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光輝くぼくらの未来  作者: 阿野真一
夏休み一日目
8/27

午前

 ………………………………………………………………………………………………グスン。




       ♢♢♢




 アラカワ・サマーフェスタ。夏休みの期間中、つまり七月二十一日から八月三十一日まで、荒川の河川敷で行われるお祭りのこと。お祭りといっても、特に宗教的な意味合いはなく、ただ単に集まってみんなで遊ぼうという、娯楽成分100パーセントのお気楽なイベントだ。およそ二キロもの長さのビーチ、土手沿いに建ち並ぶ数え切れないほどの出店、ウオータースライダーやお化け屋敷なんかが、毎年この時期にこの場所に現れる。


 その発祥は、今からおよそ三百年前。かつてここが島国と呼ばれていた時代、夏の娯楽の定番と言えば、海で泳いだり海岸で砂遊びしたりする海水浴というものだった。だけど、この町には海がないだろ? だからさ、町ができて、そのあと荒川上流に浄水場ができて、そのときに海水浴が大好きだった町役場の人が、思い立って企画したのがこのお祭りの始まりなんだそうだ。


 それから三百年の長きにわたり、一度も中止することなく続けられるくらい、町の人は水遊びが好きってことだな。ってことは、いまだ新天地を求め宇宙をさまよっている人たちも、宇宙船の中でやってんのかな? 水遊び。同じ人間だし。まあ、今となっては、本当に知る由もないことなんだけどね。


 ま、それはさておき、会場に着いた俺たちは、巨大アーチの脇にある駐輪場に自転車を預けたあと、とりあえず水着に着替えることにした。暑いから。それに、汗だくだし。


 この時点ですでに十一時を少し回っている。なので午前中は出店をざっと見て歩くくらいにして、弁当食って、昼から本格的に遊ぼうってことになった。


「いやー、夏はいいねぇ。なにがいいってわけじゃないけど、色々とな? 開放的だったりしてな? まったく、最高だぜ!」


 翠がすれ違う女の子たちを目で追いながら、意味不明なことを口走っている。俺たちと同じくらいの年齢だろうか。ロッカールームから下りてくる彼女たちは全員水着姿なので、おそらくそれを見て興奮しているのだろう。なんて恥ずかしいヤツだ。


 一階にいくつかの飲食店が入った、クリーム色のプレハブの上にロッカールームがある。男性用が二階で女性用は三階だ。なので、咲紅とは一旦別行動ということになる。


「じゃあ、着替え終わったらここに集合だ。たぶん俺たちの方が早いから待ってるよ」


「蒼志。翠君が変なことしないようにちゃんと見張っててよ?」


「は? 何だよ、変なことって」


「そうねえ、例えば、間違えたふりをして女子更衣室に乱入するとか」


 なるほど、なんかやりそうだな。


「わかった。気をつけるよ」


 俺は軽く手を挙げてそう応えると、翠を引きずるようにして、男性用ロッカールームへと向かった。そして中に入ると……当たり前のことだが男だらけだ。冷房が効いているのにイメージだけで暑苦しい。早く逃げ出したいと思い素早く着替えていると、


「男ばっかで暑苦しいな。さりげなくお嬢についてって、女子の方に入れば良かったぜ」


 翠がこんな独り言をつぶやいていた。いやいや、それは無理だと思うぞ?


 まもなく、二人とも着替えを終え、ロッカールームから一歩外に出ると、暑い! と言うより熱い! 冷房の快適さを味わったばかりの体にこの熱さはこたえる。早いところ水に飛び込みたいところだが、咲紅の着替えがまだ終わっていないようなので、建物の影に入って待つことにした。


「……翠」


「……なんだ?」


「なんでおまえが女子に避けられているか、その理由がわかるか?」


「わかっていたら、こんな扱いされてねーと思うぜ?」


 そのとき、たまたま通りかかった同じクラスの女子が、翠に気づいて「ヒィッ!」と声を上げ、自分の体をかき抱くようにしてこの場から去っていった。


「……まあ、そうだな。ならば教えてやろう。その理由というやつを」


「ふん、まあ、一応聞いてやろう。興味が無いでもないし、な」


 外見はまずくないと思う。翠は黙って身動きしなければ、それなりにモテるはずだ。つまり、避けられる原因はコイツの行動にあると言えるだろう。女なら誰にでも食らいつく、その衝動を抑えなければならない。


