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サンタとトナカイ、天使と私

作者: 宙音

――真っ赤なお鼻の トナカイさんは いつもみんなの 笑いもの


 陽気なメロディと可愛らしい女の子の歌声が行きかう人たちの話し声や笑い声に紛れて流れてきた。耳からはいってきた軽快なメロディと可愛らしく悲しい歌い出し。

 その歌詞が今の自分と重なって息を深く吐き出す。

 毎年この時期になると何処にいても聞えてくるこの歌を私はこっそり気に入っていた。

 トナカイにはサンタクロースがいるように私にもいつか王子様が現れる、と信じ始めたのはいつだったろう。私の頭に教会で佇む美しい天使が頭に浮かんでふわりと消えた。


「ずっといい友人でいてほしいって言ってたわよ」

 そう告げられたのは一週間前のことだった。

 薫さんは三十歳にしてもうすでに外資系大手の社内で部長にまでなっているキャリアウーマンの象徴みたいな人だ。

 仕事の効率がやけによく海外を飛び回り英語や中国語、ドイツ語でプレゼンを堂々と行い、パーティーには積極的に顔を出して仕事を取ってくる。

 しかも日本人離れした長身でスタイルがよく、小ぶりな顔のパーツは全て小さめで見本のように綺麗に配置されていて、日本人を強調したような黒髪ストレートロングは外国人だけでなく日本人すら見惚れるものだ。

 社内でも若い男性社員は憧れの眼差しで彼女を見つめ、中年上司たちは彼女の企画なら鼻の下を伸ばして快く受け入れる。都会の一流企業で生き残るには彼女のような華やかさが必要不可欠なのだ。

 そんな華やいだ薫さんが就業時間に私のデスクへわざわざ足を運んだものだから、私は内心ひやひやしてしまった。

 ここ最近提案したプロジェクト、作成したプレゼンテーションの資料、チェックした社内のデータ。それらをキーボードを叩く私の肩に薫さんが触れた瞬間無意識に思い返していた。

 しかし、彼女の発した言葉は穏やかだった。

「今日はもうあがりよね? 夕食一緒にどうかしら」

 部長に誘われては断れるはずがない。私は短く了解の返事をした。

 薫さんに連れられていったのはお洒落なイタリアンのお店だった。薫さんらしい。

 どこまでも憧れの女性像である彼女が輝いて見えた。

「あの、それで今日はどうされたんですか?」

 薫さんと私のワイングラスに赤い色の液体が注ぎ込まれているとき思い切って聞いた。

 今の会社に入れたことは私にとって神様からのプレゼントだと思っている。

 一流大学を出たわけでもないのに、憧れていたこの会社は私を採用してくれたのだ。

 入社したものの周りの人たちは私より遥かに頭が良かった。皆の足を引っ張らないよう、会社の役に立てるようにと毎日一生懸命仕事をこなしてきたつもりだったけれど、やっぱり私は会社には不必要だったのだろうか。薫さんの斜め後ろを歩く間ずっと『クビ』の二文字が頭から離れないでいた。

 緊張と不安で体中の関節がキシキシとなにかの重みで音を立てている。

「澪ちゃんは好きな男性いるの?」

 薫さんはワイングラスを細長い指で持ち上げると唇をつけた。ルージュの口紅が少しグラスについて薫さんはさっと拭う。

 私は予想だにしなかった質問に瞬きを数回繰り返した。

「好きな……。い、ません」

 嘘を吐いたつもりはなかった。

 ただ、無意識に思い浮かべたのは到底手の届かない男性。これは好きというよりただ憧れているだけなのだと自分を笑って否定した。

「あら、本当かしら?」

 目を輝かせる薫さんの表情の後ろに真剣な顔が見え隠れして、この話が本題だったのだと分かった。こっそり胸を撫で下ろす。

「薫さんはいらっしゃるんですか?」

 薫さんは細い目をさらに細めて艶めかしく微笑んだ。私のことから話を替えたくて焦ったのがばれたのかもしれない。

「いるわ。ベルリン本社にね」

 私はあやうくグラスを落としかけた。

 クビの話ではなかったにしても、今度は別の不安が生まれた。

「よくこっちへ来るじゃない。ラルフ、知ってるでしょう?」

 今度こそ頭がくらくらした。薫さんからしても年上で上司である彼をラルフ、と気安く呼んでいることが私の胸をえぐった。

「ああ、はい……一応は」

 口が勝手に喋り出す。

「そうよね。ラルフったら東京の社に来たら女子社員に囲まれてるものね。知らない方が不思議だわ」

 ラルフさんはベルリン本社の重役。三十六歳で本社を仕切る社長の右腕として活躍している生粋のベルリンっ子。

 一九〇センチ近い身長とブロンドの髪に聡明なグリーンブルーの瞳が目立つ端整な顔立ちはどう考えても日本人女性の王子様像でしかない。

「薫さんはラルフさんがお好きなんですか?」

「ええ」

 薫さんは薄い唇を綺麗に吊り上げて微笑んだ。彼女は何でもお見通しなのかもしれない。

 薫さんとラルフさんが寄りそう姿を想像してしまった。CMにでも出てきそうな美男美女カップルだった。


 私はラルフさんに憧れていた。それもずっと前から。

 でも、どこに行っても女性に囲まれる彼が私を見てくれるはずはないと思って諦めていた。群がる女の子たちを遠目に見て、あんなにはしゃげるなんてすごいななんて思っていた。

 と、同時に羨ましくもあった。

 可愛らしい同僚たちや美しい先輩たちが彼の周りにたくさんいるだけで素敵な光景だ。私は彼の周りに人だかりができている間、ひとり黙々とパソコンに向き合いながら自分の性分を恨めしく思ったりもした。

 私が入社して半年経った時、ラルフさんが私に声をかけた。

 私は会議に必要な書類を急いで印刷している時で、彼は印刷室にひょっこりと姿を現したのだ。

 いつも他の重役たちと話し合いをしたり部下に指示を出しているラルフさんがコピー機だらけの部屋に入ってくる光景は不思議なものだった。

「どうされましたか?」

「ああ、えっと……」

「なんでしょう?」

 身長の低い私がラルフさんを見上げると、ぽりぽりと頭を掻いているラルフさんが目にはいった。

 彼らしくない狼狽した様子になにかあったのかと心配になった。

「お疲れ様です。レイさん」

 少し訛りはあるが流暢な日本語で私にそう言うと背中を向けて部屋を出て行った。

 残された私はしばらく入口の扉を見つめていた。

 仕事を言いつけに来たのではなかったのか。わざわざお疲れ様を言いに、あのラルフさんが?

