朝Ⅰ
赤い屋根のお家が見えます。あの人が住んでいるお家です。
あの人はここで、とても幸せそうに暮らしています。お金持ちみたいだし、お庭は広くて綺麗なお花がいっぱい咲いているし、お家の人はみんな優しそうだし。なのであの人はいつも楽しそうに笑っています。なので私も、いつもそんな気持ちです。
あの人が玄関から現れました。いつも通り学校へ行く時間です。
玄関の扉をくぐって、
少しだけ急ぎ足で、
涼しげな噴水の周りをお掃除している、お手伝いさんみたいな女の人に挨拶をして、
そして門の方に向かって、石畳の上を颯爽と駆けていきます。
おや? 門のあたりで振り向いて、女の人に何か言っているようですね。
えーっとー、察するに、
「行ってきます、かずみさん!」
「行ってらっしゃい、かずとくん。お勉強頑張ってね!」
「かずみさんもお仕事頑張って。それじゃ!」
うふふっ、こんな感じでしょうか?
♢♢♢
……………………、
…………うっ、
意識が、だんだんハッキリしてきた。えーっとー……なんだっけ?
ああ、いや、学校だ。いつも通りに学校へ行くんだ。朝起きると、いっつも記憶が消えてんだよなあ。みんなもこうなのか? まあ、どうでもいいんだけど。
ああ、かったるいなぁ、ちくしょう。でもまあ今日行けば明日からは夏休みだから、あの辛気臭い担任の顔もしばらく見ずにすむんだよな。仕方ない、まだもう少し寝ていたいところだが、頑張って起きて――、
「ねえ、ちょっと! 蒼志! 起きてんの? ねえ、学校行くわよ!」
起き抜けのゆったりとした空気と眠気を吹き散らすかのように、けたたましく連打されるノックの音。そして、それに輪をかけてけたたましい甲高い声。この一連の騒音の発生源は、その名を加倉井咲紅という。平たく言えば、まあ、俺の幼なじみだ。まったく毎日毎日、朝っぱらから騒々しい。
ヤツのせいだ。見た目通り陰湿な性格の担任が、遅刻常習犯の俺をなんとかするよう咲紅に言いやがった。クラスの女子はみんなあの男の言いなりだからな。なんでもヤツラの腐りきった目玉からだと、あのおっさんは相当な美形に見えるらしい。俺たち男子には全く理解できないけどな。
そんなわけで同じ家に住んでいる咲紅が、毎日俺を起こして学校まで一緒に行くことになった。なんで幼なじみの俺と咲紅が同じ家に住んでいるかっていうと、三年ほど前に俺の両親が交通事故で死んじゃって、んで、その葬式の時に咲紅の親父っさんが「家に来い!」と言ってくれたからだ。
血縁のある親戚もいるにはいるんだけど、そいつらの家があるのは町の南側。俺が当時住んでいたのは北側。で、加倉井家があるのも北側。転校したり生活環境が変わったりするのが嫌だったから、俺は加倉井家で世話になることに決めた。それに親戚とはあんまり会ったことないしな。近所で、しかも親同士が学生時代からつきあいのある加倉井家との方が、断然、交流が深かったということも理由の一つだ。
あと、こっちの方が金持ちだ。なにしろ親父っさん――加倉井厳一朗は、発電所管理局の局長だからな。この町で一番偉いと言っても差し支えない人物だ。
ついでに説明しておくと、発電所管理局っていうのは通称で、正式には――、
「ちょっと蒼志! ひょっとしてまだ寝てるの!? ねえ、ちょっと蒼志!」
頭からかぶった毛布を貫通し、鼓膜に突き刺さる鋭い声。
うるさいなあ。俺、今学期は一回も遅刻してないんだから、最終日にちょっとくらい遅れたって、誰も文句は言わないよ。
「あー、起きてるよ! 悪いけど先に行ってくれ、ちょっと大事な用事があるんだ! たいして時間かかんないから、すぐに追いつくよ!」
「はぁ? なによ用事って。子供にとって学校より大事な用なんて、そうそう――」
