5 見つけたのは
父のアパートは、リビングルームにベッドルーム、それから小さめのキッチンとバストイレがついているごく普通の間取りだった。
「大輔さんはいつも綺麗にしていらしたし、片付けはそんなに大変ではないと思うの。でも、やはり赤の他人の私が触るのは心苦しくて」
確かにリビングには、テレビとソファ、ローテーブル、スタンドライトがあるくらいで、ほぼ物がない状態だった。リビングは片付けるのはほとんど手間がかからないだろう。
「お気遣いくださってありがとうございます」
「キッチンの片付けは私がしてもいい?」
「はい、お願いできますと、嬉しいです」
「任せといて」
ベッドルームに入ると、最初に感じた香りが途端に色濃くなって、私は息を止める。例えるならば、ムスクのような、いかにも男性らしい香り。
(お父さん、の香りだわ)
人間の五感とは、不思議なものだ。
今まで思い出すことすらなかったのに。家に足を踏み入れた途端、私の脳は「これは父の香りだ」と認識した。
『柚希ちゃん、おいで』
父に抱き上げられたとき、確かに私は彼の体温と共に、この香りを感じていた。
(そう、いつもお父さんは……、私をちゃんと抱きしめてくれていたわ)
あぐらをかいた父の膝の上に座るのが、私のお気に入りだった。父の面影はもちろん、彼と交わした会話は覚えていない。けれど、父の手の感触や、膝の上の心地よさは、記憶の奥底に眠っていたようだ。
(どうして忘れていたんだろ。私、そうやって抱っこされるのが、好きだったのに)
いつか、新聞記事で読んだことがある。
乳幼児の時期に、異性の親にスキンシップをされた子どもは、自己肯定感が高く育つと。その時思ったものだ。父が存在しない場合はどうしたらいいのだ、と。
母の育て方が悪いといっているつもりではない。母は私を大事に、一生懸命育ててくれた。けれど、彼女には恋人がいたし、私が「一番」ではなかった。それに何より仕事で忙しくて、家を空けることも多かった。だからいつしか私は母が少しでも楽になるように、とそればかりを考えるようになったのだ。そうして中学生にもなると、私は家事を自ら率先してするようになる。そして仕事から疲れて帰ってきた母に食事を出し、彼女の愚痴を聞く側に回った。母と娘の境界線は、いつしか曖昧になっていった。
だから私にとって、その新聞記事は「どうにもできないこと」だったのである。
(ああ、でも、私、ちゃんと抱きしめられてたんだな……そっか、それだけでも知れてよかった)
ふう、と息を吐いて視線を上げる。
ベッドルームは、いかにも一人暮らしといったような、ベッドにテーブル、それから奥につくりつけのクローゼットがある。テーブルの横には本棚があり、きっと重要な書類があるとしたらこのあたりだろう。玲香さんが言った通り、父は身奇麗に暮らしていたらしく、ベッドメイキングはちゃんとされていたし、ちらっとのぞいたクローゼットの中も整理整頓されていた。
テーブルと本棚に近寄る。
本棚を見ると、日本語と英語の本の背表紙に混じって、ファイルが置かれていた。それを取り出すと、びっしりと手紙がファイリングされていた。
(……バンク、チェッキングアカウント……、うーん、これ、預金かな? ドルが書かれているから、きっとそうだな)
日本だったら、口座を凍結すると聞く。アメリカも同じだろうか。
玲香さんに聞かなくては。
ぱらぱらとファイルをめくったがどうやらこれは銀行口座の記録らしく、遺言のようなものは一切なかった。
(このファイルは、必要そう……ん? なんだろう、これ……本でも、ファイルでもない……)
誘われるように手を伸ばし、それを出してみると――父の日記だった。
「――っ」
ぱらっと開いてみると、ペンで書かれた日本語が飛び込んでくる。父はどうやらかなり達筆だったらしく、見事な筆致だったが、父の筆跡には見覚えがない。
『体がもうあまり動かない。私の人生、残りが見えてきたようだ。もう日本には戻れまい。このままアメリカに骨を埋める覚悟が必要だ。立つ鳥跡を濁さず。財産なんてものはほとんどないが、終活をしなくてはならない』
たまたま開いたページの一節に、どくっと心臓が高鳴り、私の呼吸が浅くなる。
『自分の死んだ後について、柚希に連絡しようか悩む。だが今更連絡したところで、迷惑がられるだけだろうか』
「――っ」
私の名前が出てきた瞬間、ぱたんとノートを閉じた。ばくばく、と心臓が鳴り続ける。
(なんで、どうした、私……っ?)