 いや、そんなはずないきっと入る部屋を間違えたのだろう。だから驚いたような顔をしていたのだ。

 でもラルフさんが私の名前を知っていてくれたことを疑問に思うと同時に嬉しかった。


 初めての彼との会話はその短く内容があまりにないものだった。それからラルフさんが月に一回のペースで日本に来るたび人のいないところで話す機会が自然とできた。

 そのうち、社外でも是非会いたいという申し出を受け、少し躊躇ったものの一緒に夕食を食べたり夜景を見に行ったりした。

 ただ微妙な距離を保ったままラルフさんと並んで歩く。そんなことしかしなかったけれど、私の心はデートを重ねる度に彼で占められていった。

 彼が何を考えているのかは全く分からなかったけれど、いつも紳士な彼が時折無邪気な子供のようにはしゃぐ姿や笑う顔を見ているだけで幸せだった。

 この気持ちは憧れなのだと自分に何度も言い聞かせた。

 しかし薫さんのことだ。勘付いていても不思議ではないかもしれない。


「私、そろそろ身を固める歳だと思ってね」

 運ばれてきたパスタを口に運んだ薫さんは溜め息と一緒に吐き出すように呟いた。

「そうですか? でも、薫さんすごく若いし……」

「ふふ、ありがとう。でも、親がもう結婚しろってうるさくってね。だから、付き合う人とはちゃんと結婚を考えられる相手がいいわけ。ラルフなんてぴったりじゃない?」

 薫さんのお母様は宝塚出身の美女、お父様は優秀な医者で薫さんのご兄弟はふたりとも医者になっていると聞いたことがある。

 そんな薫さんの家に相応しい人といえばラルフさんだろう。能力も給料もルックスも完璧。

 でも、薫さんはラルフさんの何を知っているというのだろう?

「私が前付き合ってた恋人にしつこく付き纏われていた時にラルフに助けてもらって、それからずっと社外でも付き合いがあったのよ。五年くらいかしら」

 聞いたことのない情報が私の身体を鈍い痛みで満たす。薫さんの最後の一言があまりにも私には重かった。

 五年前……私はまだ社会人にもなっていない学生の頃から二人は知り合っていたなんて。

「そう、なんですか」

「聞けばラルフって恋人いないみたいだし、ちょっと協力してくれないかしら?」

「私が?」

 薫さんは人の協力など必要としない人なのに、どうして急にそんなことをさほど親しくもない私に?

「ええ。ラルフが言ってたの。あなたはすごく良い友人だって。レイさんとはずっといい友人でいたいって言ってたわよ」

 私はフォークにパスタをまきつけたまま薫さんの顔を見上げた。

 美しい彼女の微笑はどこか不敵に見えた。正直、その美しさを憎く思った。

「だから。ね?」

「……はい」

 ラルフさんはやっぱり私のことを女として見ていないんだ。

 それもそうだ、私はまだ二十四歳で彼からすれば女性ではないのだろう。彼にとって数多いる友人のうちの一人に過ぎなかったのだ。

 なにを浮かれていたのか、自分がどこまでも情けなくなった。

 身長も低くて目立った美人でもない私なんかが相手にしてもらえるわけがなかったのだ。

 私は無理矢理笑顔を作って薫さんに協力しますと言った。

 薫さんは何故だか少し驚いたような顔をした。


 そして、私は薫さんの望通りにした。

 薫さんに協力したいと思ったわけではない、けれどラルフさんも薫さんのことを想っているのなら彼の力にはないたいと思ったからだ。好きな人に幸せになってほしいと思っている自分に酔っていると言われれば否定はできないかもしれない。

 次の日、偶然退社しようとロビーを歩いていると入口の大きな扉の隅にラルフさんが立っていた。 

 何を考える暇もなくラルフさんにイヴの予定を聞いた。

 幸い、ラルフさんは日本でのクリスマスを経験しようとしていたらしくベルリンに帰るのは先のこととのことだった。

 薫さんに協力するとなれば、私の気持ちを殺すことなど容易かった。ラルフさんの予定が空いていると知ると私は素直に喜んだ。

「それならイヴの夜はお時間ありますよね?」

「うん、レイ。それは僕も……」

 最近、ラルフさんは私のことをレイと呼び捨てにするようになった。

「よかったあ。じゃあ、このメモに書いてあるところに来てくれませんか?」

 薫さんは自分の名前を出さないでも自分のことだと分かるから言わないでいいと言っていたので、薫さんの名前は出さなかった。

 それまでにきっと何度も薫さんとデートを重ねていたのだと思うと不覚にも胸が痛んだ。

 まだ、憧れ続けようとしている自分が愚かで仕方ない。

 ラルフさんは私が差し出したメモを受け取ると真っ白な肌を少し上気させた。

 ああ、やっぱり薫さんとは相思相愛なのだと気付かされた。

「私、用事があるのでこれで」

 これ以上彼といるのは耐えがたく、軽く頭を下げてロビーから出ようとした。

「レイ!」

 広いロビーに響く大きな声で叫ばれ驚いて振り返るとまだ頬を赤らめたままのラルフさんが私を真っすぐに見つめている。

「お正月は実家に帰るのかい?」

「え? はい」

 私の両親は離婚しているから実家というわけではないけれど、母方の祖母の家に行って色々と手伝いをしようと思っていた。

「日本の正月をするの?」

「おせちくらいですけど」

「僕も一緒に行ってもいいかな」

 一瞬この人は頭がおかしいのかと思った。

 私はまじまじとラルフさんを見つめる。青い瞳を潤ませながら聞いてくる彼は体格がいいのに、なぜか子犬に見えた。

「日本文化を体験しようと思ってね。あ、だめかな」

 ラルフさんの気弱な表情が私を身体ごと締めつけた。

 薫さんには怒られるかもしれないけれど、彼は純粋に日本を学びたいのだろう。もしかすると薫さんの家へ挨拶に行くために日本文化を知ろうとしているのかもしれない……なんて私の考えることじゃないか。

 それに、もしかしたら薫さんのことなんて関係ないのかもしれない。私の実家になんて異性の友人として来るのは普通ではないように思えた。

 少し期待をしてしまったことを否定はできない。

 私はあっさりと了解の返事をしていた。


 そしてクリスマス前日の今日、私はたまたま見てしまった。

 私は歳の離れた高校生の弟のために御馳走くらい頑張って作ろうと意気揚々と食材を買い込み、ついでに部屋を飾るオーナメントやキャンドルにそして、つい手に取ってしまったサンタのつけ髭がはいった袋を抱えて街を歩いていた。

