はなし7(番外編) うつろなる五月
僕は醜悪だ。
怒りも嘆きも悲しみも、憎しみさえも全ての感情が彼女に向かう。
彼女が視界に入るだけで肌がヒリつく。声を聞くだけで心臓が跳ねる。
目があったら、もう、きっと逸らせないだろう。
「待ってくださいませ、ライアンお兄様」
パタパタとロゼッタが私のところへ駆けてくる。その赤髪が靡き、月明かりが乱反射するように光が舞う。それは幼い頃に出会った時から変わらず美しかった。ロゼッタが差し出したのは、私のハンカチだ。どうやら落としたらしい。気づかなかった。
「触るな」
そう言いながらハンカチを奪い取り、胸元のポケットに仕舞い込んだ。ロゼッタは悲しそうな顔をしていたが、ふと何かに気づくように手を私の顔の近くに差し出してきた。
「ライアンお兄様。お顔が……」
「近づくな!話しかけるな。……私を兄と呼ぶな」
ロゼッタの手を叩き、身を一步引く。冷たく睨みつけるとロゼッタは身を強張らせた。一分一秒もこの場にいたくない。何か不用意な事を言ってしまいそうだ。もう会話を続ける意志が無いと表すように、身を翻しロゼッタの元から早足で離れた。
カツ、カツ、カツ…
廊下の先に自室が見えた。更に足取りが早くなる。早く一人になりたい。この叫びだしそうな気持ちを抑えられない。掻きむしるように胸を握った。
「誰も中に入れるな」
衛兵にそれだけ告げ、バタンと強く扉を締めた。乱暴にベッドに倒れ込み、拳を枕に沈ませる。
くそ、くそ!
心を酷く乱される。
先程会ったロゼッタの顔が脳裏に浮かんだ。
綺麗だった。
ーーーやめろ、思い出すな。
笑いかけてくれた。
ーーー感情を殺せ!
好きだ、愛おしい、抱きしめたい。
ーーー彼女は妹だ!
ロゼッタが拾ったハンカチを固く握りしめ、口元へ寄せる。フワリと薔薇の匂いが香る気がした。まるでロゼッタが隣で寝ているような気分になる。それは一瞬の幸福だった。これ以上何も求めてはいけない。行き場の無い感情は燻ったまま、抑え込むしかないのだ。
「私の婚約者はクレマチスだ。」
言い聞かせるように呟いた。この気持ちは捨てなければいけないのに感情のコントロールが出来ない。自分自身が気持ち悪くて吐き気がせり上がってきた。
辛い、やめたい。
息苦しくなりながら、窓の外を見ると丸い月が見えた。光に照らされて恋心まで影と一緒に浮かび上がってくるような強い月光だった。
今日はもう寝てしまおう……隠れるようにシーツへ包まった。
「あ、ライアンお兄様。お目覚めになられました?」
「……!?」
凛とした声が私の鼓膜を震わせた。薄く目を開くと、赤い髪が視界の端に映る。ロゼッタがベッドの隣に座っていた。濡れたタオルを私の額に当てている。
なぜここにロゼッタがいるのだろう。彼女を望みすぎて、夢を見ているのかもしれない。
「昨日、ハンカチをお渡ししたときに体調が悪そうだと思っていましたの。朝、心配でこちらに来たら大汗をかいて寝込んでましたのよ」
そんなことを流暢に話していたけれど、正直頭に入って来ない。ロゼッタの顔から目が離せない。
ロゼッタは心配そうにこちらを見た。さっと目が合わないように視線を背ける。燃えるような綺麗な赤い髪が顔に少しかかった。僕はそれをずっと撫でていたいと思うほどに好きだった。
「お医者様が来るまで、まだ寝てらしてください」
そう言いながらロゼッタは子守唄を歌い始めた。ロゼッタが言うには、これは昔実母から教わったもので、赤い髪の一族に伝わるものだそう。とても古いものらしい。柔らかい曲調のそれは、とても耳触りの良いものだった。
心地よいーー
ウトウトとし始めた頃、ノック音と共に扉が開いた。そこには息を切らしたクレマチスが立っていた。パン粥や果物をトレーで持っている。急病だと聞き、きっと急いで駆けつけてくれたのだろう。だけど私は、なぜ二人の時間を邪魔するんだ。と思ってしまった。
「ロゼッタ様、後は私が看病しますわ」
「クレマチス様、いらっしゃったのですね」
「ライアン様の婚約者は、私ですから。」
「仲が良いようで喜ばしいですわ!」
そんなやり取りをして、ロゼッタは側を離れていく。寂しいと思ってはいけない。名残惜しいと思ってはいけない。普通の男は妹より婚約者を優先するべきだ。それでも去っていく彼女を目で追いかけてしまう。僕の全身がロゼッタを欲していた。
そしてロゼッタが一礼をし、部屋を出ていく代わりに私の横にクレマチスが来た。水を一杯差し出してきたので、それを受け取り一気に飲み干した。
「……ありがとう」
「いえ、貴方を支える婚約者として当然のことですわ。パン粥は食べられます?」
「いやいい、少し寝るよ」
クレマチスが気遣ってくれたが、ロゼッタと久しぶりに穏やかな時間が過ごせたことで胸がいっぱいだった。まだ食べれそうに無かった。シーツへ潜り、再度横になる。
しかしクレマチスは、そんな私を見逃してくれなかった。
「まだあの子が好きなんですの?4年間、私と過ごした日々はなんだったのですか?」
少しヒステリック気味に、クレマチスは問い詰めてきた。
私の中に巣食うロゼッタへの気持ちをクレマチスが4年かけて解いてくれたはずだった。献身的に私を支えるクレマチスはまさに理想の女性と言っていいほどだ。交流を深めていく間に彼女となら良い王妃になれる、良い関係を築けると思い熱心な国王の薦めもあり婚約を受け入れた。
その矢先にロゼッタと再開してしまった。鳴りを潜めたはずの恋心はただ蓋をしただけで消え去ってなどいなかったと、その時自覚したのだった。
「……すまない」
その返答が気に入らなかったのか、畳み掛けるようにクレマチスは続ける。
「あの子は妹よ!血が繋がっているのだから、どうしたって結ばれるわけないわ!」
クレマチスには早い段階から悟られてしまっていた。それでも婚約を継続してくれているのだ。気持ちが悪いと離れていってしまっても可笑しくないのに。
分かってる。正解が何なのかを。正しい道はここだとクレマチスが導いてくれているのに。
私は結婚し、いずれ国王となり国を治める。その横にいるのはクレマチスが相応しい。子供を設け、次の世代に繋いでいかなければならない。
「わかってる、わかってるんだ。」
努めて優しく笑いながら言うと、クレマチスは泣き出した。その身体を抱き締めて唇にキスを落とす。細い身体は震えていて、折れそうなほどだった。クレマチスのことは素敵だと思う。素晴らしい王妃になってくれると思っている。
それでもなお、ここにいるのがロゼッタだったらと心の隅で浮かんでは消える。求めて止まない心は罪なのだろう。
僕の心は未だ、あの日の薔薇園を彷徨うだけなのだ。