追憶 -memories-
「へ? 何にも写ってなかったの?」
目の前の少女がそう落胆した声を上げる。彼女の名前は千夏。私の弟である夏飛の孫で、たまにこうして私の家を訪ねてくれる。
果たして私を気にしてくれているのか、それとも単に美味しいお茶の出てくる休憩所としているのかは私の知るところではないが、一人暮らしの老婆にとってはどちらにせよ嬉しいものだ。
「そう、何にも写ってなかったの。それでどうだった? 今回の私のお話」
安楽椅子に座りながら千夏の言葉に返事をする。
「うーん、六十五点くらいかな?」
「あら、厳しいわね。良かったら採点の理由を教えてくれるかしら?」
最近の子にはもっと格好良い話の方が良いのだろうか。
「話は素敵で面白かったんだけど、最後のオチで台無し。夏弥さんと明石って人の勝負がどうなったのかもわかんないじゃん」
千夏の指摘は正しい。しかし、与太さんがどうなったのかは私も知らないし、明石さんとの勝負にしても未だ決着がついていないのだから仕方がない。
あの日から数十年が経った今日に至っても明石さんは度々この家を訪ねてくれる。そのため殆どの友人が亡くなったいまでは私の最も親しい友人だといえるだろう。
「だから、そこのところを直した方が良いと思うよ、私は」
「ふふ、わかったわ。読者の意見は大事にしないとね」
ちなみに私はあの後普通の企業に就職し、何事もなく定年を迎え、いまは細々と小説を書いて暮らしている。そのため千夏にはたまに新作の小説の評価をお願いしているのだが、私が体験したあの出来事はどうやらいまひとつのようだ。
「まあ、鵜呑みにするのも危ないと思うけど……あ、おいしいね、これ」
私が用意した紅茶を口にしてそう呟く。
「やっぱり? おいしいわよね、この紅茶」
この紅茶は私が与太さんの家で御馳走になったものだ。あのときの味が忘れられず長年探し求めてやっと手に入れることができた。
「そういえば、今日この後お客さんが来るんだっけ?」
「ええ、そうなの。この紅茶を見つけてきてくれた人なんだけど……千夏も会っていく?」
「いや、いいや。もうすぐテストだし、帰って勉強しないとお母さんがうるさくってさ」
「あら、そうだったの?」
「うん、だから今日はもう帰るね。あ、見送りは良いよ。今日の夏弥さん何だかしんどそうだし」
「そんなことないわよ、老人の体力を侮っちゃダメ。……でも、まあ今日は千夏の好意に甘えさせてもらうわね」
「わかってるって。じゃあ、またね」
そう言って元気よく部屋を飛び出していく千夏。その後ろ姿を眺めながら私は長いため息を漏らした。
「ふう…………」
千夏が察した通り最近身体の調子が優れない。気を抜けば一気に身体のバランスを失い立っていられなくなるほどに。そのため今日は殆どこの安楽椅子に座っていたのだが、そのおかげで千夏に見破られてしまった。
「まあ、私ももう歳だからねえ……」
誰に伝える訳でもなくそんな言葉が出てしまう。それこそ自分が歳をとったという何よりの証拠なのだがそれは気にしないことにしよう。
「そうそう、もう結構なお歳やねんから無理したらアカンで? 夏弥婆ちゃん?」
千夏が帰ったことによって私しかいないはずの家の中に私以外の声が響く。しかし、私はまったく慌てることなくその声の主に言葉を返す。
「あなたには言われたくないわね、その台詞。私より年上でしょう、元ちゃん?」
そう言って椅子に座ったまま声のした方へと顔を向けるとそこには、一人の女性が立っていた。かつて私が「明石さん」と呼んでいた人間。
その人物は相も変わらず赤いタンクトップとクラッシュジーンズに身を包み、からからと楽しそうに笑っている。
「あはは、そう呼ばれんのも久しぶりやなー」
七十年前の姿からやや成長した姿。あのときにはあった少女のような表情は消え、いまでは大人の女性の雰囲気を醸し出している。
「そうね。あなたに会うのも随分と久しぶり。元気にしていたかしら?」
「元気、元気。だってまだウチ百歳半ばやで? 人生の折り返し地点にも到達してへんもん」
元ちゃんはドアの前から離れ、私の座っている椅子の背もたれの部分を掴み椅子を優しく揺らしてくる。
「ふふ、こう言ったらあなたは嫌がるかもしれないけど時々元ちゃんが羨ましくなるわ。まだまだお肌がピチピチじゃない」
「ん~、寿命が長いっちゅうのはそんなええもんでもないで? 寿命が長すぎて生きるのに飽きて自殺するヤツもたまにいよるし。……まあ、ウチはそんなことより知り合いが先に逝ってまうんが一番嫌やけどな」
私の位置からでは元ちゃんの顔を見ることはできないが、その声はとても悲しげで、寂しげだった。
「元ちゃん?」
「あ、ああ何でもあれへんよ。変なこと言うてゴメンな」
と、ここで彼女はテーブルの上に置いてあるカップの中身に気づいたようだ。