 クリスマスイヴというのはクリスマス前日、つまり十二月二十四日の日暮れから始まるものであって昼間はまだイヴではない。ちなみにクリスマスイヴになった時からが『クリスマス』なのだ。なんて考えながらキリスト教の祝日を前に賑わっている街を眺めた。

 目を横にずらすとラルフさんの日本に置いている愛車が道端に止められていた。まさかと思って通り過ぎようとしたら私の道を遮るようにラルフさんが店から出てきて車に乗り込んだのだ。

 私はラルフさんの右手の真っ赤な薔薇の花束に気をとられているうちに車は発進していた。私のことなんかどこにいたって気にならないのだろう。気づく素振りも見せなかった。

 あの協力な香りと華やかさを見に纏った花束は薫さんへのプレゼントだろう。

 『一緒に行ってもいいかな』

 そう言ったラルフさんの潤んだ目が蘇った。

 どうして、そんなことを言ったの?

 期待させるようなことを言ったラルフさんを責めたい気持ちでいっぱいになったけれど、それよりも自分の馬鹿さ加減に腹が立った。

 そんな時に「赤鼻のトナカイ」が流れてきて泣きたくなったのだ。

 ラルフさんに気に入られているなんて自惚れていた私は笑いものだろう。それでも、トナカイさんは自惚れていないから私よりうんと偉いと思う。

 そういえば街を歩いている人たちは誰も嬉しそうな顔をしている。

 若い恋人同士で手袋越しに手を繋ぎ歩いている光景は心が和む。老夫婦がゆっくりとした歩でケーキの箱をぶら下げている。子供たちや孫たちのプレゼントだろうか。

 皆がクリスマスの本当の意味も何も知らなくて、メディアに踊らされるままその日を祝おうとしていたとしてもそれはそれで素敵なことだ。

 人々の間を上手にすり抜けて大きな箱を抱えている宅配便のお兄さんは笑顔で、こんな日に働いているのになんて爽やかなのだろうと感動すらした。

 幸せな人たちの姿は私の心を癒した。私も早く家に帰って七面鳥を焼こうと思い、歩を速める。

 まだ明るいこの道も夜になればイルミネーションで輝きだすのだろう、あとで弟の光を連れて見に来ようかと考えた。

 小さなアパートの部屋につくと私は早速夕食の用意をし始めた。光はまだ部活で帰ってきてはいなかった。


 元々仲の悪い両親だった。いつも喧嘩が絶えず、時にお互いに手を出したり家の中の物を殴って壊したり、投げて壊したりしていた。

 そんな環境で暮らしていた私と光は必然的に仲の良い兄弟になった。家事もろくにしない母と帰ってきたらすぐにお酒を飲んで暴れようとする父と一緒に生活するには協力せざるを得なかった。

 私が物心ついた頃から私は母や父から体罰は受けていた。顔を何度も殴られて頬が切れたり鼻血が止まらなくなったりしても、私のほうでなく絨毯に血が落ちるのを心配する母が普通なのか、テーブルに私の頭を打ち付けたりお腹を殴ったりする父の叱り方が躾なのか怒りなのかも分からなかった。今でも実は分からない。そもそも誰に聞けば分かるのだろうか。

 私がしばしば顔や体に傷をつけて登校するので友だちも先生もどうしてできた傷なのかと聞いてくるようになった。その度に笑って誤魔化していた。親にこんな風に叱られていることが情けなく恥ずかしかったのだ。

 それでも、両親のことは好きだった。

 私が悪いことをしていない時は優しくて、しっかりしている二人が私の誇りでもあった。ただ、私さえいなければ二人が喧嘩をすることもなかったのでは……と今でも思い、申し訳なくなる。「生まれてこなければ良かったのに」なんて何度二人の口から聞いただろう。聞く度に悲しさというよりも自分の存在が憎くなり涙を流した。

 でも、二人は私に弟をくれた。私は二人に心から感謝すると同時に、この子には私が言われたようなことを言わせてやるもんかと強く思った。

 ころころとした赤ん坊はまさに目に入れても痛くなさそうな可愛さだった。その赤ん坊が保育園に入り、私が中学に通うときには玄関に出てきて私の姿が見えなくなるまで「ねえねえいってらっしゃーい」と高い声で叫び手を振る弟が可愛くて可愛くて仕方がなかった。

 荒れていた我が家に天使が来たのだ。両親も私にそれまでのように叱らなくなった。ただ、癇癪を起すと私にしたように弟をも傷つけようとする二人にいつしか私は今までにない感情を抱き始めていた。

 そんな私をよそに弟はぐんぐん成長した。時間は同じ速さで進んでいるはずなのに、自分が進学していくスピードと弟が成長していくスピードが釣り合わないように感じられた。光はすぐに私を抜いてくれそうな頼もしさを元々持っていた。

