夜
ふわーぁあ。あー、もうこんな時間ですか。どおりで眠いはずですね。
あの人もお家に帰ってしまったことですし、私もそろそろ……あ、その前にメールチェック、メールチェック。進展があるとは思えませんが、一応は気にしておかないと。
あ、来てます、来てます。えーっとー、ザンカさんからの一通だけですか。どれどれ?
『今日の仕事中、町役場にあるサーバーのうち、三台のログに例のウィルスのものと思われる痕跡を発見した。本体はすでに移動した模様。役場内のPC等一通り調べるも他に成果は無し。引き続き調査を継続する。以上』
あー、まあ、そうでしょうねえ。ネットを通じてたくさんの人に協力を仰ぎ、一斉に攻撃を加えればどうにかできるかな? と思ったんですけど……。そもそも見つかりませんからね、あれ。痕跡だけでも見つけられたザンカさんは優秀だってことですね。
うーん、またなにか別の方法を考えないといけませんねえ……うーん……ああ、頭痛くなってきました。そうだ! 今日はもうやめて、明日考えることにしましょう!
えー、それでは、おやすみなさい。
――ピッ――
♢♢♢
この世界の何処かに、フィッシャーという動物がいるらしい。成獣の身長は90センチ前後、体重は5キログラム程度。尾が長くイタチやカワウソに似てとても愛らしい姿をしているそうだ。
名前から主食は魚だと思われがちだが、実際はネズミやウサギ等の小動物を、鋭い牙と素早い動きで追いつめ補食する。自分より体の大きな動物を餌食にすることも珍しくない。狐やアライグマを補食したことや、ペットとして飼われている大型犬とその飼い主が襲われたという事例も報告されている。動物記で有名なシートンによれば、成獣の鹿を襲って倒すこともあるらしい。
可愛らしい外見をしているが、近づく者すべてをその鋭い牙の餌食にしてしまうとても危険な生き物だ。
この加倉井家にも、それに似て極めて危険な生物がいる。だが、俺はこの時そのことをすっかり忘れてしまっていたんだ。
「――ねえ蒼志、本当に大丈夫なの?」
午後六時頃だろうか。自転車を車庫にとめたあと、俺たちは幾分気温の下がった家の庭を玄関に向かって歩いていた。
大丈夫か、だって? いったいなんのことを言っているのだろう。少し疑問に思ったのだが、さっきのケーキのせいで夕食のメニューが気になっていた俺は、あまり深く考えるようなことはしなかった。ああ、塩辛食いたいな、塩辛。
「ああ、大丈夫だろ」
「そう? ならいいんだけど。それで、明日はどうするの?」
「九時過ぎに出る予定。翠と九時半に校門で待ち合わせてるから。朝、起こそうか?」
「いいわよ、べつに。学校行くのより遅いんだから大丈夫よ。逆に蒼志の方が心配。ねえ、起こしてあげようか?」
「いいよ、べつに」
そんなありふれた会話を交わしながら玄関の扉を開けると、すぐ目の前に笑顔の芽衣子さんが腕組みをして立っていた。
「おかえり、永穂」
芽衣子さんは俺のことを名字で「永穂」と呼ぶ。小さい頃は名前で――あっ、まずい!
そう思ったときには、すでに首を鷲掴みにされていた!
「ずいぶん遅かったのねぇ、永穂。あ、咲紅ちゃんおかえりー。晩ご飯もうすぐ出来るから、いつもの時間に降りてきてねー」
加倉井家の夕食の時間は七時。一階の食堂で家族全員で食べる。と言っても、咲紅、親父っさん、芽衣子さんと俺の四人だけだ。芽衣子さんの仕事は夕食を作るまでなので、食べるときは家族扱――ぐあぁ、外れねぇー!
さっきから芽衣子さんの手を外そうとしてるんだけど……びくともしない! まえに一度だけ芽衣子さんに、握力が何キロあるのか聞いた事がある。120キロだと笑いながら言ってたから冗談かと思っていたが――、
「永穂はぁ、お姉さんのお部屋でぇ、二人でぇ、いいこと! しましょうねぇ?」
くっ! 俺の心臓が大きくドキドキと鳴っているのは、頬を染めて息を荒くした年上の女性に甘えたような声でそんなことを言われたからではない! これから彼女の部屋で行われるであろう恐るべ――うあっ!
芽衣子さんは空いているほうの手を俺の腰に回し、脱いだジャケットを小脇に抱えるようにして持ち上げると、そのままの姿勢で揺らぐことなく急な階段を上り始めた!
「さ、咲紅……助けて……」
突然のことに驚き正しく機能していなかった喉から、絞り出すように声を出して助けを求める。が、咲紅は握った両手を口の前に当てオロオロとするばかりだ。
「はん! 情け無いわね、女の子に助けを求めるなんて。いまので三倍になったから」
なにがですか!?