「あれって、もしかしてウチが探してきたヤツ?」
「そうよ。あなたが送ってきてくれた紅茶。ごめんなさいね、無理を言って」
「紅茶を探すくらいウチにとったら無理でも何でもあらへんよ。気にせんとって」
テーブルに残っていた千夏のカップにティーポットに残っていた紅茶を注ぐ。
「あ、美味いなあ、この紅茶」
「でしょう?」
千夏と同じような反応をする元ちゃんについ微笑みを漏らしてしまう。
私は何て幸せな時間を過ごしているのだろう。しかし、何とも罰当たりなことに私の心は満足していない。それはこの瞬間ここにいてほしい人がもう一人いるからだ。
結局あの人とはあの事件以来、一度も会うことは叶わなかった。
これまでに何度あの手紙に書かれていた「また会える」という言葉を疑ったことだろう。何度会うことを諦めかけて、一人で泣いたことだろう。
それでも諦めなかったのはやはり、目の前の友人のおかげだ。彼女がいたからいまの私があるといっても過言ではない。
「あ~、ところでな?」
静かに紅茶を啜っていた元ちゃんは突然そう切り出した。
「どうしたの?」
いつもハッキリとした言動をする彼女がこんなにも歯切れの悪い言い方をするのは珍しい。何かあったのだろうか。
「今日はもう一人連れがおんねんけど会ったってくれへんやろか?」
「え? それは別に構わないけれど……。もっと早くに言ってくれればお茶菓子も用意できたのに。それでその方はどこにいらっしゃるの?」
慌てて客人への準備をしようとする私を元ちゃんが手で制する。
「ちょい待ち。そのまま座っといて」
「?」
そう言って立ち上がり彼女は私の椅子の向きを正反対の方向に向けた。そうして目の前に見えるのは私の位置から少し離れたところにある壁と陽光の射し込む窓だけだ。
「元ちゃん、どうしたの? それにお客さんは……」
「心配せんでええ。夏弥ちゃんはここに座って真っ直ぐ前を向いとって」
心配するなって言っても……。彼女の意図がわからず戸惑いが隠せないが、とりあえずここは友人を信じることにした。
言われた通り、壁と窓以外何もない空間を凝視する。愛想のない白い壁、それに日の光に照らされて小さな埃が舞っているのが見える。
それから一分ほど経っただろうか。目の前の空間に異変が起き始めた。
壁の一部分がぼやけたように見えなくなる。それに加えて初めは私の足元まで伸びていた日の光がまるで何かに遮られているかのように不自然な形に変形した。
その異常に気づいているはずなのに、私の後ろに立つ元ちゃんは何も言わない。
一体何が……?
そう考える間もなく異常は着々と進行していく。
霧がかかったようにぼやけて見える範囲は徐々に広がっていき、人型を取り始める。無色だった霧が着色される。
ここまで異常が進行して私はやっと目の前で何が起こっているのかを理解した。私の目の前に一体誰がいるのかが理解できた。
「ああ……!!」
思わず歓喜の声を漏らす。
どうして?
どうやって?
様々な疑問が浮かんでくるが、そんなことは些細なことだ。
私の頬を一筋の涙が伝う。
私の心が無上の喜びを訴える。
「……与太さん……!!」
目の前の霧がようやく一人の人間を形成し終えた。そうして私の目の前に立っていたのは一人の青年。
真っ黒な服装。
頭に被ったハンチング帽。
不健康そうだが割と整った顔立ち。
そのどれもが私の心を刺激した。
「お久しぶりですね、夏弥さん。ちゃんと私の声は届いていますか?」
この瞬間を待ち焦がれていたはずなのに声を出すことができない。感情が私の中で暴れまわる。
「夏弥さん?」
「あ、ああ、ごめんなさい。急なことだったから驚いてしまって……」
与太さんに再び名前を呼ばれ、ようやく私は声を取り戻す。後ろで元ちゃんが笑いを噛み殺しているのが何となくわかった。
仕方がないじゃない。本当に吃驚したんだから。
「それはすいませんでした。ですがどうしても今日貴女に会わなければならなかったので」
「あ、ごめんなさい!! 別に責めている訳じゃないの」
「おーい、折角再会できたっちゅうのに何を謝罪合戦しとんねん」
呆れた声で元ちゃんが口を挟む。しかし確かに彼女の言う通りだ。このままだとずっとお互いに謝り続けることになりそうな気配がする。
「まったく……。ウチは席外すから、その間に二人で楽しゅう話でもしときや」
「え、ええ……」
そのまま部屋を出ていくかと思いきや、彼女はドアのところで一旦立ち止まり私に声をかけた。
「夏弥ちゃん」
「どうしたの?」
「ばいばい」
「?」
それだけを言うためにわざわざ私の名前を呼んだのだろうか? 席を外すだけなのに……? 彼女の行動に多少の疑問を抱きつつも私は与太さんの方に向き直る。