「おまえは節操が無さ過ぎる。女なら誰でも良いという態度が良くない。おまえのそういった行動は、本来一人の女性にのみ向けられて然るべきものだ」


「ふむ。僕に、一人の女性に絞れ、と言いたいのか? 断っておくが――」


「――わかっているさ。それはおまえには絶対に不可能だ。だがな、翠。……選ぶこと、くらいはできるはずだぞ?」


「選ぶ……だと?」


「例えばの話だが、俺は大きさで選んでいる」


「……ははーん、なるほどな。おまえの言いたいことがやっとわかってきたぜ」


「ごめんね、待たせちゃって。ねえ、真剣な顔してなに話してたの?」


「大きすぎるのは駄目だ。俺にはまだ早すぎる。だがな、だが……だからといって、こんなつるぺったんは論外だ!」


 と、ピンクの柄のワンピースを着た薄い胸を指さして、力強くそう叫んだ。


「悪かったわね。こんなつるぺったんで」


「――冷たっ!」


 咲紅が右手に持っていた赤いカップの中身を俺の頭の上にぶちまけた。


「くだらないこと言ってないで、早く行こうよ」


「ああ、早く行こうってのには賛成だけど、先に軽く水に入んない? 暑いし、なんか頭とかがベタベタするし」


「駄目。当分のあいだベタベタしていなさい」


 俺たちは出店が並んでいる方へと向かった。


「うおー、すっげえ並んでるぜ。全部で何軒くらいあるんだろうな?」


「届けが出てるのが四百軒くらい。出てないのもあわせると……六百軒くらいかしら」


 出店は河川敷の土手側に、二つの列が向かい合うように建てられている。近づいてみると……そのあいだでは、カラフルな水着を纏った数え切れないほどの老若男女が所狭しとひしめき合っていた。この様子を一言で表現すると、ウジャウジャ、かな?


「うっげぇ、この中に入っていくのかよ。ちょっと勇気がいるなぁ」


 ここにいるのが全員二十歳くらいの可愛らしいお姉さんならいいのにな、と考えていると、翠と目が合った。どうやら似たようなことを考えていたらしく、無言で頷いている。口にするとお嬢の機嫌を損ねる恐れがあるので、胸に留めておくことにした。


 むさ苦しいのと暑苦しいのを我慢して、人混みの中に入ってみると……あれ? 意外と不快ってほどでもないぞ? 涼しい風がどこかから吹いている。屋台の中をのぞき込んでみると、クーラーのような機械が取り付けてあった。どうやらアレのおかげらしいな。それに人の数も外側から見るよりずっと少なく感じる。


「あ、見て、スイカ屋さん! ねえ、後でする? スイカ割り」


 咲紅が緑と黒の縞模様の屋台で立ち止まっている。川水浴での遊びの定番、スイカ割り用のスイカを売っている店だ。大きさは、40センチ、80センチ、120センチの三種類。スイカ以外にも、高級志向の人のためのメロンや、バーベキューをする人たちのためのカボチャ、玉ねぎ、椎茸、トウモロコシなんかも一緒に並べられている。これらを割るための木刀はレンタルだ。


 二年前に加倉井家全員で来たときは、芽衣子さんがメロンを割った。木刀で叩いたはずなのに、包丁で切ったみたいになっていたのを憶えている。見物していた人たちが、かなり驚いてた。いま思うと、割れ易いように最初から切り込みが入っていたんだろうな。