そして芽衣子さんは瞬く間に階段を上りきり自分の部屋のドアを開いた。ピンクを基調とした女の子らしい部屋が見える。中にあるのは大きなクマのぬいぐるみと――あたりに砂を撒き散らした無惨なサンドバックの残骸!
芽衣子さんは俺を抱えたまま部屋に入ると、素早く扉を閉めて鍵を掛けた。
「い、痛てぇ……」
俺が解放されたのは、それから三十分ほどあとのことだった。全身の痛みに耐えながら自分の部屋に向かって廊下をずるずると這っていると、咲紅が部屋から出てきて、
「だ、だいじょうぶ? ねえ、大丈夫?」
と、泣き出しそうな顔で近づいてきた。大丈夫じゃないけど大丈夫だ、と答えると、
「で、でも救急箱、用意しといたから」
そう言って俺を自分の部屋まで引きずって行った。
咲紅の部屋の床で仰向けの俺。咲紅はベッドの上に寝かせたかったようだが、どうしても持ち上げることができず諦めた。少し考えて枕だけ当ててくれた。
首を回すと、そばに救急箱が見える。木製の、俺の顔の三倍はある大きな救急箱だ。
「血は……出てないみたいね」
そう、芽衣子さんのお仕置きを受けても怪我をすることはない。ただ、ひたすら痛いだけだ。体中の関節を全て外し、あいだに細かく砕いたガラスの粒を挟んではめ直したような痛みがしばらくは続く。
「か……関節が、痛い……」
痛みに耐えつつ声を絞り出すと、咲紅は救急箱から湿布薬を取り出して、手足の関節に塗ってくれた。ああ、冷たくて気持ちいい。ほんの少しだが痛みが和らいだ気がした。
「ちょっと楽になった……ありがとうな、咲紅。心配してくれて」
俺が目を閉じて礼を言うと、咲紅は恥ずかしそうに「うん」と応えた。
「でもさ……でも、芽衣子さんのお仕置きは、ただ痛いだけじゃないんだ」
「……へえ? そうなんだ」
「なんていうか、柔らかい二つの丸いものが押し当てられて、気持ちいいっていうか……ああ、特別に大きいってわけじゃないんだけどさ、手頃な大きさで……」
急に暗くなった。目を開けてみると、さっきまで見えていた蛍光灯が見えなくなり、そのかわりに木製の大きな箱が。
咲紅は、俺の顔面に救急箱を打ち下ろした。
「い、痛てぇ……」
自分で張り付けた鼻の付け根と右眉の上の絆創膏を押さえつつ階段を下る。時刻は六時五十五分、そろそろ夕食の時間だ。足を引きずりながら食堂にはいると、俺以外の三人はすでにいつもの席に着いていた。
長方形のテーブルの、短い辺にツヤツヤした顔の芽衣子さん。時計回りに俺とむくれた咲紅が並んで座り、芽衣子さんと向かい合って親父っさんが座る。俺と咲紅の向かいの席に座るとリビングのテレビに背を向けることになるので誰も座らない。
「親父っさん、おかえり」
「ああ……どうした蒼志、顔に怪我でもしたのか?」
いま俺にそう聞いた、このでかくて巨大な大男が親父っさんだ。加倉井家当主、加倉井厳一朗。身長198センチ、体重は127キロ。分厚い鉄板を張り付けたような胸板が襟元からのぞいている。極太のワイヤーを数本束ねたような腕は、のせてるだけでチーク材のテーブルを突き破ってしまいそうだ。いまは空色のアロハシャツにベージュのハーフパンツ姿だが、仕事に行くときはいつもスーツを着用する。すると、盛り上がった筋肉が醸し出す、ただ者ではない感がハンパない。
おそらく、暴れ出した親父っさんを止めることが出来るのは、この近所では芽衣子さんくらいだろう。いや? 暴れ出した芽衣子さんを止めることが出来るのは、この近所では親父っさんくらいだ? ……まあ、どちらにせよ俺や咲紅のような一般の人間とは、何か違った生物であることは間違いない。
「転んだんだよ、道で。大した怪我じゃないから気にしなくていいよ」
と、俺が無難な答えを返すと、
「え? 咲紅ちゃんにイタズラしようとして、返り討ちにあったんでしょ?」
こんなふうに芽衣子さんがでまかせを言って、
「なんだと!? それは本当か! 答えろ蒼志!」
そして親父っさんが怒り出す、というのはよくあるパターンだ。
「ち、違うって、本当に転んだんだって! 芽衣子さん、適当なこというなよな!」
「そうか……ならいいんだ。それでは食事を始める。合掌! いただきます」
「「「いただきまーす!」」」
いつも夕食はこんなふうに始まる。そして食事が始まるとみんなほとんど喋らない。べつに、そんな決まり事があるわけじゃないけど、親父っさんがあんま喋んないからかな? 自然とそうなっている。
