8 アレクサンドリアのカフェで
翌日は、玲香さんと共に父のアパートの片付けを進めた。父が準備をしてくれていたから、ほとんど手間がかからなかった。捨てるものはなく、家具などもリサイクルショップや、ドネーションで成り立っている店への手配すればよく、それも玲香さんが手伝ってくれたから滞りなく終えることが出来た。
あとは父の命の終わりの、手続きが残された。
死亡届の提出や、銀行口座を閉じたり、生命保険やアパートの解約手続きまで。
ある程度時間がかかるかなと覚悟していたが、玲香さんがピーターさんに確認してくれたところ、なんと父はそれもあらかた始末しておいて、ピーターさんに言付けておいてくれたそうだ。本人が生きているうちに弁護士を雇い手続きをしておいてくれれば、そこまで面倒にならないという。
どうやら来週には、私は日本に戻っても問題がなさそうだ。人が死ぬということは、もっと煩雑なことがたくさん起こるだろうと思っていた。
けれど。
(ああ……この引き際をみるだけでも、お父さんがどういう人だったのか、伝わってくるな)
ちょっとずつ、少しずつ。
父の輪郭が朧げに見えてくる。
そして夕方になると、ピーターさんがジェイクと共に帰ってきた。
「アレクサンドリアをまわるんだって?」
ピーターさんの隣で、ジェイクがにこにこ笑う。
ベイカー家の三人は笑顔がよく似ている。どうして父が、ベイカー家と懇意にしていたかがうかがえるというものだ。
「そうなんです。ちょっと、気になって……」
「ああ、そうだ、俺に敬語はいらないよ。年齢そんなに変わらないでしょ?」
ほぼ初対面ではあるが、ここまでフランクに言われると、それでいい気がした。
「……うん、わかった」
「それで、大輔さんの撮った写真の場所を回りたいんだよね?」
「うん」
私はアルバムを持ってきて、一枚の写真をジェイクに示した。父の写真はほとんどが風景で、あくまでも人物は背景にすぎない。けれどピーターさんのように、意図的に人が映り込んでいる写真があった。後ろ姿で、おそらく現地の男性だ。ただの勘だが、ピーターさんと同じくきっと「友人」なのではないか、という気がする。
その人に会いたいわけではない。ただ、父が「友人」と過ごした場所に行きたいだけ。
「うんうん、ここなら分かるよ」
ジェイクがうけあってくれ、私はほっとしてお礼を言った。
◇◇◇
翌日は、快晴だった。
玲香さんにいってらっしゃいと見送られて、家を後にする。
「俺の車、ボロくてごめんね」
「いえ……、こちらこそ面倒なことを頼んでごめん」
ジェイクの車は、フォードの黒いセダンだった。隅々まで綺麗にされているけれど、確かに内装は最新式ではない。
「ぜんぜん面倒なんかじゃないよ。それで、柚希ちゃんは日本で大学生なんだよね? なんの勉強してるの?」
「経済学部だよ。ジェイク君は?」
「俺はメジャーがデータサイエンスでマイナーがエンジニア」
「メジャーとマイナー?」
「確か日本とは大学のシステムが違うんだよね〜。アメリカの大学はさ――……」
ジェイクとの会話は、玲香さんやピーターさんと違って、同年代ならではの気楽さがあった。それにさすがあの二人の息子というべきか、ジェイクの振ってくる話題はどことなく品が感じられる。私が答えに窮するような個人的な質問は、さりげなく避けてくれているのだ。
アレクサンドリアの街の中心部にあるパーキングに車を停めて、二人で街を歩く。ここ数日は車で通り過ぎるばかりだったが、歩くと街の素晴らしさがよく分かった。
レンガの町並みと、街路樹の色の対比も美しい。
ジェイクがつと足を止める。
「このカフェじゃないかな」
「ほんとだ、ここだ……!」
写真そのままのカフェがそこにあった。大きなガラス張りの窓からみえるのは、ナチュラルな内装で。床や壁は木材で、観葉植物が置かれている。窓から自然光が入っているため、明るい。中にはたくさんの人が思い思いの時間を楽しんでいるのが見えた。
「素敵なカフェね……!」
「大輔さん、ここのエスプレッソが好きだったよ」
「そうなんだ」
「飲んでみる?」
「うん」
ジェイクの後について、カフェの中に足を踏み入れた。日本の喫茶店やカフェでたまにあるような、音楽は何もかかっておらず、ただただ人々の話し声と食器の音だけが響いている。
ジェイクが、父が好きだったというエスプレッソを頼んでくれた。小さなカップに入ったそれを、口に含む。
「濃いな……!」
エスプレッソだけあって苦みが強く、思わず顔をしかめた。
「あはは。ミルクもらってこようか?」
自分はカフェラテだというジェイクが笑う。
「お父さんはでもミルクいれてなかったんだよね? じゃあ、このまま飲む」
ぐっと流し込む。焦げたような、苦みのあるエスプレッソが喉を通っていく。飲み終えて、ふは、と息をつく。
「日本のコーヒーのほうが美味しいでしょ?」
「そうかな?」
「うん、日本に行った時、俺はそう思ったな――ほら、俺って、日本人に見えない? 味覚も日本人好みみたい」
(え)
申し訳ないが、私の感覚では、ジェイクは日本人には見えなかった。じゃあ何人と言われても答えに窮するけれど、明らかに西洋人の血が混じっているな、と思わせる。
「ごめんけど、外見だけだと、まるきり日本人みたい!とはいえないな。でも話していると、アメリカ人だっていうのを忘れたのは本当。ピーターさんもね」
正直に告げると、彼はきょとんと目を丸くしてから、ふわっと笑った。
「はは、素直な感想をありがとう」
「いや本当に。ピーターさんなんて、日本の諺とか言うんだもん、もう日本人そのものだよ。昨日、ジェットラグって英単語だけ急にめちゃくちゃ発音がよくて驚いたくらい。英語が上手なのは当たり前なのにね」
「なにそれ……、おもしろ」
ひとしきりジェイクは笑った。
それから、ふうと息をついてから、ありがとう、と呟いた。
「昔からさ、家では日本語を使うから、英語はあまり上手じゃないし、見た目も完全なアメリカ人じゃないしさ……、なんか中途半端な扱いされて、自分が何人なのかよく分からないから、そう言ってもらえると嬉しいな」
(自分が、何人かよくわからない、か……)
アメリカのような多民族の国で育ってもなお、自分が何人が分からない、という感覚になるのか。きっとそこには目に見えない、生まれ育った人にしか分からない何かがあるのだろう。
「大輔さんもね、俺や親父がアメリカ人とは思えないなって言ってたんだ」
「……お父さんも?」
「うん。うちの親父なんて、例えで論語とか出してくるからさ、自分よりもっと日本人だってさ。……柚希ちゃんと似たようなこと言ってた。やっぱり親子なんだね」
「そっか。……ねえ、ジェイク君から見たうちのお父さんってどんな人だった?」
私が尋ねると、彼は瞬く。
「すごく自然体な人だったよ」
「自然体……」
「いろいろな運命を全て受け入れて生きているような人だった。辛いことも、良いことも、全部一緒くたにしてた。それでいて、いつだってゆったりと構えてたな」
「ふうん」
「聞いてよければ、大輔さんとはどうしてここまで行き来がなかったの?」
今度は私が瞬く番だった。