 私は自分の子供のように光を護るけれど、光も高校生になってからはますます頼もしくなってきた。その成長が嬉しい。

 私は就職が決まるとすぐに光と二人で暮らし始めた。両親は籍はいれたままだったけれどもう同じ家にいることはなくなっていた。光には家が必要だったのだ。

 今ではテニス部のキャプテンをしていて時々友だちを連れてくる。その子たちが良い子で私はさらに嬉しくなった。これ以上の幸せは私には必要ない。

 大手企業に就職もできて安定した収入を得られるようになってからは私自身のものなんて何も欲しくなくなった。

 そんな矢先にラルフさんを会社で見つけた。

 恥ずかしいけれど、王子様が迎えにきたのかと思ったのだ。本当に身の程を知らない馬鹿な考え。

 でも、その勘違いも完全に終わった。これからは仕事だけに専念しよう。

 買ってきた七面鳥を野菜とハーブと一緒に水がたっぷり入った鍋に沈めて火にかけた。あとは茹であがった七面鳥に野菜をつめてオーブンで焼くだけだ。

 冬の水道水は冷たくて私の手は真っ赤にかじかんでいる。薫さんは料理の下ごしらえは使用人にさせると言っていたことを思い出した。

 料理をしている時だけが無心になれるからお気に入りの時間だったのに、今日はさすがに何も考えないわけにはいかないみたいだ。

 私は茹でた七面鳥をオーブンに入れると、束ねていた髪を解きマフラーをつけて外へ出た。


「澪さん、今年も来てくれたんですね」

 白い髪と立派な髭をたくわえた神父さんは大勢集まる信者や聖歌隊の人々の中心から抜け出すと私の方へゆっくりと歩いてきた。

「はい。洗礼者でもないのに毎年迎えてくださってありがとうございます」

「洗礼されているかどうかなんて関係ありません。澪さんのその澄んだ心があなたをこんな古い教会に向かわせているんです。それだけで十分ですよ」

 神父さんはそう言いながら私に演奏のプログラムを手渡した。

「今年もすぐに帰るのだろうけど、気が向いたら来てください」

 穏やかな表情と声が私の心を綺麗にしてくれた気がした。

「ありがとうございます」

「こちらこそ。毎月、ありがとうございます。子供達も喜んでいますよ」

 私は緩んだ涙腺を隠すため頷くと静かに毎年繰り返す感謝の気持ちと共に礼拝をし、用意していた紙幣を献金すると教会をあとにした。

 教会は古く、小さいがその外観と内装は美しい。装飾が豪華なのではなく、むしろ質素であることを誇りに思っているかのようなその佇まいが本当の美しさなのだと思わされる。

 初めてここを訪れた時は私が小学生の頃だった。それから毎年こうしてクリスマスイヴになると足を運んでいる。

 ここにいる神父さんは若くして奥様を亡くしてからも親のいない子供や虐待を受けた子供たちを預かり、自分の子供のように面倒を見ていた。成長した子供たちがまた教会へ預けられた子供たちの面倒を見、神父さんを助けているのだ。

 そのことを知ってからは毎月、本や服を教会にこっそり届けていた。少しでも力になりたいのに、光の進学にかかる費用と生活費を考えるとそのくらいのことしかできず心苦しかったけれど、神父さんのさっきの言葉に救われた。私は貰ったプログラムの紙に書かれた最後の曲名を見た。トナカイさんはどうしてか今日は何度も私の中に飛び込んでくるらしい。

 紙を四つに折ると、それをコートのポケットに滑り込ませた。

 

 教会からの帰り道、都会の街のきらびやかさはさっきまでの静かな美しさを讃えた教会がある場所とは信じられない。それにも関わらず私の気持ちは穏やかになっていた。

 家に戻り、オーブンを覗くとちょうど七面鳥が良い色に焼けていた。

 ガチャガチャと鍵穴の鳴る音と一緒に光が帰ってきた。

「うっわー。姉ちゃんのロースト・ターキー! 一年前から楽しみにしてたんだよな」

「去年もいっぱい食べてたもんね」

「去年は部活の奴らが来て俺あんま食えなかったんだよ」

 光は部活の大きな荷物を下ろし、洗面所へ向かった。

「今年はあの子たち来ないの?」

 洗面所に向かって大きな声で叫ぶと、水の流れる音が止まって光が顔を出した。

「えっと……」

「ん?」

 光が気まずそうな顔をした。

「その、今年は来るなって言ったんだけど、行くって言って聞かなくて」

「別にいいのに。七面鳥だって二人じゃ多すぎるでしょ、皆で食べたほうがいいのよ」

 私の言葉を聞くと光は嬉しそうに玄関まで走って行った。まさか、この寒い季節に玄関前で待たせていたのだろうか。

「おい、いいってよ。入れ」

 そのまさかだった。

「お久しぶりです。レイさん、今年もお邪魔します」

「お邪魔しまーす。おおっ! むっちゃええ匂いするやん」

 入ってきたのは二人だった。一人は去年も来ていた光の親友の悠斗くん。

 もう一人の子には見覚えがなかった。

「おお、ほら俺の姉ちゃん。姉ちゃん、こいつ最近転校してきた雅。連れていけってうるさいから持ってきた」

 まるで物のような言い方に私は吹き出してしまった。

 光も背が低いほうではないけれど、雅くんと並んでいると低く見えてしまう。ラルフさんより少し低いくらいかな、と思って悲しくなったので笑顔を作った。

「いらっしゃい。ごめんね、光が玄関前で待たせてたみたいで」

 雅くんはよく日に焼けた肌で身体が細いように見えるけれど、筋肉は程良くついているようだった。それでもまだ高校生なだけあってあどけない印象は残っている。

 小さな顔は整っていて、学校ではとても女の子から人気があろうことが想像できた。

「あ、急におしかけてすいません」

 頭を下げる雅くんが可愛いと思った。

「いいのよ。ほら、早く手を洗ってきて一緒に食べましょう」

「これ、俺と雅からです」

 悠斗くんが差しだした箱を覗くとルビーのような真っ赤なタルトがあった。

 私の大好きな苺タルトだった。

「うわぁ、ありがとう」 

 二人とも恥ずかしそうなはにかみ顔をした。


「うっま!!」

「だろー、レイさんの手料理半端ないんだよ」

「ま、俺の姉ちゃんだから当然だ」

「お前、家庭科の調理実習で卵焼き真っ黒にさせただろ」

「そうそう、あれむっちゃおもろかったわ」

 嬉しそうに七面鳥や生牡蠣にレモンをかけたもの、コーンスープにサラダを頬張っていく。どれも調理といった調理をしていない簡単なものですこし申し訳なく思った。

 それにしても卵焼きもろくに作れないなんて……すこし甘やかしすぎたかな、これからは朝食くらい光に作らせてみよう。

「えー。本当に? 卵焼きをどうすれば真っ黒にできるのよ」

「どのくらい焼けば火が通るのか分かんなくて……」

 光は眉間に皺を寄せてトマトをつっついた。が、すぐに顔を上げて雅くんを見た。

「雅だって卵焼きクレープみたいにしてたじゃねえか」

「ぶはっ、クレープちゃうし! 卵焼きは甘いもんやろ」

 確か、関西では甘めの卵焼きが好まれるっけ。

「雅くんは関西出身なのね」

「あ、はい」

「関西弁って可愛いわね」

 チーズをつまみながら何も考えずぼんやり呟くと、雅くんが勢いよく咳込み始めた。

「だ、大丈夫っ!?」

「おい、雅」

 悠斗くんは面白そうに雅くんの背中をさすっている。

 光も心配そうに雅くんの顔を覗き込んだ。

「うっわ、お前顔真っ赤じゃねえか。どうした?」

「どうした、ってお前……本当に天然だよな。あ、大丈夫ですよ、レイさん」

 悠斗くんは呆れ顔で私に微笑んだ。

 夕食を食べ終える頃には窓の外は真っ暗でキラキラと街路樹が輝いていた。

「ふたりともお家の方には連絡してるの?」

 悠斗くんと雅くんは揃って「はい」と返事をした。

 悠斗くんの家庭は共働きで一人っ子だから、毎年イヴの夜は一人で過ごしていたと光から聞いている。雅くんのほうはどうなのだろう。せっかくのクリスマスイヴを家族で過ごさなくていいのだろうか。