「ええ? 嫌だよ。スイカ割りなんて子供の遊びじゃん?」


「うーん、僕もスイカ割りは遠慮しとくぜ」


「ああ、翠君は仕方ないよね。非力だからスイカ叩いても割れないもんね?」


 翠が苦い顔をして咲紅を見ている。去年、お嬢が見ている前で、スイカ割りに大失敗しているので何も言い返せないんだ。


「早く次行こうぜ、つぎ! どんどん行かないと、時間がなくなっちまうぜ!」


 このあと正午までいくつかの出店をひやかし、チャイムが鳴ると同時にロッカールームへ引き返した。そして、芽衣子さんのスペシャル弁当――タッパーの蓋にそう書いてある――を手に、そのそばにあるフードコートへと移動した。


 円形のテーブルにイスが四脚。その組み合わせがおよそ四百組。すり減ったウッドデッキの上に一定の間隔を置いて並べられている。ちょうどお昼時なので今が最も混雑する時間のはずだが、席にはまだ少し余裕があるようだ。これはサマーフェスタの運営サイドが、来場者数とその動向を正確に予想できているためらしい。まあ、毎年同じ人間が、同じ場所に、同じように遊びに来れば、その行動パターンも絞られて当然か。


 フードコートには白い布製の天幕が張られているので直射日光は当たらない。クーラーも設置されているので、うだるような暑さの屋外と違い快適な食事を取ることができる。


 俺たちは、手近に空いていた席に場所を決め、腰を落ち着けた。中とも端とも言えない、中途半端な位置だ。子供の泣き声や若者のはしゃぐ声に囲まれ多少うるさいが、クーラーの吹き出し口が近い点はポイントが高い。


「早く食おうぜ? 芽衣子さんのお弁当。朝飯食ってねーから腹減っちまったぜ!」


「早くしろよ咲紅ー。出店に食いたいもんあったのに、ずっと我慢してたんだぞ?」


 そして、割った箸でプラスチックの取り皿をカツカツと鳴らす。


「やめなさい、二人とも! みっともないから!」


 咲紅がテーブルの上に風呂敷包みを乗せ、結び目をほどいた。現れたのは30センチ角のヨモギ色のタッパー。四段重ねだ。一番上に「読んでね!」と丸っこい文字で書かれた封筒がのっかっている。うーむ……なんか朝から嫌な予感がしていたのだが、見事に的中する予感がする。俺は封筒から、おそるおそる便箋を引っ張り出し、それから二人に聞こえるよう声に出して読んだ。


『一段目には、おにぎりが入っています。十五個のうち三個が当たりです』


「……おい、当たりってなんだよ。おにぎりが当たったら、まずいんじゃねーのか?」


「あたしが思うに……ロシアンルーレットってことかしら?」


 手紙の続きを読む。


『二段目から四段目はおかずとデザートが入っています。一人分づつ、種類ごとに分けてあります。全ての種類に、一人分だけ当たりが入っています』


「だから! 当たりってなんなんだよ!」


「きっと、最悪でもワサビ程度でしょ?」


 ……いや、違うな。俺が辛いものが好きなことを芽衣子さんはよく知っている。ワサビやカラシの類はまずありえないだろう。三人で顔を見合わせ、当たりについて考えを巡らせていると、咲紅が、


「そうだ! 食べる前に割って見ればいいじゃない!」


 と、芽衣子さんに対してとても失礼なことを言いだした。


「いやいや、それは駄目だろ。きっと芽衣子さんは、俺たちに少しでも楽しんでほしいと思って、この弁当を作ってくれたんだ。俺は、その思いを無駄にしたくない」


「そ、そうやってまともに返されると……わかりました。あたしもずるはしません」


「僕は誰の挑戦でも受けるぜ!」


「その意気や良し。みんな、覚悟はいいな? 開けるぞ!」


 一番上のタッパーをテーブルにおろし、フタの角に手をかけ力を込めた。中に空気が流れ込む感じがしてフタが外れる。のぞき込むと……何の変哲もない、むしろうまそうな俵型のおにぎりが、整然と三列に並べられていた。……誰も動けないままに視線を交わしあう。俺は、このままではらちがあかないと考え、


