俺が深夜のコンビニに行く理由について。その冒頭部分
──また始まった…
くどくどと耳に流れてくる嫌み混じりの説教を聞きながら、俺は重い溜め息を吐き出した。
もう少しで日付が変わる、深夜のコンビニのレジ前。店内を隈無く照らす白い蛍光灯。音量が控えめに設定されているにもかかわらず、響いているBGM。
会計をして家に帰るだけの俺を引き止めたのは、一向に会計を進める気がない若い店員だった。
「またこんな油っこい物ばかり選んでる。今何時だと思ってんだ。夜中だよ。帰って寝るだけなのに生姜焼き?あんたいくつだよ。もっと年寄り口になったらどうなんだ」
真っ青なユニフォームに身を包んだ青年は、彼の背後に設置されている電子レンジで温めたばかりのコンビニ弁当を片手に口を閉ざさない。それも、こちらに対して敵意すら感じる様な鋭利な言葉ばかりを投げつけてくる。
─いいから早く、その温かい弁当をレジ袋に入れてくれ。
こちらの批難混じりの視線など気にも留めず、彼は………八坂君は喋り続けた。
「せめて一緒にサラダを選べよ。ていうかビールにビーフジャーキーって、まさかこれから酒飲む気?有り得ねぇ。おっさんはさっさと帰って寝ろよ。」
八坂君は止まらない。
俺は財布を握っていた手をそっと降ろし、サラリーマン必需品の在り来たりな黒いビジネスバッグと共に後ろ手を組んだ。八坂君がこうやって説教を始めると、せっかく温めた弁当が冷めるまで理不尽に怒られるのを覚悟しなければならないからだ。
二度目の溜め息を吐いてから、為す術無くレジ横に放られた生温い生姜焼き弁当を眺めた。
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八坂君は、俺の住むマンションのすぐ隣にある青いコンビニの店員だ。
一年程前から、夕方から深夜までのシフトで勤務している。
彼の名前は、制服に付けられた名札に書いていたので知った。
爽やかな青い制服が似合う美形の男の子だ。強いて言うなら紳士服のイメージキャラクターにでも選ばれそうな、精悍で、しっかりとした性格をしていそうな容姿だ。優等生的、とも言える。
目を惹くような美形の彼は、近くの大学に通う学生らしい。
朝、出勤する時に大学前で見かけることはあったが、世間話なんてものはしたことは無かった。
そんな八坂君が、急に俺に対して説教をするようになったのは、一週間前からだ。
周囲の期待からなのか、それとも都合の良い雑用係だとでも思われているのか、俺が課長を勤める部署に『暇』という言葉は無い。
果てしなく終わりの無い業務に立ち向かい、いつも日付が変わるギリギリ前に会社を後にする俺は、夕飯は基本的にコンビニで済ます。
八坂君が働くコンビニで、弁当と酒とつまみを買って帰る日々だ。
俺は適当に弁当を選んでから、気に入っているメーカーのプレミアムビールと、包装にお手頃価格と大きく記された一人分のつまみをレジまで持っていく。
八坂君は黙って弁当を温め、割り箸とおしぼりを袋に入れる。
常々思っていたのは、「愛想が悪い子だなぁ」という感想。
爽やかで人に好かれそうな容姿の割には、八坂君は愛想が無かった。いらっしゃいませを聞いた事は無いし、弁当を温めるかどうかの是非は聞かず、レジに弁当を置いた瞬間にそれを無言でレンジに放り込む。
唯一声を発するのは、「八百七十四円になります」。「ありがとうございました」。常にブスッと明後日の方向を見ていて、目が合った事は一度も無い。
最初こそ、なんて態度の店員なんだと内心不快に思ったものだが、ただ彼は、温かい弁当と冷たいビールはきちんと袋を分けて渡してくれる。
深夜のコンビニ店員と言えば、八坂君並みに接客態度の悪い者が多い。
八坂君がこのコンビニに勤め始めるまでは、八坂君よりもう少し歳のいった男性が居たのだが、彼は酷かった。熱々にした弁当の上に、冷え冷えのカップアイスを置いて渡してきたのだ。
度重なる徹夜で疲れきった俺にとって、甘いアイスは密かな楽しみだった。それなのに……それなのに、だ。
運悪く帰宅してから惨事に気付いた俺は絶望した。カップから滴った水滴を、呆然と眺めた夜が懐かしい。
そんな事があったもんで、八坂君が温かい弁当と冷えたビールを別の袋に入れて渡して来たのは安堵したものだ。愛想は悪いが、前のあの人に比べれば、特に気にする事は無い。
だから、八坂君が無言で温めても何も言わない。
むしろ心身共に疲れているから、何も言わずとも会計まで済ませてくれるのは楽だった。
──あの夜もそうして終わる筈だった。
しかし、俺がいつも通りに弁当とビールとつまみをレジに置いた瞬間、八坂君が急に口を開いたのだ。
「──あんた、毎日コンビニ弁当食ってて、体壊さないのか」
突然の事で思わず目を丸めて八坂君を見ていれば、彼はおおよそ客に向けるものでは無い様な鋭い視線を向けてきた。
「──早死にするぞ、おっさん」
あれから一週間。
毎晩毎晩、俺が選んだ弁当片手に八坂君はぶつぶつと不満を呟く。