 雅くんを見ると私の買ってきたサンタクロースのひげをつけて遊んでいた。

 不意に頬が緩む。

「姉ちゃん、イルミネーション見に行こうよ!」

「おおー、いいな。行きましょう」

「やったあ! 東京のクリスマスってむっちゃキラッキラしてそうで見てみたかってん!」

 無邪気な高校生に押されるように外に連れ出された。夜は肌が切れるように寒い。

 高校生の三人はマフラーや手袋をつけてはいるけれど、学ランは暖かそうに見えなかった。それでも、寒さなど感じないようにはしゃぎまくる様子が若さを感じさせた。

「レイさん、寒くないですか?」

 雅くんが隣りに来た。私の顔を見ずに真っすぐ向いたまま聞く。

「うん、大丈夫よ」

「この髭つけます? むっちゃ暖かくなりますよ」

 私は頭を上げて雅くんの顔を見た。

「ええ! その髭つけて出て来たの?」

「へへ、おもろいかなって思って。どうですか?」

 雅くんの綺麗な顔に似合わない真っ白なもじゃもじゃの髭が口周りを隠して、顎から首の下まで垂れさがっていた。

「あはははっ、はははっ」

 私はその可笑しな光景にお腹を抱えて笑いだしてしまった。

 雅くんはわざと髭を揺らしてもっと笑わせようとしてきた。周りを歩くカップルたちが少し驚いたような顔をして通り過ぎていく。

「もお、雅くん。面白すぎるんだから」

 私はそう言って髭をべりべりと取ってやると、持っていた小さめのバッグに詰め込んだ。

「でも、こんなのつけてたらせっかくの男前が台無しよ。もうこれは没収ね」

「レイさんが……」

 髭を取った雅くんの顔は部屋の中で見たときより男らしく見えた。年下の男の子にドキッとしてしまった。

「私がなに?」

「なんか、悲しそうな顔してはったから……笑わせたろって思って」

「え……」

 私は笑顔でいたつもりだったのに、雅くんを心配させていたなんて。

 雅くんは黙って、私の手をとった。雅くんの手は大きくて私の手袋をつけた手をすっぽりと覆った。

「指、霜焼けになりかけやったし。これで温くなりますよ」

 料理した後少し指がじんじんとかじかんだままだった。よく観察してくれていた雅くんの優しさが心に染みた。

「で、でもこんなとこ彼女に見られたら泣かれちゃうわよ」

 私は誤魔化すように笑って手を解く。

「彼女なんておらんから、大丈夫です」

 雅くんは一歩も引こうとしない。若さ故の真っすぐな眼差しが私に突き刺さる。胸が苦しい。

「じゃあ、好きな女の子に見られちゃうかも」

「もう見られてます」

「じゃあ、だめじゃない」

 私は急いで雅くんと距離を置いた。周りを見回すと何人かの女の子たちが雅くんの姿に釘付けになっているのが見えた。やっぱり彼の存在は人目をひくくらい格好いい。あのうちの誰かが雅くんの好きな女の子なのだ。

「レイさん」

 雅くんが私の名前を呼んだ。

 私は前を歩いていた光たちの姿を探した。全然見当たらない。さきさきと歩いて行ってしまったのかもしれない。

「レイさん、俺……実は前にレイさんに会ったことあるんです」

「え?」

 思いもかけない言葉に首を傾げた。

「俺の実の母ちゃんは夏に死んだんです。肺が悪くって、それまで俺のこと一人で育ててくれてたのに急に倒れて……。それで、父親の家に引き取られたんです。でも、その家には腹違いの姉と兄、それに父親の本妻。居場所なくて……この街ぶらぶら彷徨ってたんです」

「そんな……」

 明るく優しい雅くんの家庭事情は想像を絶するもので私は言葉を失った。

「そのうち、なんや騒がしい女の人らに囲まれてしもうて、無視してたんですけど身体にべたべた触ってきよって困っとったんです」

 確かにこんな子が一人で歩いていたら派手な女の子たちが寄ってくるだろう。

「そしたら、『邪魔』って冷たい声が聞こえて、一気に女の人らが振り返って、俺もつられて振り返ったら綺麗なお姉さんがおった。高いヒール履いてるわりに身長は小さくて、顔も童顔で……せやけど、えらい上品な服着て、鞄と大きい封筒抱えてるん見たら大人なんやって分かった。まあ、そん時にお姉さんがどんな格好してたかとかいまいちよく覚えてへんねんけどな……お姉さんの雰囲気と顔見ただけで眩暈しそうになって」

「眩暈?」

「うん。なんか、上手く言えへんけど……一目惚れって言うんかな……。そっそれで、女の人らがそのお姉さんにつっかかっていったから俺、急いで止めようとしたんやけど、その前にそのお姉さんが『道の真ん中で男の子に群がるなんてはしたないことしてないで、そんなに騒ぎたいなら別の所へ行きなさい』って言ったんよ。その声がすっごい恐くてさ、女の人らも急にしょんぼりしてどっか逃げるように去っていった」

 私は「あ」と声を漏らした。

「思い出してくれた?」

「あの時の男の子ね」

 雅くんはうん、と嬉しそうに勢いよく頷いた。

「あの時のレイさんむっちゃかっこよくて、俺ぼけーっと突っ立ってたらレイさんが」

「お菓子あげたのよね」

 そう、あの時は道に広がって騒いでいる女の子たちが邪魔で周りの通行人の邪魔になっていたからつい怒ってしまったのだ。それと、女の子たちがラルフさんに群がる社員の女の子たちと少しかぶって見えたせいもあるかもしれない。

 その女の子たちがどこかへ行くと生気のない目をした男の子がいて、驚いた。男の子の存在が儚く見えて、元気づけなくてはという気持ちになったのだった。

「飴ちゃんです。しかも、黄金糖」

 雅くんはポケットから透明のビニールで折った小さな鶴を取り出した。

「嬉しくて、これお守りにしてるんです」

「お守りって……」

 ただの飴の包み紙が大事にされているのをもう一度見た。

「レイさんが『甘いもの食べたら幸せになるのってどうしてかな』って言ったんですよ」

 そんなことを言った気もする。

「雅くんよく覚えてるんだね」

「当り前です! あれから俺、レイさんのこと捜してたんです。それで、今日見つけた」

 雅くんの小麦色の肌が店の光と電灯と、街路樹のイルミネーションで輝く。

「どうして?」

「あの時のお礼が言いたかったんと……」

 雅くんは息を大きく吸い込んだ。

「連絡先も聞きたくて……」

 吐き出された真っ白な息が漆黒の空へ飲み込まれていった。

 目の前にいる瑞々しい高校生が意を決して私に言ったことが、連絡先。こんなに純粋な気持ちをぶつけられたのはいつぶりだろう、もしかすると初めてかもしれない。

 ラルフさんは私に社内で書類を渡すときにさっとアドレスと電話番号をかいたメモをそこに紛れこませていた。その時は嬉しかったけれど、よく考えれば社内の女の子全員にこっそり連絡先を渡していたのかもしれない。もちろん薫さんにも。今頃ふたりは高いビルの素敵なレストランで食事でもしているのだろう……。

