春だから
とても爽やかで平和な朝だった。
どこかでスズメの雛が親にエサをねだっているんだろう。雄のウグイスは盛んに雌に求愛をしているように感じる。それら小鳥たちの調べが季節の風に乗って、わが部屋に流れてきていた。
目一杯に開けた窓から差し込む、眩しい陽射しと朝の便り。気持ちが和む柔らかな陽気である。
思わず得も言われぬ心地良さを感じて目を細めてみた。目覚めたばかりの体が、心が、頭の中までもが、ふんわりとした優しさに包まれていく……
「よし、今日は裸族で行こう」
われの気に頷くように、寝着の下で大胸筋がピクリと動いた。上着に手をかけ、ゆっくりボタンを外していく。投げ出したシルクのシャツが舞い、パンツがスルリと床に落ちた。
――真っ裸だ。
そしてわれは玄関のドアを開けると、静けさの残る街へと歩み出していった。
素足で踏み締めるアスファルトは冷たいが、臀部に当たる弱い風は割れた尻道に沿って中央の奥穴をくすぐり、気持ちがいい。にこやかに歩いていたら見知った顔を見つけて軽く会釈した。たしか四方山話が好きな近所の主婦と記憶している。なにか珍しいものでも見つけたのだろう。声をかけた主婦はカラスの足跡が無くなるほどに目を丸くして、あんぐりと口を開けた。
「開放的で、良いお天気ですな~」
そう声をかけた。が、どうゆうことか。主婦は逃げるように走り去ってしまった。むむ。まったく、最近は情緒というかなんというか、挨拶されたら挨拶で返す。そんな基本が出来てない人間が多すぎる。われは無意識のうちに鎖骨のカーブを錨に変えて、憤慨の仁王立ちをした。われながらグッとくるポーズ。そんな感慨を抱いていたわれの前に現れた次なる人間は、うら若い女子高生であった。登校の最中なのだろう、紺のブレザー姿の女子はわれを見つけると、銘あるブロンズ像のように固まってしまった。
ふむう、と対抗して全身を振りかぶり、円盤投げの如きポージングを決めてみる。女子に見えているであろう背腹筋の下、大臀筋に生まれる尻えくぼ。チャーミングだと自負してるのだが、どうだろうか。期待するは女子の「思いがけないモノを見てしまったけど、なんかドキドキしちゃう」という類いの反応だ。首をひねり、様子を見てみる。だが女子は顔を赤らめもせず、指のすき間から興味深そうにチラ見をしておった。
「けしからん。まったくけしからん! 可愛げのある女子は絶滅したというのか、それでは萌えないではないか! そんな反応でこれから長い人生、どうやって男を手玉に取るつもりなのだ!」
われは叫んだ。しかし怒りは長く続かなかった。通りの向こうから主婦と共に、一人の警察官が走ってきたからだ。
なるほど。この晴天の下で行う朝のジョギングのようだ。流行ってるのだろうか。なかなか風流なものである。われの鍛え上げている胸に新たな刺激が舞い降りた。乗り遅れてはいかん。豊かな口髭の両端を持ち上げ、同じくジョギングを開始することにしよう。
ビタッ、ビタッ、ビタッ、と、内股に響く規則正しい律動が、四肢に躍動感を与えてくる。わが締まった肉体は雅に染め上がり、リズミカルに大通りへと飛び出していく。
動き出したばかりの街は、まだ人も少ない。そこに一陣の旋風と化したわれは襲いかかった。
そばを通り抜かれたサラリーマンは身を反り返り、ある幼稚園児は手を叩き、ある老夫婦はそのまま、息を引き取るかのように魂を奪われていく。それら街人の様子を見ていると、つくづく思うのだ。芸術の域にまで達した自分自身の肉体を。そう、そうなのだ。興奮を覚え始めずにはいられようかと。
「おお、神よ。なにゆえ貴方は、われにかくも美しい肉体を与えたもうたか」
《ピピィー!》
陶酔するわれの後ろで、呼び子が鳴り響いた。
「おお神よ。われは美しい」
われは華麗にダッシュを始めた。その後ろには先ほどの警察官が、警棒を片手に迫っていた。
「おおぉ、轟くほどの、このリズムゥー」
弾む、弾む、跳ねるようにわれは飛び跳ね、走っていく。
「震えるぞぉ、このビィートォーー」
駆ける、駆ける、地を駆る獣のように、われは駆け抜け、走っていく。
「流れ星が如きぃ、この肉体ぃぃーーー!』」
恍惚の表情を撒き散らかしたわれは、超人と化した速さでついてきていた警官らを置き去りにしていった――
「ふふ、ふふふふ…… うふわははは!!」
辿り着いた公園で、思わず明るく楽しい笑いがこみ上げてきた。
「ねえねえ、おじさん。おじさんはどうして裸なの?」
無邪気に問い掛けてきたのは、母親に手を引っ張られている子供だった。ふむ、裸族の在り様を知りたいとは。なんて将来の見込みがある少年だろう。われは腰骨に手をやりながら、浮かれ気分のままに口を開こうとした。が、それより先に開いたのは、隣りにいる煙たい顔をした母親だった。
「春だからよ。さ、行きましょ、祐ちゃん」
「うふわはははははーー」
誰もいなくなった公園に、われの底抜けた笑い声が木霊する。それは春風に乗っても負けることなく、しつこく、ねちっこく、続いていた。
2007年、テーマ企画【春】に参加した作品です。
再投稿にあたり、三人称から一人称へと変更しました。