第29話『気分転換』
知らぬ間に眠りに落ちたときほど、眠りは心地良い。それをよくも分からない争いで、ごちゃごちゃと目の前で騒がれてはたまったものではない。あまりに腹が立ちすぎて、笑顔が浮かんでくる。
「ただでさえ休める時間も少ないのに真面目な奴らだ。そんなに仕事が好きならくれてやろう。此処に残っている全ての書類を片付けておけ、二人でな!」
がたっと椅子を揺らして立ち、机に手を突いたまま、ぎろっと睨みつける。大きなため息を吐いたら、去り際にフレアは近くにいたクライドの肩をバシッと叩いて執務室を出て行く。呼び止められても、振り向いたりはしなかった。
気分転換に歩いていると、ふわりと鼻に香る甘い匂いに気付き、虫のように誘われた。厨房が賑やかで、覗き込めばフリックが鼻歌を歌いながらお菓子作りに勤しんでいる。アルテアとブリジットも其処にいた。
「厨房で何をしている、アルテア」
「これはこれは、陛下。お菓子作りだよ、やるかい?」
「いや……。私は不器用だからそういうのは。それより、」
フレアは決して気を抜いた態度を見せず、厳しい目を向けた。
「ブリジットには謹慎を伝えたはずだが、なぜ此処に。アルテア、護衛のお前が、勝手な行動を許すとは思わなかったな」
「まさか。勝手な行動じゃありませんよ、ボクがついてますから」
内心、それは確かに、と否定できない。アルテアがいて、誰が襲い掛かろうと思えるものか。フレアが厨房に入るまでは、ブリジットも和やかな表情だったのだ。これが最善だと判断したアルテアを間違っていると言えるはずもなかった。
「……はあ。仕方ない、今回は許そう。ちょうど話したいとも思っていた」
近くにあった椅子を引っ張ってきて、足を組んで座る。フリックが話を聞きながら鍋をかき混ぜているので、ジッと眺めながら。
「ブリジット。お前の母親は今、地下牢に入れてある」
「……はい。アール様から聞いています」
「うむ。今後の事も含めて、どうしたいか聞こうと思ってな」
ブリジットが皿を洗う手を止める。目を丸くして固まった。
「どうしたいって、厳罰だと仰っていたのに……わ、私が口を出しても?」
「当然だ。地下牢に放り込まれるなんて、まあまあの厳罰だろ」
命に係わるほどの問題でもない。ただの口論から発展した小さな喧嘩を事前に止めたに過ぎず、地下牢の冷たさを味わったのなら十分すぎる罰を与えた。後は、ブリジットがどうしたいかで決めるのが尤もだろうと意見を仰ぐ。
なにしろ、これまで辛酸をなめてきたのはブリジットだ。母親という鎖に縛られて意見らしい意見も言えなかったのであろう事は容易に想像できる。他の誰かが決めていい事ではない。フレアがブリジットを一瞥すると、迷うように泡立ったタオルを強く握りしめていた。
「どうして、決めさせてくれるんですか?」
「母親だからだ」
戸惑うブリジットに、フレアはハッキリと強く答えた。
「親ってのは世の中に二人しかいないんだ。どんな形であれ、失う事が辛いと思う事はある。嫌っていても、憎んでいなければ、いなくなったら寂しいものだろ。求めたときにいないときの痛みは、刃物で斬られるのとは比べ物にならん」
会いたくても会えない寂しさの痛みをフレアはよく知っている。愛しているからこそ、手放したくないと思う事がある。その痛みを分かち合おうとした。
「……わ、私……お母さんが好きです。いつも怒るし、すぐ叩くけど……お父さんがいなくなるまでは本当に優しかったんです」
今にも泣きだしそうなのを必死に堪えるくしゃくしゃの顔。アルテアも、流石に可哀想だと思ったのか、皿を片付けるのを中断してブリジットに寄り添った。肩を優しくとんとん叩き、頭を優しく撫でて宥めた。
「陛下、新人を可愛がって泣かせるのは駄目だよ。最初から、答えなんて分かり切ったうえで聞きに来ていたんだろ?」
「はっはっ、流石にお前にはバレてるな」
配給品を持って帰るときのブリジットは嬉しそうだった。多少の仕送りも、まともに届いていたかどうかさえ怪しい。しかし、その一方でティナは責めなかった。ただ物資の量が少ないと文句を言ってシルヴィと喧嘩になっただけだ。
どこかに、まだ愛情が残っている。忘れられない何かがあるはずだ。だからひとまず家に帰してみても良いかもしれない。ただし、ブリジットが受け入れられれば。フレアは最初からそう決めていた。
「アルテア、すぐに馬車の手配をしておいてくれ」
「了解。じゃあ、ボクのお手伝いはここまでかな」
ブリジットの頭をぽんぽん撫でたら、アルテアは笑顔でまた後でねと手を振って厨房を後にする。馬車の準備が出来て呼びに来るまでは厨房で待機になった。
「これで一件落着かな。アルテアが来たら、お前も母親と家に戻れ。少しくらいは話す時間が欲しいだろう?」
「あ……はい、ありがとうございます。何から何まで……。わ、私、陛下に何も返せもしないのに、こんなに手厚くしてもらってもよろしいのでしょうか」
ブリジットが俯き、嬉しさと申し訳なさに体を小さく震わせる。フレアは、テーブルに置いてあるクッキーに手を伸ばして、ひとつ齧った。
「いいんじゃないのか。家族を助けるのに打算的な事などしないよ。厚意はただ受け取ってくれれば、それが十分の恩返しだとも」
口の中に広がる優しい甘さに、フレアの頬も仄かに緩む。
「うん、……美味いな。フリック、これ包んでくれ。ブリジットに持たせよう」
「わかりました、陛下。すぐにご用意いたします!」
先ほどまでの苛立ちがスッと消えて、少し強く言い過ぎたかな、とギデオンたちの事を思い返す。今頃はひどく落ち込んでいるに違いない、と可笑しくなった。
「さて、と。私は仕事に戻るよ、後はアルテアが来るまで待機していろ」
クッキーを指に挟んだままひらひらと手を振って、フレアは厨房を出て行く。そろそろ執務室に戻って、馬鹿な男たちに労いの言葉でもかけてやるか、と。
「あ、あのっ……!」
ブリジットがタオルを置いて、フレアに駆け寄って深く頭を下げる。
「ありがとう、ございましたっ! この御恩は忘れません……!」
フレアは言葉を返さずに、クッキーを口の中に放り込んで、嬉しそうにニコニコしながら執務室への帰り道を、気分良く歩いた。




