3 物言わぬ父との再会
病院はとてつもなく大きくて、現代的な建物だった。
玲香さんとジェイクに連れられて向かったのは、とあるカウンターだった。内部はあまりにも複雑に入り組んでいて、自分でもう一度玄関から来い、と言われてもきっと迷ってしまうだろう。
「わお、大輔の娘さんなのね! はるばる日本からやってきたなんて」
ふくよかな黒人の看護師さんは、だいすけー、と、最後を伸ばして発音したが、父のことを知っているかのように話した。英語は得意科目だったが、しかし流石にこれくらいの理解がギリギリで、それからは玲香さんやジェイクが通訳をしてくれたから助かった。
言われるがままに父に「面会」する書類にサインをする。保管期限は今日までになっている。エンバーミング処理をしているが、保険の適用期間が一週間だったらしい。
(そうだ、エンバーミングを頼んだんだ……そうじゃないと、保管できないって言われて)
玲香さんにメールで尋ねられ、必要ならお願いしますと答えたのを思い出す。日本ではあまり馴染みがないが、アメリカではわりと一般的なのだという。費用は千ドルほどだった。母は値段が高いと渋ったが、私がお願いしたのだ。たった一目で良い、父に会いたかったから。
「こっちだって、柚希ちゃん」
言われるがままにエレベータに乗って、地下に向かう。到着したのは地下三階。
「ここからは私たちは入れないみたい。柚希ちゃん、一人で行ける?」
「はい。ありがとうございます」
看護師さんと共にひやりとした霊安室へと足を踏み入れた。まるで冷蔵庫のようだ。
「大輔は、ここね」
がらがらっと引き出されたステンレスのベッドの上に、眠るように横たわっているのは――たしかに、私の父だった。水色の手術着のようなものを着ている。
顔に視線を落とす。
少し鼻は丸いけれど――でも、鼻梁は高い。目は固くつぶられているが、しっかりとした眉毛に、厚みのある唇、短く切られた髪の毛は灰色で――間違いなく父はハンサムだっただろう。ほっそりとした体つきは、病人だったからか。
(あ……)
ぶわっと、父との思い出が蘇る。
おかしなものだ、今まであんなに朧げだった記憶に、どんどん色がついていく感覚を味わう。
公園で、肩車をしてもらった。
絵本を読んでくれた。
父に頭を撫でられた。
母と父が諍いをしていて、私が見ていることに気付いた父が、笑顔になって私を抱き上げに来てくれたこと。それから『柚希の幸せを願ってる』と呟いた父が――。
「もしよかったら、顔を触ってもいいのよ」
「え……?」
看護師を見ると、彼女の瞳は柔らかい光を漂わせていた。
「防腐処理をしているから、感染の可能性もないし、もし触りたかったら、どうぞ」
(ノー、インフェクション、ポシビリティ……、イフ、ユー、タッチ、ウォント、ファイン……)
聞き取れた単語たちから彼女の言いたいことを推測し、私は尋ねる。
「手、でも?」
handsと聞いた看護師さんが、もちろんとばかりに父の手を指し示す。よろっと一歩前に出た私は、そっと父の右手に自分のそれを重ねた。
冷たいその手は――記憶に残るよりもずっと小さくて、萎びていた。
◇◇◇
死亡届提出するための様々な書類にサインをし、必要な支払いを済ませて病院を出たときには、すっかり夕暮れが迫っていた。
父の遺体は、火葬されることとなった。
遺灰となって戻ってくることになり、エンバーミングを施したのが無駄になるため驚かれたらしい。けれど日本から娘がいつ来られるか分からないため、待つための処置だったと納得してもらったとか。
物言わぬ父との再会を経て、私の胸には絡みあった糸屑のような思いが渦巻いていた。
それは自分でもどう解いたらいいのか分からないような、複雑な思いだった。
黙り込んだ私に、玲香さんが彼女たちの家に連れて行ってくれると言う。
