第4話『色褪せた国』
寝間着のままではただの笑いものだ。とはいえ、自分の服を着るのに手間取ってアマリーに気付かれる事があってはならない。
シルヴィとブリジットに手伝ってもらい早々に支度を整え、その間にフリックが軽食を用意してもらえばいい。他に思いつく名案はない。
そうと決まれば、早速フレアは踵を返し、善は急げと侍女たちを連れて自室へ向かった。着替えるのは少し楽しみでもある。着飾った自分を思い描いた事はあっても、実際に着るとなれば少女のようにドキドキした。
「あの、陛下。本当に皇后宮に行かれるのですか……?」
ドレッサーの前でフレアの髪を櫛で優しく梳きながら、おそるおそるシルヴィが尋ねる。長年に亘って実権を握ってきたメンテル公爵とアマリー侍女長は、既に皇宮で働いていた皇帝派だった人間を解雇。騎士団まで解散させている。今の皇帝は丸裸も同然の、権力を失った騎士に過ぎない。
────というのは、酒に頼って生きていたフレアの話だ。
「行くとも。たかが乗っ取られた程度、前皇帝を討ったときより楽な話だ」
不思議だ、と思った。宮本サラであれば、そんな言葉は絶対に吐かない。吐けない。そもそもイメージするのが難しい。自分は本来、フレアではないはずなのに、まるで当たり前のように言葉が衝いて出た。それが当たり前だとばかりに。
「(威厳あるフレアを演じるつもりではいたけど、なんだか変な感覚……。なんだか私が本物のフレアになったみたい。この身体のせいだろうか?)」
鏡に映る自分は、かつての自分ではない。かっこいいと愛した、物語の中の騎士であり、女皇帝。悪女とは名ばかりの、ただ悲しみに溺れた女性。
そんな事をふと考えていると、フレアの頭の中に、また声が響く。
『メンテル公爵は首都をめちゃくちゃにした。大きな商団は離れていき、経済はガタガタで、国民には重い税が課されている。皇帝直属の騎士団は失われ、今はメンテル公爵が新たに編成した騎士団員で構成された。首都の治安は悪化して、人の命は軽視されている。窃盗は生ぬるい。道端で死体が転がっていても、誰も見向きすらしない地区さえある深刻な状態が、もう一年は続いていた』
酷い頭痛がする。声が記憶として植え付けられると同時に、今の首都の光景が鮮明に叩きこまれた。悍ましい世界が見えて、吐き気さえ感じた。
「大丈夫ですか、陛下?」
心配そうにブリジットが顔を覗く。フレアはニコッと微笑む。
「大丈夫だ、酒が抜けきっていなかったのかもしれないな」
そう言いつつも、脳裏に焼き付いた光景は簡単には離れない。目を軽く閉じるだけでも、まだ鮮明に蘇ってくる。
人々の死の臭い。大人も子供も関係ない。耐え切れなくなった者から命を奪われていく。簡単に殺しもする。子供の泣き声が止まず、残飯は奪いあい、大人たちの怒号がどこでも響いた。貴族のいる場所だけが、穏やかな楽園のようだった。
「(なんて惨い……。フレアが弱っている間に実権を握ったメンテル公爵が、自分の派閥にある貴族たちを抱えて首都を牛耳っているのね。早々にどうにかしないと。私の愛したフレアの町が、こんなふうに壊されるのは許せない)」
ただでさえ、作品の中で壊れていくであろうフレアを想うだけで胸が痛くなった。にも拘わらず、その身になってみると、なおさらに苦しみを感じる。物語の続きがバッドエンドだと言うのなら、必ずその筋書きを変えてやると決意した。
程なくして着替えが終わった。姿見の前で自分の衣装をチェックして、フレアは納得がいった様子で、うん、とひとつ頷いて満足げにする。
威厳を損なわず、かといって窮屈ではない。かつてフレアが愛用した漆黒の騎士服は、身の引き締まる思いになれる。鏡に映る目は力強い決意に満ちた。
「では皇后宮へ行こう。久しぶりだから道案内を頼む」
侍女たちは粛々と礼をしてフレアを案内する。広い皇宮を歩き、窓の外に遠く見える皇后宮の建物が煌々と灯りを点けている事から、きっと大勢がまだ働いているのだろうと想像するのは難しくなかった。
「庭園の手入れだけは出来ているんだな。皇宮は酷い有様なのに」
いかにも公爵らしい発想だと舌打ちする。貴族主義ともいえる状態の首都で庭園の見栄えを良くするのは、自身がどれほどの権力を握っているかを誇示しているも同然だ。皇后宮の中もさぞ金が掛かっているんだろうとフレアは酷く呆れた。
不機嫌さを感じ取ったブリジットが、泣きそうな顔で言った。
「首都で暮らす人たちは皆が貧困に喘いでいます。なのに、公爵様は嘆願書のひとつにも目を通そうとしません。……進言すれば処罰まで受けるんです」
「私がいなかったせいで、随分と迷惑を掛けてしまったようだ」
きっと謝っても、そう簡単には許してもらえないほどの大きな罪。償うためにやるべき事は、命ある限り腐敗を正していき、国を正常化させる事だけだ。かつての皇帝を討ち、人々の前に立って新たな未来を掴むと言ったフレアが、今では暗君と化している。前皇帝と同じ道を辿る事だけは、あってはならない。
ぎゅっと拳を強く握りしめて、怒りを胸に秘めた。
「まずは目の前の問題から片付けなくてはな……」