どうしてか、続きを読むのが怖かった。
落ちつけようと深呼吸をしてから、再び本棚に視線を戻すと、同じようなノートが何冊かあることに気づく。
(これ、もしかして……全部、お父さんの日記……?)
どうやら筆まめな人だったらしい。
動揺が落ち着いた頃、息を整えてから、一冊ずつノートを引っ張り出す。日記を机に積み上げると、七冊あった。几帳面な父らしく、ノートの表紙に「年」が記されていて――始まりは、両親が離婚した年だった。
ぐっと、私は唇を噛みしめる。
きっとここには、離婚当時の生々しい感情が綴られているだろう。
(せっかくここまで来たのだから、知りたい……でも今すぐは読めなさそう)
どうやら私には、まだ勇気がない。
(持って帰って、後で読もうかな。もう少しだけ、気持ちが落ち着いたら)
私はファイルの上に離婚した年と次の年のノート、それから一番最近のノートをのせると、玲香さんがいるキッチンへと戻った。
「どうだった?」
「遺言は見つかりませんでした」
「そっか……。大輔さん、弁護士を雇ってたって聞いたことなかったから、家にあるかなと思ったんだけど。あとでピーターが何か聞いてないか、確認してみるね」
「ありがとうございます。それからこのファイルを、見ていただいてもいいですか?」
「うん、もちろん」
パントリーの中の食料品を改めていた玲香さんに、ファイルの中の書類を示す。
「これ、父の銀行口座でしょうか?」
「あ、うん、そうだと思うな。うーん、そっか、遺産とかどうするんだろ。死亡届を出す前がいいのかな、やっぱり」
「死亡届……」
そうだ。死亡届について、今から調べなくてはならない。
どうしたらいいだろう、と思ったと同時に、玲香さんがおずおずと口を開く。
「もしよかったらだけど、ピーターにこういった事例に精通した弁護士を探してもらおうか? 日本語ができたら一番いいけどそれはちょっと難しいかもしれない。でも、ピーターが通訳してくれると思うから」
瞬いた私は、すぐに頷く。
「お願いできますと助かります……! 私では、まったく分からないから」
「わかった。とりあえず今、テキストしておくね。依頼する前に、いくらかかるかも聞くね。法外な値段を請求されたりはしないと思うけど」
「ありがとうございます!」
なんていい人なんだろう。
「私は何もしないわ。ただピーターを顎で使って、働かせるだけ」
そこで玲香さんが笑う。
「それで、このファイルとかノートって持ち出していいでしょうか?」
「うん、大丈夫と思うよ――日記か何か?」
「はい、そうみたいです。ちょっと今すぐには確認できそうになくて……、心の準備がいる、みたいです」
そういえば、玲香さんは理解したとばかりに何度か頷いた。
「わかる。そういうものだよね。無理はしちゃだめよ」
(……わかる?)
玲香さんに視線を送ると、彼女は優しげな表情を浮かべていた。
「私、恋人を亡くしているから。亡くなった人の物を改めるのって、パワーがいるってわかるよ」
さらっと説明されて、私は息を呑む。
「そうだった、んですか」
「うん、そう。全然昔の話よ――アメリカに来る前の」
彼女はにこっと笑った。
そうやって笑うと、彼女に以前辛いことがあったなんて、到底思えない。
「もしよかったらまた聞いて。でも今は、とりあえず片付けよっか」




