9 誰にも話したことはない
「分からない」
「分からないの?」
「うん。多分……お母さんのために」
「お母さん……って、柚希ちゃんの?」
「うん」
ふう、と私はため息をつく。
今まで誰にも話したことのない内容だ。けれど、このカフェのざわめきの中、彼には話してもいい気がした。それはジェイクが特別だからではない。むしろ逆で、彼が自分の人生に今まで関わっていないからだ。
とはいえ、すぐには言葉が出てこず、私は一旦口をつぐんだ。
すると、私の顔を眺めていたジェイクが椅子から立ち上がる。
「外、散歩しようか? 大輔さん、このあたりを歩くの好きだったから、案内するよ――その方がきっと話しやすいと思うし」
◇◇◇
ジェイクが連れてきてくれたのは、よく整備された公園だった。二人でゆっくりと歩きながら、私はぽつりぽつりと語り始める。
「私の両親は留学中に出会って、結婚して、シアトルで暮らしていたんだけど……、私が生まれてからしばらくして、うまくいかなくなったって聞いてる」
「うん」
「離婚して、お母さんが私を連れて日本に戻って――お父さんには会っていない。お父さんのことを話すのをお母さんが嫌がるから、会いたいって言い出せなかった」
「嫌がるの? 何か言われたりするの?」
「ううん。でも気配で感じるの」
そう言うと、ああ、とジェイクがため息をつく。
「わかる。そういうの」
「……ジェイク君も、感じたことある?」
「あるよ。うちの両親はないけど、他の人でね。そういう見えない力をつかって、場を支配する人がいるだろう?」
場を支配する。
そうか、私の母親は、私を支配していたのか。
今までそんなことを考えたことはなかったけれど、どうしてか納得がいく自分がいた。
(そうだったのかも。私……お母さんの顔色ばかり伺いすぎていたかもしれない)
それから、父が亡くなったという連絡をもらってから、私がアメリカに来ることを母が渋っていた話をした。
「それくらい、私とお父さんが接点を持つのをお母さんは嫌がってて……。私、今までお父さんとメールでしかやり取りしていないの。それも住所変更とか、事務的な内容だけで」
「うん」
「でも、本当は――お父さんはどんな人なんだろうってずっと思っていた」
「そりゃそうだよね。自分の親だもん」
ジェイクがそこで木陰にあるベンチを指さして、二人で並んで座ることにした。空を見上げれば、その空は、日本で見上げるのと何一つ変わらなかった。
ふう、と私は息を吐く。
「お父さん、この街で生きていたんだなあ」
「うん」
「……勇気を出して、会いにきたらよかったな……」
それは、もうどうにもならない、変えられない過去で。
私にとっての後悔だ。
「来たじゃないか」
ぱっとジェイクを見ると、彼は真剣な眼差しだった。
「君は大輔さんのために、お母さんの反対を押し切って、ちゃんと来た。だから今ここにいるじゃないか。大輔さん、喜んでるよ」
「……そうかな……? 生きているときに、来るべきだったんじゃないかな……」
「そんなことないさ。うちの親父曰く、一生懸命生きていれば、なんでも最後は辻褄が合うってさ」
「最後は辻褄が合う……?」
「うん。とにかく君は今大輔さんのために、ここにいる。だから、それでいいんだ。いつか帳尻が合うさ」
彼にそう言われると、なんだか本当にそんな気になるから不思議だ。そして、自分の背負っている荷物を、今まさにジェイクがひょいっと持ってくれたような気がする。
こんな感覚は馴染みがない。
考えてみると、母のために家事を覚え、母の愚痴を聞くようになってから、私は誰かに甘えるようなことをしてこなかった。それは母だけでなく、恋人だった純大にもだ。純大の前でも自分の心の弱さをみせずに、取り繕っていた気がする。
(……もしかして、純大はそれを感じてたかな……?)