「あー、いいか、咲紅。子供でも俺たちは男と女だ。女のおまえには男の俺に言いにくいことの一つや二つあるだろう? 同じように俺にも、おまえに言いにくいことはあるんだよ。な? だから先に行け。必ず追いつくから」
「えっ? なっ、なっ、なによう、言いにくいことって……あたしはべつに、そんな、言いにくいこと、なんて……んもう、わかったわよ! じゃあ絶対、学校に着くまでには追いついてよね! ちゃんとあんたを連れて行くって、先生と約束したんだから!」
「ああ、わかったよ。だから早く行け」
「絶対よ!」
数秒後、ドアの前から咲紅の気配が消え、すぐに階段を下りていく軽い音が聞こえてきた。ふう、行ってくれたか。いや、べつに二度寝するつもりだとか、咲紅と一緒に学校へ行くのが嫌だとかで嘘ついたわけじゃないよ? 実際、用事はちゃんとある。昨日、寝るときに思いついた計画をさっき思い出したんだ。ま、たいしたことじゃないんだけどね。
ほら、俺ってまだ一応、世間一般からは子供って言われる年頃じゃん? 世の中にはさあ、子供がしても笑って許されるけど、大人がすると洒落にならないようなことがいっぱいあるんだよ。そのうちの一つをね、今のうちにやっておこうかなってね。大人になってから後悔したくないからさ。ああ、あの時やっておけばよかったな、ってね。
それじゃあ早速始めようか。あんまり時間に余裕があるわけじゃあないしな。
まずは学校へ行く準備からだ。一階の洗面所でザブザブ顔を洗ってから食堂へ向かう。テーブルに用意された朝食――今日の献立は、ほうれん草のお浸しになめこの味噌汁、メインがアジの開きで、あとは白いご飯と漬け物が数点――を、ムシャムシャと平らげる。そして洗面所でガシガシ歯を磨く。終わったら部屋に戻り、吊してあった制服にパパパッと着替える。以上で完了だ。これらの作業にかかった時間、わずかに五分。すげえな俺。もし大会があったら優勝しちゃうんじゃないの? 町内で最も学校へ行く準備が早い男、か……。あんまかっこよくないな。却下だ却下。
よし、んじゃ、ここからが本番、作戦開始だ。
部屋のドアをそっと開け気配を殺して廊下を進む。このあたりで目標に気づかれることはまずないと思うが、一応念のためにな。そして階段。ここにある型板ガラスの窓は庭から丸見えだが、今は外の方が明るいので特に問題ないだろう。物音を立てないことにだけ注意して慎重に下っていく。階段を下りきると、そこが玄関だ。横窓から外の様子をうかがいつつ、スリッパからスニーカーに履き替える。お、窓越しに白黒の人影が動いているのが見えるな。しめしめ。
それから細心の注意を払って玄関の扉を少しだけ開いた。そっと隙間に顔を近づけ、庭をのぞいてみると……果たして、目標はそこにいた。噴水の手前で竹ぼうきを自在に操り庭を掃いているメイド服姿。
うひょーっ! やっぱ、めちゃくちゃかわいいなあ、芽衣子さん! 丸い感じのショートカットが超似合ってるし、現代風市松人形のような横顔は、強烈な夏の日差しにも負けずに完璧な白を保っている。全体的にこぢんまりとまとまった感じも素晴らしい!
この愛くるしいメイドさんはいったい何者なのかというと、ぶっちゃけ加倉井家のお手伝いさんだ。咲紅の母親は俺たちがまだ小さい頃に病気で亡くなっているので、その代わり? 穴埋め? うーむ、あまり良い表現じゃないな。でもまあ、そんな感じで親父っさんが雇ったお手伝いさんの、芽衣子さんは二代目。因みに初代も相当な別嬪さんだったし、咲紅の母親――佳代さんという。当然、親父っさんの奥さんだった人だ――に至っては、この町総ぐるみのミスコンで優勝するほどの絶世の美女だ。つまり、ああ見えて親父っさんは、かなりの面食いってことなんだろうな。
あ、いかんいかん、ぼーっと見とれている場合じゃない、行くぞ!
