第40話『■■■■』
背中を押されて酒場を後にすると、フレアは帰り道を独りで歩く。
腹立たしさと、悔しさと、悲しさと、なにより不安が胸の中に渦巻いた。正しいことをしているはずなのに、酷い虚無感に襲われた。
原因は分かっている。たとえすべてを手に入れても、自分は完璧なフレアではないのだ。かつて平凡だった誰かに過ぎず、良くも悪くも選ばれた。偶然に。
あらゆる知識や経験は間違いなく、いつかの悲劇のヒロインのものだ。だが体験は今の彼女自身のもので、心の動きは本来の人間に準拠する。人を殺すことには慣れていない。既に赤く染まっていただろう手の姿に、気付いてしまった。
「……これで良かったのかな。本当に」
潰さねばならない敵だった。それは間違いない。そうするべきだったと思う。だが一方で、ただ殺すのではなく対話をすべきだったのではないだろうかという想いも胸にはある。勝手知ったる世界とは違うのだからと言い聞かせても、拭えない心の違和感に、もやもやした気持ちが湧いた。
「随分と暗い顔だな、フレア。何かあったのかい?」
足を止めて前を向くと、ギデオンが傘を片手に迎えにきていた。
「そろそろ雨が降りそうだ。仕事は終わったんだろう、一緒に帰ろう」
「……皇宮の警備は?」
「過剰なくらいの面子だ。ひとりいないくらいどうってことない」
「そうか。ではお言葉に甘えさせて頂こう」
曇り空は、ギデオンの予想通りに雨を降らせた。ともに歩いていると安心する。同時に、申し訳なさが胸の奥に隠しきれなくなっていく。耐えられない。自分は普通の人間だった。憧れた英雄の名を背負い、そうして必ず自分がハッピーエンドへ連れて行ってあげようと思っていても。
どんなに取り繕っても、自分は自分でしかないのだ。
「ギデオン。お前はどうして、いつも私の傍にいるんだ」
「さあ。心の在り方が気に入ってるから、かな」
いつもより暗い雰囲気を察したギデオンは、堅苦しい上下関係ではなく、家族のひとりとしての崩した言葉遣いで答えた。
「あなたが実のところ繊細で、色んな人の顔色を窺いながら、自分らしくないことに耐えているのは知ってる。……でも、だから気に入ったんだ。俺はそういう泥臭い人間が好きだ。必死にもがきながら正しさを探り、前を向いて生きる人間が」
思わず涙が目に浮かび、返す言葉が出てこない。喉が詰まったようにフレアは黙って唇を噛み締めて、その心を裏切っているのが苦しくなっていく。
「人を殺すのは好きじゃない。私は、皆が平和であってほしいのに、頑張ろうとして無理をして、今、すごく怖いんだ。話を聞いてほしい、ギデオン」
打ち明けてみてもいいだろうか。そんな考えが浮かび、足が止まった。
「聞いてあげるよ。俺があなたのために出来ることってそれくらいだから」
「……私が、お前の知っているフレアではなくても?」
ただ、違う誰かの体に入り込んだに過ぎない命。混ざり合っただけの魂。そんなものが彼の愛したフレアのはずがない。平凡な世界の■■■■でもない。以前の名前さえ思い出せないほど、自分を見失ってしまった。今の世界にも馴染めず、前の世界を恋しいとも思えない半端な人間。自分で、自分を許せなかった。
「────知ってるよ。俺は、あなたが本来のフレアじゃないことは」
「……え?」
隣に立っていたギデオンが、覗き込むように顔を寄せ、ニコッと笑う。
「これは皆で決めたことだ。誰もが忘れてしまっているけれど、俺だけは覚えてる。この世界が先へ進むために、フレアと、そしてフレアを慕う皆のために」
「それ、って……どういう……なんで?」
ギデオンはフレアの背中をぽんと叩く。
「歩きながら話そう。道のど真ん中では迷惑になるだろう。ややこしい話なんだけど、事情を説明しよう。ついておいで、ゆっくり噛み砕いて教えるよ」
言われたとおりに小さく頷いて隣を歩く。ギデオンは特に真剣な顔をするでもなく、ただニコニコと微笑みながら。
「元々、フレアひとりでどうにかできる問題じゃなかった。繰り返される世界は、やがて俺たちの記憶にまで影響を及ぼした。だけど、何をやっても失敗する。誰かが死んで、フレアが壊れてしまった。その繰り返しだった」
止めたかった。何度も繰り返される同じ時間軸から抜け出したかった。そのためには、この世界の住人ではない誰かが必要だ。おとぎ話の中に出てくる英雄のように、世界を正しく導いてくれる誰か。フレアの意志を継ぐのではなく、フレアと共に在ろうとする誰かの存在が。
「繰り返される時間にフレアは憔悴して完全に壊れる寸前だった。俺は、クライドやアルテア、そしてルイーズと共に転移魔法を創りあげた。……おかげでフレアは帰ってきた。■■■■という魂を使うことで」
「私は死んだんだろう。元の世界で、過労死だったと聞いてる」
うん、とギデオンが申し訳なさそうに頷いた。
「あなたの魂は都合が良かった。偶然なのかもしれないが、フレアが自分と全く同じ性質の人間を呼び寄せたんだろう。そしてあなたの魂は本来のフレアと混ざり合い、ひとつになった。……この世界は誰かの物語で出来ている。それを創った誰かも既にこの世界で命を落としてしまった。ループを止められなかった。だから、この世界を愛してくれる誰かが必要だった。────それが君だ、■■■■」