 私はコートのポケットから携帯を取り出した。

 雅くんはそれを見て嬉しそうな顔で同じように自分の携帯を取り出した。男らしくなったら可愛くなったりずるい子だなと思った。

「レイさんって澪って書くんですね。なんかかっこいい」

「ありがと。雅くんもかっこいいわよ」

「へへっ、照れる」

 連絡先を交換してから笑い合いながら道を歩いた。

 光と悠斗くんはゲームセンターで遊んでいるようだったので、私と雅くんはふたりで東京の街を眺めることになった。

 夜になればさすがにカップルだらけで、そんな中で私と雅くんは不思議な関係だけど、きっと傍から見ればカップルのように見えているのかもしれないと思うと恥ずかしくなった。

 こっそり雅くんの顔を見ると、真っすぐ前を見ている凛々しい雅くんがいた。

「あの……澪さん」

「何?」

「手繋いでもいいですか?」

 さっきは強引に手を取ったというのに、今度は叱られた子犬のような顔をして聞いてきた。

「レイ?」

 その時、突然後ろから名前が呼ばれた。雅くんはすぐに振り返ったが私は動けなくなった。

 聞き覚えのある声、発音だったからだ。

 どうしてこんな場所にいるの? 薫さんのお気に入りのレストランは会社からこことは反対の場所にあるのに。

「澪さん、知り合い?」

 雅くんが庇うように私の前に立った。

 深呼吸をひとつして振り返れば、雅くんよりも体格のしっかりした肌の白い男性がこちらをじっと見つめていた。やめて、そんな目をしないでほしい。胸が焼かれるように首が見えない手で締められるように痛む。

「こんばんは。ラルフさん」

 口をついて出たのは当たり障りのない挨拶だった。

 知り合いだと気付いた雅くんは私の前から身体をずらした。それでも警戒しているように私にぴたりとくっついている。

「薫さんはどうされたんですか?」

「帰ってもらったよ。僕は興味のない女性とデートはしない。特に今夜は絶対にだ」

 穏やかなラルフさんらしくない怒ったような声。

 それよりも興味のない女性は薫さんのことなのか、でもラルフさんは薫さんと相思相愛だったんじゃ……。

「そんなことはどうでもいいんだ。レイ、隣りの彼は誰?」

 雅が一歩前に出た。

「澪さんのファンです」

「何言ってるの、雅くんっ」

 私は慌てた。

「だって本当のことやし……。あっ、じゃあ澪さんの恋人になりたいファンで」

 ハンバーガーの注文でもするように朗らかに言う雅くん。

「あ、あの雅くんはうちの弟の同級生で」

「なるほど。じゃあ、君も僕と同じ仲間だ。ライバルでもあるけどね」

 ラルフさんがそんなことを真面目な表情のままで言う。何を言っているのだろう。

 雅くんは不敵な笑みを浮かべた。その顔にどこか見覚えがある気がした。

「でも、先を越されてしまったみたいだ。クリスマスにデートなんてね」

「早いもん勝ちです」

「言ったね?」

「言いました」

 勝手に話を進める二人にどうしていいか分からない私はおろおろするしかない。

 一人でいても人目をひくような男が二人で言い合いをしていれば当然目立つわけで、立ち止まって凝視する人までいる。

 一人は日本男児を最大限に美しくした学ラン姿の高校生、もう一方は海外の映画に出てきそうな白い肌で緑がかった青い瞳の王子様。そして、小さな私。

 神様はとことん不公平だ。

「ラルフさん!」

 二人の睨みあいを止めるために間に入った。

「どうしたの?」

 穏やかで大人なラルフさんに戻っていた。

「何か用事があったんじゃないですか? 急がなくてもいいんですか?」

「レイの家に行こうと思ってたんだ」

「え?」

「レイに伝えたいことがあって……」 

 薫さんからもうすでに聞いている、と言いたくなった。私はただのオトモダチ。もう分かっているから何も聞きたくない。

「結構です。私は何も聞く必要ないんです。お仕事で面倒をかけたりすると思いますが、よろしくお願いします。これからは社外で会うのはやめましょう」

 きっぱりと言うと胸のつっかえが取れたようにすっきりした。ヤケになっているのかもしれない。

「雅くん、行くわよ。もうそろそろ帰らなきゃお家の方も心配するわ」

「え、あ……はい」

「もう足の指が凍っちゃいそう」

 自分でも驚くほど平気な言葉が次々と出て来た。私って性根がすごく悪いのかもしれない。神父さんに癒してもらった心が一気に汚れてしまった。

「レイ」

 ラルフさんの小さな呟きに雅くんは固まった。私は気付かないふりをした。

「ほら、雅くん行こう。ラルフさん、失礼します」

 丁寧に頭を下げて挨拶をしたが、ラルフさんは棒のように突っ立ったままだった。

 自分から伝えたかったのに、私から言われて驚いているのだろうか。でも、もうそんなことどうだっていい。

 雅くんを半ば引きずるようにして来た道を引き返そうとした。

「レイ!!」

 私も雅くんも振り返らない。

「レイ、僕は君に……女性として好意を持っている。だから、どんな手を使ってでも君を奪い返すよ。今の僕の地位を利用して、汚いことをしてでも君を奪ってみせるから」

 隣りにいる雅くんが咄嗟に私の手を強く握った。

「え?」

 ラルフさんの唇が紡いだ言葉の意味が私には理解できなかった。

「今夜、君にそう伝えようと思っていた。だから君から誘いが来たときはすごく嬉しかった。でも、約束の場所に君はいなかった。悲しかったよ。僕のことを男として見てくれていなかったなんて……それでも僕は決して君を諦めない。諦められないんだ」

 雅くんの手に込められた力は強くなってとうとう離れようとしなかった。

 そのうち、今度は雅くんが私の引っ張って歩き出した。私は安堵した。

 私はラルフさんの姿を見ることができない。雅くんのせいではなくて、私の両方の目から涙が止まらないせいだ。声すら出せない。

 どうして友だちでいたいなんて薫さんに言ったの? 私に気のある素振りをして反応を楽しもうとしてるの?