その場で軽く深呼吸したあと、これまでより更に慎重に、ジワジワと扉の隙間を広げていく。ギリギリで俺が通れるくらいまで開いたところで一旦停止し、芽衣子さんの様子をチェック。
……うん、気づかれた様子はないな。しかも、うまい具合にこっちに背中を向けている。でも……なぁーんで気づかないんだろう。芽衣子さん、町内でも有数の格闘技の達人なのにな。俺、格闘家とか、武道家って呼ばれてる人たちは、みんな人の気配に敏感なもんだと思ってたけど……違うのか? ……いや、そういうことじゃないな。おそらくこれは性格上の問題だ。芽衣子さん、すぐ調子に乗るからな。で、油断する。
ともあれ、この状況が俺にとってチャンスだということには変わりない。俺は扉の隙間を素早く通り抜け、後ろ手にゆっくりと閉めた。そして庭を縦断する石畳の上を、速すぎもせず、遅すぎもしないスピードで、着実に芽衣子さんの背後へと近づいていった。うは、これまでの人生で最高の忍び足だよ。すげえな俺。芽衣子さんの後ろ取っちゃったよ。
だが、喜んだのも束の間。そこまで近づいて、ようやく俺は理解したんだ。芽衣子さんが俺の接近に気づかなかった、本当の理由を。
「……フン、フ、フン、フン、フン、フン、フン、フーーーン……」
あれ? 鼻歌? あれ? 耳から白いコードが……なんだよ、ヘッドフォンで音楽聴いてたのかよ。どうりで気づかれないはずだ、と、ほんの少しガッカリしたが、いや待てよ、これは絶好のチャンスじゃないか! と、すぐさま思い直す。そして両手を組んでアレの形――拳銃、かな? ――にすると、思いっきり引き絞ってから、一気に解き放った。
「うぎゃんっ!」
おし! 完全に入った! 手応えバッチシだ! だが、ここで油断してはいけない。取り急ぎこの場を離脱しなくては!
なぜならば、芽衣子さんならたとえ意識が無くとも、とっさに俺の腕をつかんで腕ひしぎ十字固めくらいはやりそうだからだ。 ……が、……その心配は杞憂に終わったようだ。俺が駆け足で門にたどり着く頃になって、ようやく芽衣子さんはその半身を起こし、四つん這いの姿勢のままで俺の方をキッとにらんだ。
「はははっ、うぎゃんっ、だって。芽衣子さん、可愛い声出せるじゃん。普段からさあ、怒鳴ったり叫んだりだけじゃなく、そういう可愛らしい――」
「――黙れ、永穂!」
あ、永穂は俺の名字。芽衣子さんは俺のことをそう呼ぶ。
「よ、嫁入り前のうら若き乙女にカンチョーとか……あんた、死ぬ覚悟はできてるんでしょうねぇ? 学校から帰ってきたらケチョンケチョンにしてやるから! 覚えてなさいよ!」
「はははっ、覚えてるに決まってるだろ? 芽衣子さんのお尻の感触は、ほろ苦い青春の一ページとして永久に俺の心のダイアリーに保存されるんだからな」
「くっ、消してやる……そんなもの、あたしの技で、あんたの心ごと消してやる!」
うわ、相当怒ってんな。まったく、子供のいたずらに対して大人気ない。あ、でも芽衣子さん、確か19歳だから……ま、俺よりは大人ってことでいいか。
「はははっ。あ、今日昼飯いらない、食べて帰るから。それじゃ、行ってきます!」
こうして俺の計画は、ものの見事に成功した。さあて、急いで咲紅に追いつかないと。あいつがヒステリー起こすと芽衣子さんより厄介だからな。