そうだ、折角元ちゃんが気を利かせて彼と二人きりにしてくれたのだ。そんな疑問で時間を無駄にしては彼女にきっと怒られてしまう。
そう判断し、私は与太さんと同じ時を過ごした。
彼に色んなことを話した。
与太さんが消えたあとのこと。
高校の卒業式の思い出。
大学でどんなことを勉強したのか。
会社ではどんなことが大変だったか。
弟の夏飛が結婚したときのこと。
その孫の千夏のこと。
そして私がいま何をしているのかを事細かに話した。言うなれば私の歩んできた人生を彼に話したことになるだろう。
そんな話に延々と付き合わされて与太さんは迷惑ではないだろうかとも思ったが、彼は時に相槌を入れ、時に質問をしてくれた。そういったところから考えると、どうやらまったく興味がないわけではなさそうだ。何故なら彼は興味がない話を聞かされたときは淡々と聞き流すからだ。それはあの事件のときに嫌というほど身をもって体験している。
「夏弥さん、貴女のこれまでの人生について最後に一つ質問をしても良いでしょうか?」
私が私の話を語り終えたとき、与太さんはそう問いかけてきた。
「ええ、何でも聞いてもらって結構よ?」
彼はいつかのように真っ直ぐに私の目を見る。
そして
「貴女の人生は幸せでしたか?」
と、尋ねた。
ああ、何だそんなことか。もっと答えにくい問いをされるものだと思っていたので正直拍子抜けしてしまった。
そんなこと考えるまでもない。
私は与太さんの目を見つめ返して言う。
「勿論よ。私の人生は幸せだったと断言できるわ。最後の望みもいま叶ってしまったもの」
あなたに会うという最後の望みが。
「よかった」
何ということだろう。
与太さんに会えるだけで良い。それだけで幸せだと思っていたのに。それ以上の喜びがあるなんて。
あの与太さんが。ずっと一緒にいた事件のときにもそして話をしているいまもずっと表情の変わらなかった彼が。
笑ったのだ。
その笑みは温かく、そして優しく私の心を包み込む。
「……どうしました?」
私が急に押し黙ったことを不審に思ったのだろう。笑顔を引っ込ませ、その顔をいつもの無表情に戻した与太さんが問いかける。
「その……あなたの笑顔を見るのは初めてだったから、驚いただけよ。気にしないで」
「笑って……? 私はいま笑っていましたか?」
「ええ、笑っていたけれど?」
「そう、ですか……」
与太さんは明らかに動揺している。一体どうしたのだろうか?
「どうかしたの? そんなに自分が笑ったことが不思議?」
「ええ、まあ。あの日以来笑ったことはありませんでしたから。自分がまだ笑顔の作り方を覚えていたのに驚いてしまいました」
あの日。与太さんの家族が皆殺しにされた日。
その言葉を聞いて、私はずっと聞きたかったことを尋ねることにした。
「それで、……あなたの探し物は見つかった?」
私はそう問うたが、本当はこう聞きたかった。
復讐を遂げたのかと。
犯人を殺したのかと。
しかし、私がそう言わずとも、彼は私の質問の意図は理解したようだ。少し躊躇う素振りを見せたが、最後には教えてくれた。
「はい、私は……私の家族を殺した男をこの手で殺しました」
「……そう……」
何とも複雑な気持ちだ。
与太さんの未練が果たされたことは嬉しい。
しかし、彼が人を殺してしまったのは悲しい。
「これで、あなたの未練はもうないのよね? あなたはやっと休めるのよね?」
未練を果たすことができたのなら彼は家族の待つ天国へと行くことができるはずだ。だって彼はどこからどう見ても善人なのだから。
「ええ、久しぶり過ぎてどんな顔をして会えば良いのかわかりませんが」
ああ、よかった。
彼のその答えを聞いて身体の力が抜けていく。それと同時にいままで感じたことのない強烈な眠気が私を襲った。
しかし、不思議とその睡魔に抵抗する気は起きなかった。私は感覚的にこの眠りからは逃れられないとわかっていたからだ。
「夏弥さん?」
与太さんが私の名を呼ぶ。
「ごめんなさい……。何だか疲れちゃったみたい。少し……眠ってもいいかしら?」
薄れゆく意識の中で彼にそう問いかける。
「ええ、ゆっくり休んでください。貴女が寝つくまで私は傍にいましょう」
与太さんはそう言いながら私の頭を撫で、何かを髪につける。
その行為に不思議と何だか懐かしい感じを覚える。前にもこんなことがあったようなそんな感覚。誰かに髪を梳かれながら、眠りに落ちていった記憶。
「ふふ……、ありがとう、……………」
「おやすみ、…………汐織」
最後に彼が何と言ったのかそれすらも分からぬままそうして私は心穏やかにおちていく。長い、長い眠りへ。
ぶりの照り焼きはタレと一緒でなんぼでしょう? どうも、久安です。
あと一話です。それで本当に終わりです。何だかんだ言ってどんなものでも最後は寂しくなるものですね。
次回更新は1月21日 23時です。