 ううん。知っている。ラルフさんがそんな馬鹿げたことをする人じゃないってこと。じゃあ、どういうことなのだろう。混乱した頭が最悪なことばかり想像していく。

 こんな醜いことを考えている私の顔をラルフさんに見られたくなくて雅くんの強引さに感謝してしまう。そのことでラルフさんへの気持ちがただの憧れではなかったことに気付かされた。



「澪さん、すいません。でも、手離したらあの人の所に行って帰ってこんくなりそうで……恐くて。でも、それって俺の問題で、澪さんの気持ちなんて全然考えてへんくて。本当に最低ですよね、俺」

 そう言って項垂れる雅くんに首を振った。こちらこそ、あなたを利用するような真似してしまってごめんなさいという言葉は呑みこんだ。

 光が雅くんと悠斗くんを送るついでに男だけでクリスマスイヴをもう少し楽しんでくると言い出かけると、家の中が静まり返った。ふと窓の外に目をやる。

 天使の羽が降っていた。

 真っ白なそれは都会の地面に何枚も落ちるのに、無情にも一瞬で解けて消えてしまう。なのに、ひたすら振り続ける雪はなんだか切なくて焦れたく、そして愛らしい。

 思い立ってさっき脱いだコートを取って袖を通すと扉を開ける。

 古いアパートの開放廊下にも雪がきたらしく冷たい鉄の床が濡れていた。

 下に降りて雪が降る様子を眺めようと思った。

「……あ」

 階段の下から金色の頭が揺れながらこっちへ向かってきているのが見えた。

 私は驚きで何をすることもできずただ、その人物が来るのを階段の前で呆然と待っていた。

「わっ」

 片手でバラの花束を大事そうに抱えたその人は私が階段の前で突っ立っていることに驚いて目を見開いた。

 そして、彼は途端に頬を緩ませた。

「レイ」

「ラルフさん、どうして」

「言ったじゃないか。今日はレイに想いを伝えようと思っていたって」

 胸が詰まった。

 見ればラルフさんの広い肩幅を覆う黒いピーコートの上には僅かに白い雪が乗っていて、高い鼻の先が真っ赤に染まっていた。

 とりあえず部屋に入ってもらおうと口を開こうとした。

「レイ、受け取ってくれるかな」

 階段を上りきったラルフさんは私の目の前に来ると急に跪いた。

 慣れないことに私はびくりと肩を揺らした。

「レイが僕のことを男として好きでいてくれていなくても構わない。これから君に好かれるように努力するから」

 私は差しだされたバラを受け取った。

 一本一本が豪華で美しく自分がバラであることを誇りに思っているかのような姿は私に全く似つかわしくないように思えた。

「ありがとうございます。でも、私はこんなもの頂くのに相応しくないです」

「これは愛を伝える時に贈るものなんだ。頭が堅くてすまない。だけど、君の言う通りこんなものは君に相応しくない。それで……これを」

 私の足元で跪くラルフさんはどこからともなく小さな箱を取り出した。

「バラは君の美しさも可憐さも健気なところも表してはいない。僕はこっちの方が好きだし、君にぴったりだと思うんだ」

 長い指で器用に箱を開けると、白いクッションの上に細いシルバーブレスレットが座っていた。

「これ……」

 信じられない重いでラルフさんを見てから、ブレスレットに目を移す。

 真ん中に優しい青色をした大きめのサファイアと、その周りに百合をイメージしたモチーフが模られていた。よく見覚えのあるものだった。

「ごめん。きっと、気味が悪いと思ってるだろうね」

 私は会社の帰り道に通り過ぎるショーウインドウに静かに座っていたこのブレスレットを毎日のように眺めていた。一目で気に入ってからはなにかに取り憑かれたように目が釘付けになってしまうのだった。

 しかし、その美しさに見合う値段の桁を心の中で数えると私には手の届かないものだと諦めていた。

「見てたんですか?」

「何度か、ね」

 穴があったら入りたい、とはこういうことを言うのだろう。

 ラルフさんが息を吐くと、私のコートの袖をまくって手首を出した。

 肌に触れたシルバーがひんやりと冷たかったが、それすら喜びに感じた。

「うん、すごく似合うよ」

「本当に頂いていいんですか?」

「もちろん」

 立ち上がったラルフさんは今さらながらすごく大きかった。

「レイ。これからも社外で会ってほしい」

 暗闇で見上げるふたつの瞳は青く輝いていた。外のイルミネーションのせいかもしれない。

「でも、薫さんが……」

「悪いけれど、彼女には興味が全くないんだ。彼女が君に何を言ったかは知らないけれど、僕を信じてほしい」

 私が言いかけるとラルフさんがさっと言葉をかぶせた。

 私は薫さんの言動の全てを理解すると、怒りよりも安堵が溢れ出した。

「よか……った」

 手袋をつけていない手で涙を拭えばたちまち赤みがかった皮膚がひりひりと痛み出す。

 ラルフさんは黙って自分の灰色の手袋をはずすと、大きな手のひらで私の手を包んだ。

「僕のお願い、聞いてくれるね?」

 これからは社外で会いたくないなんてさっき言った自分はとんでもないほら吹きで強がりだ。

「はい。ありがとう、ございます」

 ラルフさんは私の答えを聞くと端整な顔をしわくちゃにして笑うと私を身体ごと抱きしめた。

 初めて包まれたラルフさんの香りはとても落ち着かされた。

 この温もりにずっと身体を任せていたい。

「レイ、震えてる」

「……はい」

「寒い?」

「部屋に入りませんか?」

 震えているのは気温のせいだけではないと思う。

 ラルフさんを見上げると真っ赤な鼻と数回瞬きをした瞳があった。

「そう、させてもらおうかな」

 鍵のかかっていない扉を開け、ラルフさんを招いているのがなんだか信じられない気持で一杯になった。こんな古く小さいアパートにドイツ本社次期社長の有力候補の彼がきょろきょろと部屋を見まわしながら落ち着かない様子でいるのが可愛らしい。