この時間帯は俺以外に客は来ないらしい。シフトが決まっているのか、八坂君以外の店員が居るのも見たことは無い。
だから、八坂君を止めるものは無い。
「もう油も消化しにくい歳だろ、あんた。
おっさんはおっさんらしく精進料理でも食ってればいいんだよ。毎晩酒も飲んでるし、あんたメタボなんじゃねぇの」
爽やかな容姿からは想像がつかない様な辛辣で毒のある言葉が突き刺さる。
なぜ、たかだか二十かそこらの青年にここまで言われるのか……
俺は今年で三十八になる。若いかと言われれば若くは無いが、おっさんおっさんと連呼される程ではないと思う。
確かに八坂君から見ればおっさんかもしれないが、だからと言って何故一コンビニ店員がここまで言うんだ。
「酒やめろ。栄養ドリンクも飲み過ぎ。
毎晩酒飲んで、油っこい物食って、栄養ドリンクまで飲んだら胃が壊れるだろ。
考えたら解るだろ、普通は」
どうやら生姜焼き弁当は既に冷めたらしい。
──毎日の残業に堪えているのだから、酒くらい飲ませてくれ。
──生姜焼き弁当が駄目なら、鮭のおにぎりにする。だから、勘弁してくれ。
俺の内心の懇願など、八坂君には届かないらしい。
首を左右に振り、やれやれ、とでも言いそうなジェスチャーの後、八坂君は大袈裟な溜め息を吐いた。
「飯作ってくれる相手も居ねぇのかよ、寂しいおっさんだな」
「……そういう君はどうなんだ」
一方的な言葉の暴力に堪えきれずに問えば、一瞬だけ八坂君が目を大きく見開いてこちらを見た。
反論されるとは思っていなかったらしい。一瞬見えた戸惑いの様な表情に溜飲が下がる思いだ。
すぐに視線を落とした八坂君は、指先でビールの缶を揺らす。
「俺はいるよ。モテるから」
「ああ、そう。
俺だって、仕事が忙しくて会えないだけで恋人はいるよ」
「えっ、」
「え?」
くそ、美形なのは自覚してるのか、と悔しさが募り、思わず大人げなく返せば、八坂君の目が先程よりも更に大きく丸まって見つめてきた。
今度は逸らされる事なく真っ直ぐに俺を見て、僅かに眉間に皺が寄っている。大きな黒い瞳が動揺したように小さく左右に揺れていた。
強いて言うなら、『ショックを受けた』。そんな表情に見えてしまったのだが。
「……いや、嘘ですが」
その表情に思わず敬語で白状してしまえば、八坂君の肩からフッと力が抜ける。安心した、とでもいうような反応に今度は俺の目が丸くなってしまった。
ぽかんと見つめていれば、ハッとした八坂君は慌ててレジ袋を広げる。荒っぽい動作で冷めた弁当を袋に入れる八坂君は、前の─俺に対して説教をし出す前の─様にパタリと口を閉ざしてしまった。
…………なんだ、これは。
一週間毎日毎日説教をされたが、こんな反応は初めてだ。
戸惑いながら見ていれば、冷めてしまった弁当なのだから袋を分ける必要は無いはずなのに、律儀に弁当とビールは別の袋に入れてくれる。
それを無言で押し付けてくる八坂君は、不貞腐れた様に口をへの字に曲げていた。
美形で大人びた風体の彼なのに、それはまるで子供が誉められて照れている様な、それを必死で隠してみせる様ないじらしいサマで。
とにかく、俺には知られたくない様な感情を押し隠しているらしい。
そんな表情を見て、俺は唐突に気が付いた。多少自分に都合の良い考えだったが、それが一番合点がいく。
「…八坂君は、俺の体の心配をしてくれていたんだな」
「──はぁっ?!」
突き出された袋を受け取りながら呟けば、八坂君は先刻と同じく目を丸く見開いた。
わなわなと唇を震わせる八坂君の頬が、次第に朱色に染まっていく。
「ありがとう」
今までの暴言も、俺の事を考えて言っていたのかと思えば、酷く愛を感じるではないか。素直に感謝を伝えれば、八坂君の顔が殊更紅く染まった。
キュッと一度唇を噛んだ八坂君は、目を細めて眉を吊り上げる。
「別に心配してねぇよ!!
さっさと帰れ!!おっさんはさっさと寝ろ!!」
「引き止めてたのは君じゃないか…」
理不尽な言い様に反論しようとしてやめた。ちょうど入口から客が入って来たのが見えたからだ。
レジに表示された金額とぴったり同額を置いてから、大人しく踵を返してコンビニの出入口を開けば外気が頬を打った。
何気無く腕時計を見てみれば、やっぱり日付が変わっている。いつもより説教は短かったが、それでも日付が変わるまではコンビニに拘束されてしまうらしい。
二、三歩進んでから振り返ると、カウンターからこちらを見ていた八坂君と目が合う。目が合えば、真っ赤な顔で即座に顔を背けた八坂君に、思わず口元が綻んでしまった。
ガサガサとレジ袋を揺らして歩き出した。妙に気分が良い。
明日は、酒をやめてみようか。
それと、サラダを追加してみようか。
「どうだ?完璧なメニューだろ?」
そんな風にレジまで行ってみようか。
明日は、少し早めに仕事を終えよう。
そうしたら、八坂君といつもより長く話せるんじゃないか?
八坂君がどんな説教をするのか楽しみだった。