「ホテルで、構いませんけれど」
もとよりホテル滞在になるだろうと思っていたし、クレジットカードだってある。アメリカでかかった諸経費は、母も払ってくれるだろうし、私もバイトして稼ぐつもりだ。
「うん、必要なら明日ホテルに連れて行ってあげる。でも今日はうちにしよう――疲れたでしょう、少し休んで。着いたら、起こしてあげる」
「……、ありがとう、ございます」
「ふふ。いいのよ。大輔さんならきっとそうしたと思うから」
大輔さん。
父。
冷蔵庫のような、無機質な部屋で横たわっていたあの人。
私は素直に、目を閉じた。
◇◇◇
玲香さんの家は、とても綺麗だった。
隣に同じような造りの家がたくさん並んでいて、タウンハウスと呼ばれるらしい。一戸建てよりは狭いらしいが、それでも十分広くて、何しろ天井が高い。
玲香さんが車に内蔵されている小さなボタンを押すと、目の前のガレージのドアがゆっくり上がる。ガレージ内に車を駐車しながら、彼女が説明してくれる。
「普段ジェイクはDCにある大学寮にいるから、ここには夫婦だけなの。もうすぐ夫が帰ってくると思うから、紹介するわね。ジェイクは、今日はどうする?」
「俺も泊まる」
「そ? まぁもうすぐ夜だしねえ。じゃ、荷物を下ろすのを手伝ってあげて。柚希ちゃん、ご飯食べられそう?」
「あ、ありがとうございます。少しなら」
「わかった。今日はハンバーグなんだけど、無理はしないで」
「やった、ハンバーグ!」
ジェイクが嬉しそうに声をあげ、玲香さんが苦笑した。
「いつまでもハンバーグが好きよねえ。もう二十歳でしょ」
「母さんの作るハンバーグは特別だからしょうがない」
「ふふ、ありがとう。じゃ、ゲストルームに柚希ちゃんのスーツケースを運んであげてね。柚希ちゃんは、私と一緒においで。温かいお茶を淹れるわ」
玲香さんが、テキパキといろいろなことを決めてくれる。ガレージにあるドアを開けるとそこはもう家の中だった。
「ソファに座ってて。自分の家だと思って、のんびりしていてね」
言われるがままに、暖色系のカバーがかかったソファに腰かける。部屋の中は観葉植物が飾られ、ナチュラルな印象を与えるとても居心地の良い雰囲気だった。
腰を落ち着けると、どっと疲れを感じた。
(……ここに呼んでもらえて、よかったかも……)
ホテルだったらベッドに横たわったきり、何一つまともにすることができなかったかもしれない。きっと玲香さんはそれを見越して、家に誘ってくれたのだろう。
(いい人だな……、お父さん、いい人と、友人付き合いしてたんだな)
座り心地の良いソファに身を埋め、ぼんやりとそんなことを考える。
(私みたいに、裏切られるような人生じゃなかったんだ……)
そこで純大の浮気を思い出し、胸が痛み始めた私は目を強く瞑った。
(私なんて……、彼氏にあんなこと言われて……、知らない女性を……目の前で……庇われて……)
そこまで考えて、ふっと意識が途絶えた。
しばらくして、ふわりと柑橘系の香水の香りがして、私は目を開けた。
そこには真面目な表情を浮かべたジェイクが立っていて、瞬く。
「大丈夫?」
「……、大丈夫、です……? あれ、私、寝てた……?」
いつの間にかブランケットがかけられていた。
「うん。一時間ばかりね」
「すみませんっ……!」
ぱっと視線を動かすと、辺りには美味しそうな夕食の匂いが漂い、またどうやら玲香さんの夫が帰宅したらしく、男性の声が響いている。窓の外には夜の帳が降りていた。
「しょうがないよ、今日来たばかりでしょ。時差ボケって大変だよね。それで、ご飯、食べられそう?」
「はい、もちろん……っ」
慌てて立ち上がろうとすると、彼が制した。
「急に動くとよくないよ。ゆっくりでいいから」
「――はい」
この家の人たちは、誰も急がせないな、と私は思った。