第三話 彼と彼女の現在
今日私がベネデットに渡したのは、あのとき署名した婚約破棄の書類だ。
私の署名だけでなく、私より先に記されていた彼自身の署名もちゃんとある。
左手で書類を受け取り確認して、ベネデットは怯えたような瞳に私を映す。
「僕達の婚約は破棄されているのか?」
「ええ、一年以上前に。そして貴方はインチテンデと結婚したのです」
私が継承権を放棄したので、庶子のインチテンデは特例で伯爵家の跡取りとなった。
ベネデットは予定通り伯爵家に婿入りしたのだ。
惜しいと思う気持ちはない。伯爵家の跡取りという立場自体は、ずっと昔から捨ててしまいたかったものだもの。
「僕が……君の異母妹と結婚?」
「そうですわ。婚約者の異母妹と通じて、本来の相手に婚約破棄を突き付けるような真似をなさった貴方はご実家の侯爵家から絶縁されて、伯爵家が王都に持っていた家で生活し始めたのです」
お母様と結婚するまで伯爵家の財政は困窮していた。
だからこそ裕福な商家の娘であるお母様を求めたのだ。
そういう結婚は珍しいものではない。でも正常な人間なら家を建て直す支援をしてくれた花嫁を大切にする。嫡子を人質にして金を絞り出したりしない。
伯爵家が王都に持っている家は狭くてみすぼらしかった。
困窮する前に持っていた大きな屋敷は資金繰りのために売り、領地から出て来たときの仮眠所として安く買い叩いた家だったからだ。
伯爵はその家を建て直すか買い替えるかしたかったのだろうが、その話が出たときはすでに愛人親子の存在が明らかになっていた。お母様と祖父が金を出すわけがない。
「では彼女は、その家で僕を待っているのか? 僕はなぜ君のところへ……」
呆然としていたベネデットは、なぜか突然左に立つプニツィオーネに気づいた。
さっき視線を向けたときは、ただの侍女としか認識していなかったのだろう。
ぼんやりとした口調で、彼は呟くように言う。
「君は……確かプニツィオーネ。カルロタの侍女で、カルロタが異母妹を虐めていると教えてくれた女性だったね。……全部嘘だったけれど」
ベネデットは伯爵達ほど愚かではない。
私が彼らを追い出した後で、自分の両親に絶縁された後で、ちゃんと真実を調べたのだ。
私はインチテンデやその母の愛人を虐めたりしていない。離れから出ることは禁じていたけれど、勝手に住み着いておいて母屋で自由にしたいなんて言うほうがおかしいのだ。
ベネデットは真実を知った。
私は無実、嘘つきはインチテンデとプニツィオーネ。
彼は婚約者の異母妹と浮気して、婚約破棄までした不貞男。
真っ青になって俯いたプニツィオーネから視線を外し、ベネデットはぶつぶつと呟き続ける。
左手で顔を覆っていた。
彼の頭の中では今、自分にとって都合の良い幻想と痛みしかない現実が入り乱れているのに違いない。
私に逃げられたことで祖父の商会からの支援を失った伯爵家は、急激に困窮していった。いや、お母様が嫁ぐ前に戻っていったのだ。
ベネデットの実家の侯爵家も財政が揺らいだ。
伯爵家ほどではないものの侯爵家も困窮気味で、それが私とベネデットの婚約の理由だったのだから仕方がない。ここまで相手を莫迦にした真似をしておいて、支援だけ受け続けられるほど侯爵家のご夫妻とベネデットのお兄様は恥知らずではなかったのだ。恥知らずではなかったのに……お可哀相に。
「ベネデット様。先ほど申し上げた通り、インチテンデは今も貴方の隣にいます。……貴方の右側に」




