに、お好み焼きとたこ焼きは全然違う味だぜ?」


 因みに、俺がいま一番食べたいのはかき氷。水に飛び込んで少し涼しくなったとはいえ、再び陸に上がってしまえば元の木阿弥だ。今日のように暑い日はかき氷に限る。中でも宇治金時が一番だ。というわけで、たくさんの出店が建ち並ぶなか、俺は「氷」と書かれたのぼりを探していた。


「お、たこ焼き。買ってくるぜ!」


 翠がたこ焼きを買ってきた。すかさず俺と咲紅は「一個ちょうだい!」と、あらかじめ用意してあったつまようじで、たこ焼きを二個ずつ強奪する。毎年のことなので準備は万端だ。翠のたこ焼きは去年と同じように、瞬く間になくなった。


「あ、お好み焼き。ちょっと待ってね。買ってくるから」


 咲紅がお好み焼きを買ってきた。四つに切り分けてあるので三人で一切れずつ食べて、残りの一つは俺と咲紅の二人で分けた。


 咲紅はクラスの他の女子と違って、間接キスをあまり気にしない。すでに濃厚なファーストキスを済ませているので、その程度のことは気にならないのだろう。因みに、俺が奪った。じゃなくて奪われた。数年前、咲紅の部屋で、二人でマンガを読んでいたときに、何の前触れもなく突然口をふさがれた。理由は、読んでいたマンガの主人公がしたから自分もしてみたくなった、だそうだ。恋愛的感情に起因するものではない。


「あった! かき氷。おまえらなに味にする? 特別に奢ってやるよ」


「マジで? じゃあ僕、白くま!」


「あたし、ミルクいちご!」


 脛に傷を持っていそうな、かき氷屋のおっさんに代金を払い、三人でかき氷を食べながら歩いていると、前方に白地に赤で「射的」と書かれたのれんが見えてきた。その横の貼り紙に「一等、最新型家庭用ゲーム機PS148!」とある。そう言えば何日か前、芽衣子さんがキラキラした目でテレビCMを見ながら「あ、これ欲しい!」って言ってたなあ。


「なあ、芽衣子さんのお土産どうしよっか。ここで取ってく?」


 俺が、かき氷のスプーンストローで貼り紙を指して言うと、


「あ、そうねえ。でも、いま取ると荷物になるから、あとでいいんじゃない?」


「それに、他にもいい店があるかもしれないから一通り見てからの方がいいぜ?」


 うん、まあ、そうだよな。他にいい店がなければ、またあとでこよう。


 そこから少し歩くと、こんどは「金魚すくい」と書かれたのぼりが近づいてきた。すると、翠がそれを指差して、こんなことを言い出したんだ。


「おい、勝負しようぜ! 負けた奴は夏休みの自由研究を三人分やるってことでどうだ?」


 自由研究とは何ぞやと言葉通りに解釈すると、自分で選んだテーマについて事実を深く追求する、ということになるのだろうが、この場合の自由研究はそれとは違う。学校で夏休みの宿題として課される自由研究とは、つまるところアサガオの観察日記だ。それ以外はいっさい認められない。いつ頃からかは知らないが、ずっと昔からそう決まっている。


「ふっ、今年もやるのか。そして翠よ、今年も負けてしまうのか。よし、今年も自由研究はおまえに一任することにしよう!」


「あたしもやるっ! 自由研究ってけっこう面倒なのよね。翠君、今年もよろしくね?」


「僕が負けることが前提かよ! ……まあ、いいさ、好きに言っているがいい。バッチリ油断してろ。そしてあとで吠え面かけ!」


 話は決まった。俺たちは水色に赤で「金魚すくい」と書かれたのれんをくぐり、おっさんに料金を渡した。真っ白い角刈りに日焼けした顔、ごつい体を白いU首Tシャツと千鳥格子のステテコに包んだ、いかにもなおっさんだ。腹を冷やさないように、ラメの入った紫色の腹巻きを巻いている。


「おらよ、大事に使え」


 イメージどおりのだみ声と横柄な態度でそう言って、薄い紙のポイを渡してくれた。三人で並んで、カラフルな金魚が泳ぐ水槽の前にしゃがみ込む。


「まず、俺が手本を見せてやるよ」


 俺はそう言ってポイを構えた。金魚すくいにはコツがあるのだと、以前テレビで誰かが言っていたのを思い出す。ポイは必ず全体を濡らすこと。紙の部分が水の抵抗を受けないように水平に動かすこと。あと、弱っている金魚を狙え、とも言っていた気がする。俺はさっきから目を付けていた動きの少ない青い金魚を、ポイで水を切るようにして一息にすくい上げた。まずは一匹。水槽に浮かべたアルミのお椀に落として次の獲物を探す。水面付近に浮いた小さいものがすくいやすそうだ。そっとポイを差し込んで、無難に二匹目をすくい上げる。その後も俺は、弱っている金魚を狙い続け、ポイが破れるまでに十二匹の金魚をすくうことに成功した。


