第23話『どんな犬にも良い日はやってくる』
────全ての仕事が片付いた頃には、もう陽も沈んでいた。書類のチェックは済み、必要なものに判を押して、疑問が残る資料についてはギデオンたちと後日相談にした方がいいな、と忙しさからどうにか解放された。
椅子に座ったまま、ぐぐっと腕を高くして体を伸ばす。休む時間など殆どなかったのに、さほど身体的な疲れがない。精々肩が凝ったくらいだった。
「お仕事はお済みになりましたでしょうか、皇帝陛下」
執務室にやってきたのはシルヴィだ。夕餉の用意が出来たので食堂まで来て欲しいと伝えにきた。そういえば昼に軽食としてサンドイッチを食べた切りだった事を思い出して、ぐう、と小さく腹が鳴る。
「行こう、随分とお腹が空いた。サンドイッチだけでは保たないな」
「ふふ、たくさんご用意してありますよ。皆様もいらっしゃいますから」
「それは嬉しい話だ。では一緒に行こうか。お前たちの分もあるんだろう?」
シルヴィが照れくさそうに、頬を薄っすら赤くして俯きがちに頷く。
「はい。厨房で調理のお手伝いをしていたときに、アルミエル公爵閣下から、自分達の食事も用意するように、と仰せつかっております」
オルキヌス騎士団の仲間になった以上、使用人の仕事を務めているとはいえ、身分に関係なく皇帝を除く全員が同格の扱いでなければならない。それが基本的なルールであり、クライドたちが絶対遵守と誓った事だ。
平民にとっては貴族と肩を並べて豪華な料理で食卓を囲むなど、あってはならない話にしか思えない。だが、そうしろと言われたのであればする他なかった。
まだ緊張は解れない。前日の醜態を思えば、いまさらの話ではあるが。
「そうか。なら従った方がいい、クライドはそういうところは折れないからな」
ぽんぽんとシルヴィの肩を叩き、執務室をあとにする。二人で食堂へ向かいながら、フレアは「少しは話でも出来たか?」と尋ねた。騎士団の面々と打ち解けるのも新入りの仕事だ。忙しくとも会話くらいはあっただろう、と。
ところが、シルヴィは苦笑いを浮かべてしまった。
「私、話下手で。皆さん、よく声を掛けて下さるんですが、上手にお話しできなくて申し訳ないばっかりで……。陛下にも迷惑を掛けてませんでしょうか?」
「ふふ、それは違うだろう。彼らが強引なだけだよ、人数も多いし」
全員性格が違うのだ。どこかが共通しているから成り立つ集団なだけで、好きなもの、嫌いなもの、趣味から小さな癖まで皆が異なっているのに、それらを受け入れて理解して、たわいないと思うような会話を組み立てるのは難しい。
「アールならお前が話してる顔を見るだけで楽しいはずだ。アルテアは煙草を吸うから、煙たいとでも言えば説教コースだな。ルイーズはああも賢い奴だが見た目の幼さ通りに、お菓子がすごく好きだ。ギデオンは朝にコーヒーを淹れてやると喜ぶよ。クライドは業務的だが相手の事を気遣える奴だ、何も気にしなくていい」
オルキヌス騎士団は結成以前から濃密なやり取りがあり、信頼関係を築くまでが瞬きのような早さだった。なにしろ皆が、どうしてかフレアに心酔していたから。理由は本人にも分からず、知るのは個々の記憶の中にいるフレアだけだ。
「参考になります。皆様の心もこれで鷲掴みにできると良いのですが」
「はは、できるとも。私でも出来た事なのだから問題はない」
二人の朗らかな会話を聞きながら、後ろに近付いた男が入り込んだ。
「それは光栄だな、御令嬢。俺との会話は退屈ではなかったかと心配だった」
「あっ、アルミエル公爵閣下……!?」
「驚かなくていい。俺は業務的だとよく言われる。そうだろう、フレア?」
「……あは、聞いてたのか。忘れてくれてもいいんだぞ」
わざとクライドが肩を竦めて、ニヤッと笑った。
「まさか。記念に覚えておくよ、最高の贈り物だった」
「くっ、この男……。ギデオンとは違った方向で憎たらしいな……!」
クライドはひらひらと手を振りながら、少し歩く速度をはやめた。
「先に行っているぞ、フレア」
「おい、謝ってもいいんだぞ。私は皇帝なんだから」
ダンスのようにくるっと美しくターンをしてフレアに振り返り、胸に手を当てて、腕を広げながら深くお辞儀をしてクライドはからかった。
「陛下の御厚意、痛み入ります。それでは私は急いでいますので、失礼」
「んぐぐ……!」
切れ味抜群の返しにフレアも悔しがって口を噤むしかない。二人のやり取りを見てシルヴィがくすっと楽しそうに小さく声を出す。
「仲がよろしいのですね」
「あの意地悪さえなければ良い男さ。仕事を抜きにして語ればな」
「そういえば、さきほどは公爵閣下も敬語を使っておられませんでしたね」
「公的な場ではないからだよ。他の皆もそうさ」
威厳が自分に感じられないな、と肩を落として呆れた。
「同じオルキヌス結成当時からの仲間だから、基本的には気楽に接してほしいんだ。だが公的な場とか仲間以外の人間がいるときは、出来るだけ立場を明確にする必要があるんだと言っていた。私はどちらでも構わないのに」
食堂から、がやがやと楽し気な声が漏れているのが聞こえる。フレアは自分の中にある記憶が確かなものとして、紛れもなく経験したものとして、強く感じた。
「こうしていつまでも笑っていられればいいんだが」
寂しそうに笑う横顔に、シルヴィは真心を込めて伝えた。
「大丈夫ですよ。私たちを救ってくださるような方ですから、救われるだけの理由があります。────どんな犬にも良い日はやってくる、と言うでしょう?」
「……ああ、そうだと良いな」