さて、それじゃあ俺もいただくとしようか。あとの説明は食べながらということで。今日のメニューは……ベタだな。鶏の唐揚げ、ナポリタン、油揚げと豆腐の味噌汁、ポテトサラダ。だが、昼間食ったケーキの影響が色濃く残る俺の胃袋にとっては、喜ばしい組み合わせだ。グサッ、ガブッ、モグモグモグ……。
親父っさんの仕事は発電所管理局の局長だ。この発電所管理局、正式な名称は「発電所及び関連重要施設等統括管理局」という。微妙に長くて言いにくいので、みんな発電所管理局と略して呼ぶ。
俺のオヤジと母さんも、生前はここで研究員をしていた。二人とも親父っさんの部下ってことになるんだろうけど、全然そんなふうには見えなかったな。仕事中は知らないが、普段は親父っさんのことを「厳ちゃん」って呼んでたし。
業務内容はその名前のとおり、発電所や地下の工場、あとは町の外周に沿って設置された柵なんかの管理だ。柵は、まあ当然、外敵から町を守るために建造されたものだな。いまもその外敵っていうのが、いるのかどうかは知らないけどね。
発電所があるのは町の外、つまり柵の外側なので一般人が近づくことはできない。あの柵には、かなり強い電気が流れてるからだ。近寄るだけでビリビリ感じるほどの。親父っさんはちょくちょく行ってるみたいだけど、どうやって町の外に出るのかは不明だ。
柵のそばまで行くと見えるんだけどさ、なんか不思議な感じの建物なんだよね。真っ黒いのっぺりとした立方体なんだけど、窓とか出っ張りとかが一つもないんだ。そんなものが草以外になにもない、だだっ広い草原にポツンと建ってんだよ。なんか行ってみたくなるよな? で、中を荒らしまく――調査してみたい。
「ごちそうさまでした」
咲紅が食事を終え、食器を流しへと運んでいく。親父っさんと俺はとっくに食べ終わって、リビングのソファーで食後のコーヒーを啜っていた。
「あのね、パパ……」
咲紅が親父っさんのほうに歩み寄りながら声をかける。すると、さっきまでの無表情が嘘のように、親父っさんの顔が良いパパの顔へと変化した。咲紅と話すときはいつもこんな具合だ。父親って、みんなこうなのか? てことは、俺のオヤジもそうだったのかな?
「どうした咲紅、なにかあったのか?」
「明日なんだけど……門限を少し、遅くしたもらえないかと思って……」
「ふむ、その理由を聞いてもいいか?」
「友達と花火大会に行きたいの。夜の七時から始まるから、ね?」
その友達っていうのは俺と翠のことだ。明日行く荒川――アラカワ・サマーフェスタの会場では夏休みの期間中、毎週日曜日に花火大会が行われる。今年はたまたま夏休みの初日、つまり明日が日曜日にあたるため、見物しようって話になった。で、問題になるのが咲紅の門限だ。なんせ午後六時だからなあ。
「その友達というのはどういった子なんだ? 俺が知っている子か?」
親父っさんの問い掛けに、反射的に俺の方に目を向ける咲紅。バカッ! こっち見んな! いや、べつに隠してるわけじゃないけど、俺も翠も男だからな。絶対、嫌がるだろ。下手すると許可が下りない可能性だってある。あ、やべ、親父っさんがこっち見てる。とっさに俺は顔を逸らして口笛を吹こうとしたが、それよりも先に、
「蒼志……」
声が1オクターブ下がってる! 顔も変わってる! 今の親父っさんの顔は、逃げ惑う敵を一方的に追いつめる冷徹な戦士の顔だ!
「……蒼志。俺は……おまえを信用してもいいのか?」
そして深く落ちくぼんだ眼窩の奥から、突き刺すような視線で俺を睨む。
「あっ、あっ、あっ、当たり前じゃん! 絶対無事に家に連れて帰るって、約束するよ!」
吹き寄せる、殺気にも似た何かに逆らうよう声を絞り出す俺。
刃先を押し付けた肌のような緊張感が、今このリビングに満ちている。ほんの少しでも力を加えると、血が吹き出してしまいそうな空気だ。
実際には一秒にも満たなかったのかもしれない。あるいは十秒より長かったのかもしれない。だが、俺には永遠とも感じられるほど長い時間、額の汗を拭うこともできずにいると、やがて親父っさんは小さく息を吐き、そして、
「……いいだろう、九時だ。それ以上遅れるようなことがあれば……わかっているな?」
「おっ、おっ、おっ、おう。任せときっ!」
噛んだ。
それからしばらく四人でテレビドラマを楽しんで? そして、それぞれ部屋に戻った。え、ドラマの内容? そんなの覚えてないよっ! くっそー、芽衣子さん、流しで皿洗いながらずっと笑ってたな。まあいいけどさ。
しっかし、なんか今日は疲れた。早めに寝よ。明日は予定どおり荒川だ。寝過ごさないようにしないとな。
目覚まし時計を確認して、俺は頭から毛布をかぶった。