 高校生たちが食べ散らかしたテーブルを急いで綺麗にすると、熱いコーヒーとケーキを出した。

「こんなこと言うのは、男として情けないけれど……さっきの学生とはどういう関係?」

 ラルフさんはコーヒーを一口啜ってすぐテーブルに置いた。

 そういえば、まだ鞄に雅くんがつけてたサンタクロースの髭がある。

「雅くんは私の弟の同級生で」

「でも、彼はレイのことをずいぶん気に入っているようだね」

 大事な商談でもしているかのようにラルフさんは両手を組み、テーブルの上で構え私の顔を見据える。

 雅くんと初めて会ったときのことを思い出した。

「若いから、年上に憧れてるだけですよ。それに、あの子最近東京に来たみたいで不安な時に私に会ったから……」

「ふうん。でも、格好のいい青年だったね。手も繋いでいたし」

 ラルフさんでも他人を格好いいと思うことが不思議に感じた。

「あ。あれは」

 雅くんの真っすぐな眼差しと暖かい手を思い出してしまう。もし、あの時ラルフさんが現われなかったら私の気持ちは移っていただろうか。

 それは、ない。

 いくら雅くんが素敵な男の子でも私は彼を男として見ることはできなかっただろう。

「分かってるんだ。僕が大人げないことは。君よりも随分年上だし、ましてあの青年となんて倍は歳が離れている。それでも、彼だって男だ。僕のライバルであることに変わりはないし、それに」

「私、ラルフさんしか見えてません」

 饒舌が止まらなくなりそうなラルフさんの言葉を止めた。

 彼は瞬きも忘れたみたいに私の顔を食い入るように見つめた。恥ずかしくなって私は顔を伏せたくなったけれど、頑張ってその視線に応えた。

「本当に?」

「はい」

 私はラルフさんの手をテーブルの上で握りしめた。

「レイに言わなくてはいけないことがあるんだ」

 私は先を話すようにとラルフさんを促した。

「僕が初めて君に会ったのは君がまだ小学生の頃だった」

「……」

 私は相槌を打たない。ラルフさんの表情は真剣そのものだった。

「驚くのも無理はないよ。僕は二十歳で日本へ留学にきていた。そして、クリスマスのミサに出かけた時に君に会った。君はひとりだった。ひとりで手を胸の前で組んで一心不乱になにか呟いていたんだ。熱心な信者だと思ったら、神父さんにどうやって祈ればいいのか熱心に尋ねていて、教会に来たのは初めてのようだった。僕はクリスマスイヴにひとりで小さな女の子が知りもしない神になにかを願っているということにひどく興味をひかれた」

 見開いた目が乾燥していくのが分かる。覚えている……あの年のクリスマス。忘れるはずがない。


「それで、少女に何をしているのか訊ねたんだ。そしたらその女の子は初めて顔を上げた。真っ黒な瞳がまんまるで大きくてすごく神秘的だと思った。その子はどうも弟が生まれることを母親から聞いて無事に生まれてくることを祈っていたらしい。僕は正直、驚いたよ。だって、小さな子供がクリスマスに必死にお願いしているんだ。どうせサンタクロースにプレゼントでもねだろうとしているのかと思った。でも、その子は弟のために祈りをささげていた。聞けば、その子の弟が生まれると聞いたのはそのクリスマスの日で、それを聞いた途端に家を飛び出して小学生の知識を振り絞り神がいそうな場所を片っ端から歩きまわっていたらしかった。神社も寺も道端のお地蔵さんにも教会にも行ってね。その子は急に僕に頭を下げたんだ。まるで僕を崇めるみたいに何度もね。そして、僕が呆然とその様子を眺めている内に女の子は立ち去ろうとした。僕は咄嗟に名前を聞いたんだ。どうしてだろう。そうしなくてはならない気がしたんだ。そしたら女の子は小さな唇で『レイ』と短く答えて走って行った」


 あの日、光が母のお腹の中にいると知った。私は嬉しくて家の近くにある神社などを巡り続けたのだ。そして、いつもなら絶対に入ることのない教会にまで足を踏み入れた。

 そこの空気は澄んでいて外のほうが寒いはずなのに、神聖な雰囲気のせいか教会の中のそれはひんやりと感じられた。

「ラルフさん」

「レイ、泣いているの?」

 私は瞼を閉じて首を振る。

「思い出してたんです。クリスマスの夜に教会で天使に会ったときのことを」

「天使?」

 ラルフさんは驚いたような声を出した。

「美しい天使がいたんです。その天使が光を、弟を私にくれたんだと思ってた。でも、その人は天使じゃなかった」

 私は目を開けてくすくすと笑って見せた。

 まさか、彼も覚えていてくれたなんて。あの時から、ずっと。ずっと憧れていた彼が目の前で目を見開いている。

「え?」

「綺麗な金色の髪と海の色をした瞳のその人は私より何倍も背が高くて、それに美しかったです。大きな手で私の頭を撫でてくれました。それで、その人が言ったんです。君は優しい良い子だね。大きくなったら」

 ラルフさんの目が見開かれる。私は続けようとしたが、それは低く柔らかな声で遮られた。

「僕のお姫様になってほしいな」

 ラルフさんの伏せられた睫毛が震えている。

 そう、あの時から私は王子様を……目の前にいるこの男性を待ち続けていたのだろう。

「レイ、僕のお姫様になってくれないかな」

 顔をあげたラルフさんの輝く瞳が私を捕えて離してくれない。お姫様なんて台詞が似合うのはこの人だけだと麻痺しかけている頭でぼんやりと考えた。

 目の前の男性が私のことを求めてくれているなんて信じられない思いとじわじわと身体中を満たす幸福が襲いかかってきた。

「……はい」



 光のおかげで私は王子様に会えた。ガラスの靴を手にシンデレラを捜した王子、毒林檎を食べた白雪姫を救った王子、森のなかの古城で眠り続ける眠り姫を起こした王子。私の場合は天使が王子と巡り合わせたのだ。そういえば光はずっと私の天使だった。

「レイっ」

 ラルフさんは立ち上がると私の身体を痛いくらい抱きしめた。

 ラルフさんの金色の産毛が輝く腕の上を覆う私の腕。そこには青い石をつけたシルバーブレスレットが輝いている。

「レイ、行かないかい?」

 腕の力を緩めたラルフさんはズボンのポケットから紙を取り出した。

「あ……」

 見覚えのある紙に私は息を呑んだ。

「まだ、最後の曲には間に合うと思うんだ」

 ラルフさんが指差した曲は昼間も聞いたものだった。私はかけてあった自分のコートのポケットからラルフさんが持っているものと同じ紙を取り出す。

 今度はラルフさんが息を呑む番だった。

 今年は最高のクリスマスだ。


「赤鼻のトナカイ、聴きに行きましょうか」

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