「ふふん、まだまだ甘いわね。自分のポイをよく見てみなさい。裏表が逆よ」


 去年、三人の中で最も多くの金魚をすくったのは咲紅だ。記録は三十二匹。そのとき咲紅は、一般にはあまり知られていない必勝法があるのだと言っていた。そのあとしばらくの期間、俺は町立図書館に通って金魚すくい関連の書籍を読み漁ったが、結局めぼしい情報はなにも見つけられなかった。


「よく見ていなさい二人とも。これが……本当の金魚すくいよ!」


 俺は自分がすくった金魚を食べながら、必勝法の秘密を看破すべく咲紅の手元に集中した。しかし特に変わった点は見あたらない。咲紅は目の前の金魚を次々と、機械のようになめらかな動きですくっていき、やがてお椀が三つ溢れそうになったところでその動きを止めた。そして穴の空いたポイをゴミ箱に放りながら、


「ふう、ジャスト四十匹か。まあまあね。あ、おじさん、これ天ぷらで」


 自分の記録を更新した咲紅は、その言葉とは裏腹に、得意げな表情で屋台のおっさんに注文した。すくった金魚は店のおっさんに言えば、その場ですぐに天ぷらか唐揚げにしてもらえる。味はワカサギとシシャモを足して割った感じだ。


「ふふん。お嬢、なかなかやるじゃないか。けど、僕の敵じゃないぜ」


 そんなことを言っているが、去年の翠の記録は三匹。実力で考えると翠の勝利は絶望的だ。この余裕のある態度は、いったいなにを意味するのか。もしなにかしらの必殺技を会得したとかなら……俺がやばい!


 咲紅は最悪でも二位が確定しているので余裕の表情だ。おっさんから受け取った紙袋の中に塩胡椒してシャカシャカ振っている。


「そんじゃ、いくぜっ!」


 気合いを入れて、翠が金魚をすくい始めた。俺と咲紅は、金魚をつまみつつその様子を見守る。一匹、二匹、三匹、四匹、五匹、六匹まで数えたところでポイに穴が空き、七匹目の金魚は水槽の中に落ちた。なんだ、さっきの余裕たっぷりの言葉はやはりこけおどしだったのか、と、俺が安堵の息をついた、そのとき!


「ふっ、ここからが勝負だぜ! とおっ!」


 翠は泳いでいる金魚の体の中心にポイの枠を当て、一気に持ち上げお椀まで運んだ! おおっ、うまいな! どこかで密かに練習したのだろうか。だが、翠よ、その技は……、


「おい、ぼうず! おめえ、この張り紙が読めねえのか!?」


 おっさんが、支柱に貼ってある注意書きを指さし、ドスの利いた声でがなり立てる。その指の先を見ると「ポイに穴があいたら終了とします。枠を使ってすくった金魚は無効です」と、赤く大きな文字でハッキリと書かれていた。おっさんが険しい顔をして翠を睨みつけている。翠はポイを水に浸けたまましばらく固まっていたが、ふと思い出したように、お椀の中にいる枠ですくった金魚を水槽に戻し、


「そっ、そうですよね! 決められたルールはちゃんと守らなくちゃいけませんよねっ! あ、これ、唐揚げでお願いします」


 と、引きつった笑みを浮かべて、六匹の金魚をおっさんに渡した。


 そしてこの瞬間、翠の最下位が確定し、俺たちの自由研究はコイツに一任されることとなった。さらにこのあと、輪投げ、射的、千本引きでも勝負をした結果、国語、理科、社会の宿題も、翠が一人で片付けてくれることになった。


「なんでだよ! なんで僕がおまえらの宿題やんなきゃなんねーんだよ!」


「なんで、って翠君、全部自分で言い出したことじゃないの」


「そ、そりゃあ、そうかもしれねーけどさあ……くそっ、なんか理不尽だぜ!」


 それから俺たちは一度、ロッカールームに戻ることにした。けっこう荷物が増えちゃったしな、景品とか。俺の商品券五千円分はそうでもないが、翠が当てたスナック菓子詰め合わせや、咲紅の家庭用ゲーム機PS148は、人混みで持ち歩くにはちょっと大きすぎる。


 それにもう六時過ぎてるから、そろそろ着替えて花火見る場所を探さないと。

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