「……ちょっと待ってくれ。始めに一個だけ実験がしたい。方向性の確認をしておきたいんだ。ほら、危険なものとか入ってたら危ないじゃん?」


 そう言って、偶然近くをとおりかかった、同じクラスの佐々木を呼んだ。


「おーい、佐々木!」


「よう蒼志、お嬢、エロ翠。休み中でも三人組なんだな。へえ、手作り弁当か、いいなあ」


「おまえ、なかなか見る目があるな。実はこの弁当は、超かわいいメイドさんの手作りなんだ。……なあ、佐々木。おにぎり、食うか?」


「いいの? じゃあ、遠慮無く。いっただっきま――」


「――ああ、それじゃなくてこっちのやつね」


 と、なんとなく気配のするおにぎりを指さす。佐々木はわずかに訝しげな顔をしたが、素直に俺が指定したおにぎりを手にとってかぶりついた。


「あ、少しづつ食べてくれ。具を確認したいからさ」


 という俺の指示通りに、佐々木は少しずつ削り取るようにおにぎりを食べていき、そして真ん中あたりまで食べ進んだところでピタリとその動きを止めた。佐々木が、食いかけのおにぎりをじっと見つめる。


「……うん? なんだ? これ……ぐえっ!」


 佐々木はおにぎりをテーブルの上に放り出し、両手で口を押さえてどこかへ走り去ってしまった。あの方向は、おそらくトイレだろう。


 テーブルの上に置き去りにされた食べかけのおにぎりに顔を近づけ、はみ出した具を確認する。ビニールのような質感の若草色の背中、柔らかそうな白い腹と吸盤の付いた四本の長い指。黒目がちの大きな瞳が俺をじっと見つめている。これは……カエルだ。当たりのおにぎりの中には、親指くらいの大きさのアマガエルが一匹丸ごと入っていた。鮮やかな緑色をただ見ているだけで、生臭さと泥臭さを感じる。食べられるカエルがいることは知っているが、それはアマガエルではなかったはずだ。


「おい、蒼志、これ……は……」


「ねえ、ちょっと、これ……」


 二人とも言葉が続かない。眉間にしわを寄せ、口は半開きのままだ。俺も全く同じ顔をしているのかもしれない。少し考えて、割り箸の袋に入っていたつまようじで、カエルの背中部分を突いてみた。……あ、なるほど。今度はつまようじの腹を、カエルの首に押し当てて強く力を加える。すると、カエルの首は少しひずんでから、ぷっつりとちぎれた。お嬢が「ヒィッ!」と息を呑む音がする。


 それから翠が切り口に顔を近づけ、じっくりと観察して、


「……なんだよ、かまぼこかよ! ったく、脅かすなよ!」


 そう、アマガエルは練り物で作られた偽物だったんだ。ただし、本物と全く見分けがつかないほど精巧に作られている。どう見ても食べられる物だとは思えない出来だ。


「まあ、食える物なら特に問題は無いな。さっさと食おうぜ?」


 翠はそう言うが、


「じゃあ、当たりは全部、翠君が食べてよ。あたし嫌だ、食べないからね」


 俺もお嬢の意見に賛成したい。が、芽衣子さんの苦労を無駄にはしたくない。これほど精巧な物を作り上げるには、相当の時間と労力を必要としたはずだ。そして俺は、こんな無駄なことにかける時間と労力を惜しまない芽衣子さんが、大好きだ!


「咲紅、大丈夫だよ。目をつぶって食べればなんてことないから」


「それは、そうかもしれないけど……でも……やっぱり……」


 んー、あともう一押しだ。


「どうしても駄目だったら残せばいいからさ。俺が代わりに食ってもいいし」


「……そ、それでいいなら……わかった。頑張ってみる」


 咲紅は意地っ張りの負けず嫌いだからな。一度、うん、と言わせておけば、あとは軽く焚きつけてやるだけで、嫌とは言えなくなっちゃうんだ。けっ、誰が代わってやるか!


