第5話『悪酔いの夜』
◆
「皇帝陛下の様子は如何だったかな、アマリー?」
初老の男がソファにどっかりと体を預けながら、優雅にワイングラスを回しながら下品な笑みを浮かべる。皇后宮を我が物として、飾り物となった皇帝の事を思うだけで昂りが止まらない。これが君主に与えられた特権だとばかりに。
アマリーは男に深々と頭を下げて答えた。
「ルイス様が仰った通り、お酒に薬を混ぜている事には気付いていない様子です。今晩は体調が優れないからと食事は召し上がりませんでした」
「……ほう。珍しいな、あの薬には随分と依存性があるはずなのだが」
ルイスは皇帝に贈った酒に依存性の高い薬を混ぜた。一度でも口にしてしまえば、薬の効果は高揚感を与えてくれる。ただし酷く酔うようになり、考えが纏まらず堕落的な思考に呑まれていく。つまり酒を異常に欲するようになる。
飲ませるのは難しくなかった。なにしろ、皇帝が大切にしてきた妹が馬車の事故で亡くなったのだ。侍女長として信頼を受けていたアマリーならば楽な仕事で、ルイスはこれを利用して皇帝を堕落させていった。
だから、少し不思議だった。効果の確かな薬の影響で、これまで一度たりとも拒んだ事はなかった。あり得るのか、と首を小さく傾げる。
「他に変わった様子はなかったか?」
「ええ、特には。今も部屋でお眠りになられてるかと」
「ならば構わない。たかが一度くらい、問題は────」
話している途中で部屋の外から騒がしい声が聞こえてきた。不快に思ったルイスはグラスをテーブルに置き、眉間に皺を寄せて溜息を吐く。
「人が気持ちよく酒を嗜んでいるときに……」
「わたくしが見て来ましょうか、ルイス様」
「いや、結構。ここまで大騒ぎしているのだ、何かあったのだろう」
自分の目で確かめた方が早いと思い、扉に手を掛けた瞬間──────思いきり扉が蹴り開かれ、ルイスは床に飛ばされた。
「ぐああっ……! くそっ、どこのだれがこんな無礼を……!」
「どこの誰とは失礼だな、公爵。私とて独りで飲むのが寂しいときはある」
顔を見て、ルイスは目を剥いて驚き、慌てて立ちあがった。
「────こ、こここ、皇帝陛下……なぜこちらへ!?」
「皇宮は静かすぎてな。皇后宮が随分と賑やかだったので出向いたのだ」
目の前にいるのは、いかにも健全とばかりに顔色の良い皇帝。ゆえにルイスは怒りと困惑の眼差しでアマリーを見た。
しかし、頻繁に会っていたアマリーも分かるわけがない。これまでの皇帝は確かに酒に溺れてまともな判断もできない状態だったのだから。
「何を焦っている。私はそなたらを労いにきてやったのだぞ?」
「は、はい……? 労いとはいったい……」
「うん? おかしいな、そなたが私の代わりに国政を担っていたと聞いたが」
フレアは何も知らないふりをして笑顔を振りまく。いち読者であった事に加えて、元のフレアの記憶まで多分に流れ込んでくるので、問い質すまでもない。今はただ気楽に、愉快に追い詰めるだけで良い。
「シルヴィ、例のものを。ブリジットは侍女に言ってグラスを用意させよ」
指示を受けて粛々と従う侍女たち。シルヴィは布に包んでいたワインボトルをフレアに渡す。ルイスたちには、あまりにも見覚えのあるボトルだった。
「へ、陛下……あの、そちらのワインは……!」
「なんだね、公爵。よもや酒の気分ではないと言うわけではあるまいな」
ちら、とフレアはテーブルに置いてあるワイングラスに視線を流す。
「日々の疲れを癒すには安物ではなく、私のように最上級のワインを飲む方が、よほど体に沁みるというものだ。席に着くがいい」
意気揚々と先にソファに座ってグラスが届くのを待とうとする。ルイスとしては、どうにか帰したかったが、皇帝の様子を見るに正常で、とても追い返すだけの言い訳を作れそうにもない。
「陛下。頭痛があって今日は飲まれないと仰っていたでしょう」
アマリーが尤もな意見を口にする。ルイスが同意して頻りに首を縦に振った。よくったと褒めるように安堵した笑みを浮かべて。
だが、そんなものは皇帝を退ける口実にはならなかった。
「────座れ。何度も言わせる気か?」
背筋がゾクッとするほどの冷たい瞳。いたずらに刺激しては手首を斬り落とされてもおかしくない、と想像ができてしまう。かつて皇帝を討ったフレアが、そこにいるという威圧感が全身を震えあがらせる。
そっとボトルをテーブルに置いて、フレアはソファに体を預けた。
「庭園は実に美しかった。皇宮の有様とは真逆だ。部屋からしばらく出ていなかったから気付けなかった。あれは卿の仕事ぶりであろう、公爵?」
「も、もちろんでございます……」
対面のソファに腰掛けたルイスの組んだ手はぶるぶると震えている。視線は落ち着かず、どうすれば、今この場から鼠のように逃げ果せるかと考えていた。
「庭園の管理も出来ていないと貴族たちに揶揄されては困りますでしょう。なので、管理はこれまで一度も怠っては────」
「それが皇宮を管理しなかった言い訳だとしたら上出来だな」
ブリジットから届けられたグラスを受け取ると、ボトルを開けてグラスにワインを注いでいく。美しい艶のある色が灯りに輝き、フレアを仄かに映す。
「皇后宮での暮らしぶりはどうだった。私を小さな砦に閉じ込めて、夜な夜なパーティを開いていた事もあったそうだな。騎士たちから既に聞いているよ」
「そ、れは……その、交流も大事ですので……」
身を小さく丸めながら、必死に命を繋ぎ止めようとする滑稽な男を前にして、皇帝であるフレアはくすっと静かに嘲弄する。
「恐れる必要はない。グラスを持て、乾杯のときだ。今日までの貴様の働きは実に素晴らしい手腕を以て行われたと認めてやると言うのだから文句はあるまい」
注がれたワインをルイスとアマリーに振舞い、フレアは満足げに言った。
「今生で飲める最後の酒になるかもしれんのだ、飲んでおくといい」