「私、恋愛下手で」
「恋愛が?」
突然話を変えた私に、びっくりしたようにジェイクが繰り返す。
「あ、ごめん……。センシティブな話題だから、やめておいたほうがいい?」
「いや、俺が今まで人と付き合ったことがないから、恋愛の話を聞いてもちゃんとアドバイスできるかは分からないだけで」
今度は私が驚く番だった。
「付き合ったこと、ないんだ? もてそうなのに――私も今付き合っていた人が、初めてだけど」
「まぁ俺の場合は、やっぱりアメリカ人とも日本人ともいえないから、なかなか難しくてね。どっちも理解してくれる人じゃないと、心を開けなくて」
「そっか」
「でも、君にはなんだか……最初から話しやすいな、そういえば」
(え……?)
だがそこで、ジェイクが咳払いをする。
「それはともかく君が話したいなら、してくれて構わないよ」
彼が軌道修正してくれたので、私は純大が浮気していた話をかいつまんで話した。聞いているうちにジェイクの眉間に皺が寄っていく。
「なんだそれ、最悪すぎる。そんなクズ男、別れて大正解じゃないか」
私のために怒ってくれている。その優しさが、しみた。
「そう言ってくれて、ありがとう。客観的にみても、彼がしたことは最低だと思ってるけど……でもね、多分、私、甘え方がよく分からないんだ。お父さんがいなくて、お母さんには頼れなくて、なんか頑張りすぎてた気がする」
純大と付き合っていた全てが、嘘にまみれていたとは思わない。けれど、私が彼を心の外へ締め出していたのも確かで、彼も感じていたのかもしれない。そのせいで、いつからかどこかで歪ができ、うまくいかなくなってしまったのだ。
「ああ、そういうことか」
ジェイクは腑に落ちたように頷く。
それからちょっとだけ口角をあげて、自分の胸をどーんと拳で叩いた。
「甘えたいときはどうぞ、ジェイクの胸、あいてますよ」
数年前に流行ったとあるギャグのように言われて、私は思わず笑い声をあげた。私が笑うと、ジェイクも笑顔になる。
ひとしきり笑った私は、今までずっと抱えてきたある秘密を、彼に打ち明けた。
「多分お母さん、浮気をしてたんだと思う」
今度こそジェイクがぽかんとして私を見た。
「浮気……?」
「うん、たぶん。それが両親が別れた理由だと思ってる」
「どうして、そう思うの?」
母の長年の恋人である彼がシアトル大学に留学していたとは聞いたことがないし、住んだこともないはずだ。けれど農具の会社で営業職として働いていた彼が時折アメリカに出張していたとは聞いたことがある。また、二人がいつ出会ったのかはなんとなく濁されている。
もしかしたら、シアトルで出会い、不倫の関係に陥ったのではないか。
これらはただの推測で、聞いてほしくないという空気を察して、母に直接尋ねたことはなかった。
「そういう、ことか……」
ジェイクが唸るように呟く。
「だからお母さん、お父さんに連絡してほしくなかったんじゃないかな。お父さんが、私に離婚理由を喋ると思って」
「なるほど」
「別に理由がそうだったとしても、私はお母さんの元から去ったりしなかったのに」
母がもし、とっかえひっかえ男性を変えていたら、話は違っただろう。でも、母たちはずっと仲睦まじかったし、私のために再婚を控えていただけで、本音はすぐにでもしたかっただろう。それだけ真剣な恋だったのだ。
「きっとジェイク君からしたら不思議かもしれないけど……、私、お母さんのこと、好きなんだよね」
「そりゃそうだよ。子供が親を好きなのは、自然だよ」
彼があっさり認めてくれて、私はなんだかそれに励まされた。
「複雑だけど、やっぱり好きなんだよなあ。それはお父さんにも同じで……だから、お父さんについても知りたくなったのかもしれない」
「うん」
「お父さんについて少しだけ知ることが出来て……ここに来て、よかった」
ジェイクが慰めるように、ぽんと私の背中に手を置いてくれる。
ようやく決心がついた。
(お父さんの日記を読んでみよう)