「んじゃあ、つぎ開けるぞー」


 六つの目がジッと見守る中、二段目のタッパーを開けると、中には小さいタッパーが六つ並んでいた。続く三段目も全く同じだ。それぞれ蓋に、からあげ、玉子焼き、ポテトサラダ、ナポリタンと書かれたものが、三つずつ入っている。そして四段目にはドライアイスの紙パックと、デザートと書かれた小さいタッパーが三つ。昨日の夕食とあまり代わり映えしないメニューだな。どうやら芽衣子さんは、こんなところで手を抜いて、余計なところに力を注いだらしい。


「じゃんけんでいいよな?」


 とりあえず、四段目のデザートは後回しにして、二段目と三段目のタッパーをじゃんけんで平等に分けた。そして三人で目配せし、大きく深呼吸をしてから、


「……それじゃあ、開けていこうか」


 まずは、からあげから。タッパーの蓋に指をかけて一気に引きはがす。その中にいたのは――スズメだった。尾頭付きで、足付き、羽根付き、目玉付き。公園で遊ぶスズメを捕まえて、そのまま唐揚げ粉をまぶして調理すると、きっとこんな感じになるだろう。大きく開いた嘴は、まるで断末魔の悲鳴を上げているようだ。その中には舌のような物まで見えている。たぶん、材料は普通のニワトリなんだろうけど……芽衣子さん、すごい技術だな! そして、すごい暇なんだな!


「それ……本当に食べるの?」


「うわー、噛んだらすげえ音がしそうだぜ。ゴリッとか、バキッとか」


「ちゃんと食うよ。トリの唐揚げは好きだからね」


 お次は玉子焼きだ。当たりを引いたのは、どうやら翠のようだ。渋い顔をしてタッパーの中身を睨みつけている。それを見て咲紅はホッと一安心の表情だ。少し腰を浮かせて翠のタッパーの中を見てみると――そこには、たったいま切り落としたような、瑞々しい人間の指が数本、無造作に詰め込まれていた。うーむ、質感の出し方が素晴らしい。マニキュアが塗られた爪の艶、関節の大きなしわとその周りの小さなしわ、切り口は薄いピンク色で中央に白い物が見えている。タッパーの底に溜まったケチャップの色も、普通のものと違い黒々として毒々しい。こんなの、玉子でどうやって作るんだ?


「それ……本当に玉子焼きなの?」


「うげ、翠、無理しなくていいぞ?」


「くっ、食うよ! 玉子焼きは大好きだからね!」


 ナポリタンの当たりは咲紅が引いた。俺が自分のタッパーを開けて安心していると、お嬢が指先で、自分のタッパーを少しずつこっちにずらしてくる。中をのぞき込むと、


「……咲紅、魚釣りに行くのか?」


 と、思わず聞いてしまうほど見事に、魚釣りの餌が再現されていた。濡れたように艶のあるくすんだ紫色。長細い体には細かく節が刻まれている。少し太くなっているのは環帯と呼ばれる部分だろう。咲紅のタッパーの中には、太さ7ミリほどのミミズがスパゲッティナポリタンのように絡み合っており、さらにその上には泥の色をした挽き肉がたっぷりと盛られていた。


「おいお嬢、魚釣りに行くのか?」


 翠が俺と全く同じことを聞いた。


「行かないわよ!」


 そして俺のポテトサラダは、何匹かの芋虫によって食い荒らされていた。芋虫は親指くらいの大きさで頭が少し大きく、背中に等間隔で並んだ黒いラインにオレンジ色の斑点がある。これは、一般的なモンシロチョウでなく、キアゲハの幼虫だ。よく見ると、山の頂から顔をのぞかせている一匹は、俺を威嚇するように肉角を広げていた。


「うっわ、すっげーリアルだなぁ……」


「ほんっと、リアルよねぇ……」


 苦虫を噛み潰したような顔の二人。


「……いつまでも見てないで早く食おうよ。ほら、合掌、いただきます」


 二人が感心するばかりで、なかなか食べようとしないので号令をかけてやった。


「「あ、いただきます!」」


 まずはスズメに頭からかぶりつく。思った通り普通にうまい。他の当たりメニューも味に問題はなかったようで、二人はにこやかに口に運んでいる。おにぎりの他の当たりは、咲紅が小海老の佃煮のムカデを、翠がウズラの卵の眼球を引いた。


