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第一章 罪悪感と人生

ここはベルリン。さまざまな歴史を持つこの町で、私は喫茶店を営んでいる。来店する人々の数は決して多くないが、彼らの多くがこの街と同じようにさまざまな過去を抱えている。華々しいものだったり、悲劇的なものだったり、内容は人それぞれだ。また今日も、新たなお客様がやってくる。

秋が過ぎ、朝の空気が一層冷たくなってきたある日のこと。開店してから3時間ほどが経った頃、白髪混じりの頭をした初老と見える男性が来店した。彼の目の周りには大きなクマが浮かび、顔つきは疲れ切っていた。彼の着ている古いコートに何か見覚えがあるような気がしたが、とりあえず彼を目の前のカウンター席に案内した。「ご注文は?」私が問うと、彼は力無く「あたたかいラテマキアートを」と答えた。私が準備する間、彼は何をするでもなく机上の一点をただ見つめていた。その様子はさながら1000ヤードの凝視のようだった。「あたたかいラテマキアートです。」私がマグカップをソーサーに乗せてカウンターに置くと、彼は何も言わずそれを飲み始めた。その時、彼のコートの右腕部分に縫い付けられた薄汚れた赤いワッペンが私の目に止まった。汚れていてよく見えないが、見間違えるはずもない。旧東ベルリンの国境警備隊のワッペンだ。なるほど、コートの既視感の正体はこれだったのか。「お客様、失礼ながらお伺いしたいのですが…」彼がギョロリとこっちを向く。元国境警備隊ならば、この威圧感にも納得がいく。「あなたは旧東ベルリンの国境警備隊の方ではありませんか?」彼はひどく驚いた表情を浮かべ、マグカップをソーサーに戻した。そして彼の表情は段々と驚きから怯えへと変わっていった。それもそのはず、かつてこの町が壁で分断されていた時代、東の国境警備隊は恐怖の象徴だった。彼らは、自由を求め壁をよじ登ろうとする者を、たとえそれが幼い子供であろうと美しい女性であろうと容赦なく射殺したのだ。彼らの手で葬られた東ベルリンの住民は、千数百人にも上ると言われている。また、家族や友人を殺された者も多く、彼らへの憎悪の感情は町中で渦巻いていた。「…」男性は未だ怯えた表情を浮かべ、こっちを見つめている。「安心してください。あなたが元国境警備隊だからといって何か悪さをしようというわけではありません。」私がそう伝えると、彼は少し落ち着いた様子を見せ、再びマグカップに口をつけた。一口飲むと、彼はぽつりぽつりと語り出した。「…私は確かに国境警備隊に所属していた。階級は少尉で、部下が30人ほどいた。あいつらは皆私より若く、血気盛んな若者たちだった。」私は彼の階級が思ったよりも高かったことに驚くとともに、彼への興味がより一層湧いてきた。「私はいつも監視塔の休憩室で昼寝をするだけで、監視や哨戒…あとは所謂『裏切り者』つまるところ亡命を試みた者の殺害…これらの任務を全て部下たちにやらせていた。」彼は続けた。「ある日、上官だったシュタイナー少佐が私の仕事ぶりを視察に来たんだ。流石に上官の前で昼寝をかますわけにもいかん。私は仕方なく銃を持ち、壁の様子を監視していた。すると、今の私と似たようなヨボヨボの男が壁を乗り越えんとしていた。…私は躊躇った。しかし…シュタイナーはただ一言、『やれ』と言った。だから…私は…」彼はここで言葉を詰まらせた。私が「すると貴方は…」と言うと、彼は「…その通りだ。私は彼を…殺してしまった。」と小さく言い、「あの引き金を引いた瞬間から、部下にこんなきつい仕事を押し付けていたことや、彼を殺してしまったことなどへの無数の罪悪感で、夜も眠れなくなった。やがて私は精神を病み、国境警備隊から追い出された。今は私が殺した男や部下たちへの償いの気持ちだけを抱え、少ない配給と日雇いの力仕事を頼りにこうして生きているだけだ。」と話した。私は彼の話を聞き、彼がしたことは仕事だからといっても許されないことは認識しながらも、人生が滅茶苦茶になるほどに部下や殺した男への罪悪感を抱え続けている、誠実とも言える人柄に胸を打たれた。「辛い心情、お察しします。こんなことを聞いてしまい申し訳ありません。」私が謝罪すると、彼は「いや、いいんだ。全て…俺が悪い。」と言い、またラテマキアートを口に含んだ。私が「しかし一概に貴方が悪いとは言えないと思います。仕事だから仕方なかったというのも分かりますし、上官からの圧力もきっと重い負担だったでしょう。さらに、貴方は今に至るまで罪悪感を抱え続けています。それは、貴方が誠実で優しい人柄であることの何よりの証明です。」と語りかけると、彼は少し口角を上げ、「ありがとう、そう言ってもらえて少しは報われた気分だよ。」と言い、ラテマキアートを飲み干した。彼は「美味しかったよ。いくらかな?」と尋ねてきた。しかし私は、「いえ、辛い話をお聞かせいただいたので、お題はいただきません。」と言った。彼は驚いて最初は断ったが、結局私の言葉や飲み物への感謝の言葉を述べ店を出て行った。彼の声が聞こえなくなり、小さなジャズのみが響く店内で、私は古びた手帳を開く。手帳の名前は「来訪者ノート」。この店には昔から様々な境遇や心情の人々がやってくる。私は彼らの興味深く、決して同じ内容の存在しない「物語」をこの手帳に書き留めているのだ。さあ、そろそろ店じまいとしようか。明日もきっと、新しいお客様が来店するだろう。

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