第3話『最初の一歩』
入って来た時からの、いやに大きく見える態度。侍女長が前皇帝から誠心誠意仕えていたと仮定すれば良く思われないのは仕方ない、とフレアは不満を胸の中に押し込んで表情に出さない。
「いらない。さげてくれ、気分じゃない」
「はい? どこか具合でも悪いのですか?」
「頭が痛いんだ。昨夜、酒を飲み過ぎたんだろう」
特に記憶が助けてくれる事はなかった。とはいえフレアの性格を考えると、昨夜も変わらず、酒を浴びるように飲んで眠ったに違いない。
だから当たり障りない理由で酒と食事を下げるよう言った。
アマリーは不満げに溜息を吐いてワゴンを引き上げようとする。
「はあ……。でしたら、またしばらくしてからお訪ねします」
「……ああ」
嫌われていて良かったと安堵して胸をなでおろす。
「ひとまず危機は去ったかな。さて、どうしようか」
今の自分がフレアである事は別に構わない。問題は今後どうしていくか。どうするべきか。今のままでは、いずれ直属の騎士たちからの反乱が待っている。
訪れる未来は絞首刑か斬首刑か、どちらにせよ死にたくはない。
「今の状況はなんとなくあらすじで語られてるからいいけど、ここからの事はまだ投稿されてなかったのよね……。全体の流れとしていつか叛逆に遭うまでは確かだから、うーん……。よし、まずは外の状況から確認しよう」
そうと決まれば早速、部屋から出ようとして足が止まった。自分の服装を見て、フレアは寝間着のままウロつくのはどうなのか、と考え直す。
『酒に溺れたフレアは、いつだって気侭だった。裸足のままうろつくのは日常的だ。だって皇宮にはアマリー以外の侍女は二人しか働いていないのだから』
語り部的な声が聞こえてくると、フレアはげんなりする。
「要するに殆ど誰もいないって事ね……。はぁ、呆れたわ」
酒に溺れてから随分と経っている、というのがなんとなく分かる。部屋の外に出るのが少し恐ろしくもあり、怖いもの見たさという好奇心も働いた。
そっと扉を開けて廊下の様子を窺う。声に聞いた通り、生活感がほとんど感じられない。ひどく寂れていて、しんと静まり返っている。
フレアも部屋からほとんど出なかったんだろうな、と思わず苦笑いした。
ひた、と石材の床に足を置くと冷たさが全身にすうっと沁みる。スリッパでも欲しくなるが、気の利く侍女もいなければ、察して動いてくれそうな執事もいない。数人の侍女がいるとして、広い皇宮はフレアには居心地が悪かった。
「(これじゃあ、フレアは何のために国政を牛耳っていた旧皇家を討ち取ったのか分からないわね。侍女長以外にも二人いるらしいけど……どこかしら?)」
あてもなく彷徨う。いくら頭の中に記憶が叩き込まれるとはいえ、皇宮の地図までは、どうやら本来のフレアも大して把握できていなかったらしく、ちっとも声が響いてこない。なんとなく不満に思いつつも、言葉には出さなかった。
冷たい廊下をひたひた歩く。足の裏が痛み、身体は芯から冷えてくる。ストールの一枚でも持ち出して来るべきだったかもしれないと後悔した。
だが幸いにも、一筋の光を見つけて寒さはいっとき忘れた。
「……良い匂い」
そっと隙間から覗いてみる。どうやら厨房で、ひと目見ただけで壁に掛かった調理器具が視界に飛び込んできた。温かい空気が漏れていて、立っていると寒さを忘れさせてくれる。
「(中はもっと温かいのだろうな。入ってみようかしら)」
誰かいるかも、という期待に扉を開ける。厨房で話をする三人組を見つけた。一人の料理人に、二人の侍女。決して明るい表情ではなく、むしろ疲れ切っている様子さえ窺えた。フレアが現れると、咄嗟に隠してしまったが。
「て、帝国の太陽にご挨拶申し上げます、陛下……!」
料理人が先頭に立って挨拶する。侍女たちもそれに続いて頭を深く下げた。
「よい、楽にせよ。ここで何をしていた?」
普段のフレアは気に入らなければ罵詈雑言を吐き散らす。挨拶が遅れたり、ただ驚いただけでも目の敵にされる事はあった。だから、穏やかな表情で尋ねられると三人とも戸惑いを隠せなかった。
「ふむ……。別に、責め立てるつもりはないのだが」
「あの、よろしいでしょうか」
料理人の男がおずおずと小さく手を挙げる。
「わたくしはここで陛下のために食事を用意するよう、侍女長のアマリー様から仰せつかっております。今朝は陛下がお食事を摂られず、気に入られなかったといって叱られました。お酒に合うものをとご用意させて頂いたのですが……」
ぶるぶると震えて、帽子を握りしめる。背中は丸まって怯えていた。
「私は今朝、頭が痛いから気分ではないと言って下げさせたのだ。そなたらへの不平不満を申したわけではない。アマリーが確かにそう言ったのか」
料理人の男が頷くと、侍女たちも同調する。なぜそんな事をしたのか、確かめなければならないと思ったフレアは、ひとまず居場所を尋ねた。
「アマリーは今、どこにいる?」
また戸惑いに満ちた空気。なぜそうなるのかとフレアは溜息を吐く。
「そなたらの主君は誰か、唱えてみよ」
「も、もちろん皇帝陛下でございます……!」
「ではもう一度だけ尋ねよう。アマリーは今、どこだ?」
誰に仕えるべきか。誰の機嫌を損ねてはならないか。素早い判断と罪悪感に駆られて、茶髪の侍女が座り込んで、深く土下座をした。
「閉鎖された皇后宮でございます、陛下。多くの者は今、陛下ではなく、メンテル公爵と侍女長であるアマリー様の命により、皇后宮で働いております」
そういう事なのね、とフレアははらわたが煮えくり返る。それと同時に、大好きな主人公がひどい目に遭うのなら、それを覆す事こそが自分の使命だとも感じた。今は自分がフレアなのだ。主人公を救えるのは自分しかいない、と。
「そなたらの名を聞かせよ」
料理人の男は自分の名をフリックと言った。平民出身だが料理の腕を買われてメンテル公爵に雇われたものの、アマリーの派閥に不興を買い、乱心である皇帝のために働くよう命じられた。
茶髪の短い髪をしたツンとした顔の侍女はシルヴィ。臆病そうに常に身を小さくする青い髪の侍女をブリジットと言った。二人は現皇帝に対する理解を示す言動をして、フレアを案じる事があった。そのせいか、いじめの対象だった。
事情が分かり、まず手始めに誰を罰するべきかをフレアは理解する。
「よろしい。ではシルヴィとブリジットは着替えを手伝ってくれ。フリック、そなたは軽めの食事を頼む。蒸かした芋だけでも構わん」
「そ、それは出来かねます……! しっかり準備させて頂きます!」
彼らはとても嬉しくなる。殺伐とした騎士たちを率いた頃の、誰もが憧れを抱いた皇帝陛下の姿が目の前にある。帰って来たのだ、と。
「うむ、ありがとう。────では、皇后宮へ向かう準備を始めるとしよう」




