第9話『太陽のためならば』
店主が笑顔になるのを見てから外へ出ると、一足先に待っていたギデオンが停まっている馬車を見て呆れている姿に、フレアが不思議そうに首を傾げた。
「どうした? 乗らないのか?」
「まだ酒が抜けきっていないようだな。こんなみすぼらしい馬車とは」
「今は皆が忙しくしていて、馬車まで手が回らないんだ」
目の前にあるのはただの荷馬車で、御者は予想外にも侍女が務めていた。荷台はからっぽで、本当に乗るためだけだったと分かる。よもや一度は落魄れたとはいえ、国の皇帝ともあろうものが乗るべきものではない、とギデオンは苛立った。
「身なりを整えられるのなら、馬車も少しはマシなものにしてくれないと。貴女の顔はほとんど知られていないから此処まで平気だったのかもしれないが、普通なら石を投げられてもおかしくないんだぞ」
あまりに早口に叱られるもので、フレアは口先を尖らせてムッとする。
「町がこの有様で贅沢な馬車に乗るなんて、普通有り得ないだろう」
はあ、と流石にギデオンも呆れて額に手を置く。
「だから乗るんだよ。貴女はこれから国を立て直す主役なんだ。権威を持たない皇帝を誰が信用できる? 石を投げつけられても平気なくらい立派な馬車があったはずだが、そいつはどうしたんだ、まさか売ったのか?」
ぎくりとしてフレアが視線を遠くへ逃がす。並べたのは、言い訳だった。
「ち、違う。あれはほら、働いてくれる者たちへの給金が必要だったから……。財産はほとんどメンテルが賭博場を通じて何処かへ送金して隠したらしくて、それを見つけるまでの臨時予算が必要だったんだ」
フレアならやるだろうな、とギデオンはうんざりした表情を浮かべつつも、内心は嬉しかった。誰もが愛した平民出身の皇帝。暗君に反旗を翻した騎士。威厳を抱き、なおも輝く純粋さは変わらない、と。
「そこの侍女、名前は」
御者台に乗る侍女が深く頭を下げた。
「シルヴィ・シャトーと申します。陛下の専属侍女をさせて頂いております」
専属侍女と聞くと、ギデオンは何故か良い気分がしなかった。僅かに睨むようにフレアを振り返り「いつから専属の侍女を?」と尋ねる。これまでは騎士団の仲間以外は誰も寄せ付けてこなかったから。
「メンテルとアマリーを幽閉塔に送るときに。シルヴィ以外にも、ブリジットという専属侍女がいる。二人がいてくれたおかげで、色々と助かっていてね」
何故、ギデオンが冷たい瞳を向けてくるのかは分からなかったが、シルヴィを良く思っていないのはフレアにも理解できる。仲良くするよう言って、果たして聞き入れてくれるかどうか。
「……そうか。陛下が言うのであれば、俺は別にいい」
明らかな不満の籠った声が、嫉妬深くフレアの耳に纏わりつく。果たして、この冷血漢のようで情熱的な男の手綱を握れるだろうか、と肩を竦めた。
荷台に乗り込んだらシルヴィが馬を走らせる。がらごろと車輪が転がり、揺れる荷台でギデオンは懐かしそうに微笑んで遠くを見た。
「昔を思い出すと思わないか、フレア。名もなき騎士だった頃、よくこうやって、馬車に乗りながらたわいない話をしていたものだろ」
話を振られると、フレアは目をすうっと細めて、押し寄せる懐かしさにニヤリとする。あの頃は戦う事が全てだった、生き残る糧だった、と振り返って。
「……今思えば、我々が前皇帝の直属となったときから、お前は私を助けてくれた。国政などよく知らない私に、色々と教えてくれていた事は感謝しているよ」
「陛下の御心を思えばこそ。俺たちの太陽のためならば、なんだってするさ」
頬杖を突きながら、フレアがくっくっ、と声を漏らす。ギデオンはいつだってフレアのためになんでもやったが、当の主人はその心には気付いてもいない。
「相変わらず私は国政には疎い。何事も最初が肝心だ。お飾りでいるつもりはないが、まずはお前の力を貸してほしい」
「任せてくれ。俺は貴女のためにペンを握る用意がある」
ペンを握るような手の形を作り、小さく振ってフレアに無邪気な笑顔を見せる。新たな皇帝が平民出身であるがゆえに、公爵家で生きてきたギデオンは欠かせない。彼にとって国政を担うのは難しい事ではなかった。
「ところで、陛下。他の仲間には、もう連絡を?」
「クライドとアルテアには手紙を送ってある。どちらも領地運営に忙しいそうだが……そちらについては、お前の方が詳しそうだな」
ふむ、とギデオンが顎を擦った。
「貴女の下を去ってから、皆が自分の領地に戻った。崩れていく国政で首都が危うくなっても、自分の領地だけは守ろうとしたんだ。おかげで、それぞれが独立した小国のように機能して上手く貿易も行われている」
自分は優秀なのでわざわざ領地には留まらない、とギデオンはわざとらしく胸に指を添えながら鼻を高くする。フレアはそんな彼の仕草に何も言わずに、まるで何も見ていないとばかりに視線を逸らして話を続けた。
「首都の人口も見るからに少ないし、商館もないとは思っていたが、なるほど。運営がうまく行っているそれぞれの土地に、皆が出て行ったわけだ」
「……ああ、そうだ。だが、国民はきっと理解してくれる」
ギデオンは静かな怒りが湧きあがり、ぎゅっと拳を握りしめた。メンテル公爵の行いは決して許されざるものであり、それに準ずる首都に未だ根を張った貴族たちも同類だ。諸悪の根源は絶たなくてはならない、と決意する。
「まずは初仕事に、腐った根の処理から始めないとな。貴女の手に負えない、薄汚い連中を一掃するんだ。どんな手を使っても、俺たちの首都を取り返そう」