 周りの席の人が眉をひそめて俺たちを見ているが、二人とも全く気づいていないようだ。人間の指を旨そうに貪り食う翠と、口の周りに泥を付けてミミズを啜る咲紅。見ている方が気持ち悪い。


 ほどなくして俺たちは、全てのおにぎりとおかずを平らげた。残るはデザートのみ。例によってこれにも芸術的細工が施されているのだろうが、三人ともすでに感覚が麻痺しているようで、特に警戒も躊躇もせずに自分の一番近くにあるものを手に取った。少しだけ身構えて蓋を開けると――中に入っていたのは、うまそうな普通のチョコレートケーキだった。翠のタッパーの中にも同じ物が見える。と、いうことは。


「キャッ! ゴッ! ゴッ、ゴッ、ゴッ、ゴキッ!」


 なるほど。チョコレートを使って作れそうで、頭にゴがつくものといえばアレしかないだろうな。咲紅のタッパーを覗いてみると、やはり思った通りの物体がそこにあった。黒光りする平たい体と棘のある六本の足。頭からは糸のような触角が長く伸び、背中の薄い羽には葉脈のような細い筋が何本も刻まれている。例によって、いまにもカサカサと音を立て逃げ出してしまいそうなほどの出来映えだ。だが、こいつは……こいつの体長は10cmを軽く超えていた。普段見かけるものの倍以上の大きさだ。なんつうか、でけぇ!


「うわっ、ゴキブリかよ! しかもめちゃくちゃデカいぜ! お嬢、大丈夫か!?」


 翠が自分のケーキを口に運びながら声をかけた。同情しているような言葉だが顔はニヤニヤと笑っている。


「げっ、何これ、すっげえ油っこいな! テカテカじゃん! 咲紅、無理すんなよ?」


 気を遣ったような言葉だが、俺の顔もきっとニヤケていることだろう。


「……食べるわよ! ちゃんと、残さず、食べるわよ!」


 咲紅は目を細め、しばらくタッパーの中を見つめていたが、おもむろにプラスチックのフォークを握りしめると、勢いよくゴキブリの背中に突き立てた。開いた穴から溢れ出す、謎の黄色い粘液。オエッ! それから咲紅は、固く目を閉じてフォークを持ち上げ、ゴキブリを一気に口の中へと放り込んだ。冷やされたチョコレートを噛み砕くバリバリという音。お嬢の口からは、収まりきらなかった下半身と触角、さらに白と黄色のペースト状の何かがドロリとはみ出していた。


「おえっ、中から変な汁が出てるぜ」


「すっげえな。俺には本物のゴキブリを食ってるようにしか見えん」


 咲紅の目からは涙がこぼれ落ち、口からは「うぐっ」とか「おえっ」という声が漏れている。薄い羽も、棘の付いた足も、糸のような触角も、バリバリという音と共に口の中へと消えていき、最後に唇に付いた白と黄色の何かを舌で舐め取って、咲紅はゴキブリ型チョコレートを全て食べ終えた。そして涙と口の周りをティッシュで拭きながら、


「芽衣子さんって、よっぽど暇を持て余しているみたいね。お父さんに言って、何か仕事を増やしてもらった方がいいのかしら」


「僕は結構楽しめたぜ。また今度、作ってもらいたいね」


 翠は空になったタッパーを片付けている。


「俺も大満足だ。いい写真がいっぱい撮れたからな」


 そう言いながら、携帯の写真フォルダーを満ち足りた気分でチェックしていると、


「ちょっと! 変な写真撮ってないでしょうね!?」


 と咲紅が手を伸ばしてきて、俺の携帯を奪い取った。だが、咲紅の言うところの変な写真はすでに家のパソコンに送信済みだ。携帯のデータはとっくに消去してある。


「……お弁当の写真しかないじゃない」


「ああ、俺も食べるのに必死だったからさあ。それしか撮れなかったんだよ」


 そのあと、片づけを終えてテーブルを離れる時、俺たちの周りにやたら空席が目立つことに気づいた。けっこう周りの人たちに迷惑をかけていたのかもしれないな。

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