1 散々な日
アメリカ東海岸で父が亡くなったという一報が入ってきたのは、私、中川 柚希の彼氏の浮気が発覚した日だった。
☆☆☆
閉じられた扉の向こうで、男女の睦み合う声が響き渡っていた。粘度の高い女性の嬌声、興奮した男の声――こちらは聞き覚えがある。私の彼氏の、佐藤 純大で、このアパートの住人でもある。
今日は来る予定ではなかったのだが、思い立ってやってきたら、まさかの事態に直面してしまった。
(うそよね、うそ……よね……?)
一瞬後退りをして、アパートを出てしまえば、全てをなかったことにできるかもしれないなどという考えが脳裏をよぎる。玄関に行儀よく並べられたハイヒールだって、見ないふりをしたらいい。
だが。
意に反して私の手は、目の前の扉のドアノブを回していた。
そして、待っていたのは修羅場。
「だれよ、これ!」
「元カノだよ元カノ、なんだよストーカーかよ」
つい昨日まで親しくやり取りをしていたのに、いつ元カノになったのだろう。
阿鼻叫喚の図を、私はまるでテレビの恋愛ドラマを見ているかのようにぼんやりとしながら眺めていた。表情ひとつ変えずに佇んでいる私を彼――どうやら元彼らしいが――が女性をかばうように立ちあがり、その姿に私の心が悲鳴をあげる。
「なんだよ、何か言えよ! ……んで、笑ってんだよ!?」
裸の下半身に慌ててタオルだけを巻き付けながら彼がやけくそのように叫ぶ。
傍から見たら、三文芝居のようで、笑えるような状況ではある。
けれど。
(笑って……?)
自覚はなかった。
むしろ、泣いてもおかしくないくらい、胸が痛いのに。
「なんだよ、余裕みせやがって……!! どうせ俺のことなんて本気で好きじゃなかったんだろ!?」
続けられた言葉に、ズタズタに心が切り裂かれるような意味を感じる。
「信じられない。最低ね、純大」
私の口からでたのは、たったそれだけだった。
心の中は切り裂かれるばかりに傷んでいるのに、私が言えたのはたったそれだけ。
だが、純大をひるませるのには十分だったらしい。私は紅潮した彼の顔を見つめながら、呟く。
「嘘つきとは、もう二度と会いたくない。さようなら」
手にしていた鍵を、叩きつけるように彼に投げる。
床に落ちたそれが無機質な音を立てた。
「お、おいっ……」
そのまま踵を返すと、ためらうような彼の声が背中にかけられたが、振り向くものか。
いつの間にか、床に取り落としていたカバンを拾い上げると、今度こそ部屋を去った。
◇◇◇
自宅に戻ってすぐ、純大の連絡先全てをブロックし、それから自分のSNSアカウントをかたっぱしらから削除した。
(全部、消す)
純大はSNSを頻繁に更新する。
もう、彼に関するものは何も目にしたくなかった。
そもそも純大は、同じ大学に通っているから共通の知り合いも多い。きっとすぐに私達が別れたことは噂になり、慰めや心配、それから興味津々の視線を向けられることになるだろう。せめてSNSのアカウントを削除してしまえば、興味本位のDMが飛んでくることはない。
それから家にあった彼の私物を片付けた。
大学一年時から一年半付き合ったこともあり、それなりの数が残っている。
送り返してやろうかと思ったが、「元カノ」で「ストーカー」の私からの荷物は受け取りたくないかもしれない。
ぐっと口元を噛み締めながら、荷物を大きなボストンバックにつめこむ。最後に、半年前の誕生日にもらったシンプルな指輪を手から取ると、ボストンバックの中に投げ捨てた。
『誕生日おめでとう、ずっと一緒にいられるように』
あの日、純大は、レストランに予約をしてくれて、はにかみながら、この指輪をプレゼントしてくれたのだ。私はとても嬉しかったし、大事にされていると感じていたのに。
もともと彼から告白されて付き合い始めた。
いつから浮気をしていたのだろう。
あの、誕生日のときには、もう?
全ての思い出が、みるみるうちに色褪せていく。じわり、と涙の膜が張りそうになり、私は唇を噛みしめる。
(泣くな、私……っ!)
泣いたら惨めになるだけだ。
そこでポケットの中で携帯が震えて引っ張り出す。画面に表示されている相手先をみて、息を呑む。それはアメリカからの国際電話だった。
アメリカからかけてくるとなったら、思い当たるのは父しかない。
実は、私はアメリカのシアトル生まれだ。両親ともにシアトル大学に留学していたときに出会い、現地で私が生まれたからだ。
(でも、なんで……?)
両親は私が五歳のときに離婚した。
私の手元には、最後に父が撮ってくれた写真が一枚だけ残された。ちょうど乳歯の生え替わりの時期だったのだろう、前歯が一本ない私が、笑っている。ただ、それだけ。
ファインダーの向こう側で、父がどんな表情だったのか、私は覚えていない。
離婚後父はアメリカに残り、日本に帰国した母は女手ひとつで私を育ててくれた。母は再婚こそしていないものの、私が小学生のときからずっと同じ人と付き合っている。彼は私にも親切にしてくれるし、嫌いではないが、どうしても家族とは思えない。だからだろう、母は再婚に踏み切ることはしなかった。
そういったことの何もかもが、どこかずっと窮屈だった。
『柚希ちゃんが大きくなるまで、結婚はしないわ』
母がそう口にする度、私は自分の心を見透かされているような気がして、居心地が悪かった。何度、気にせず再婚してくれといっても、母は聞かなかった。私は大学進学を機に独り立ちをし、そこで母はようやく東京を離れ、恋人の故郷である新潟で暮らし始めた。
やっと、少しだけほっとした。
その母は父のことを決して悪く言ったことはなかった。
けれど、何も話してもくれなかった。いつも「生きる道が違ったから」とばかり繰り返すのみだった。父はアメリカに住んでいたし会う機会もなく、私に残る最後の記憶は、肩車をしてもらったというもので、それも朧げだ。
私が高校生のとき、母が突然、父のEメールアドレスを教えてきた。
『貴女に伝えてって言われたから』
驚く私に、母は無表情にそれだけ言った。
『お父さんに連絡していいの?』
『好きにして』
母には戸惑いと、困惑、それから形容しがたい感情が透けていた。
『本当に、いいの?』
再度確認すると、母は小さく笑みを浮かべる。
『なんで、なんども聞くの。柚希ちゃんはしっかりしているから、信頼して渡してるの。聞いてはいけないことは、聞かないでしょう、貴女は』
私はそれ以上何も言わず、黙って父の連絡先が書かれた紙を握りしめた。
母は何か理由があって、この連絡先を渡すしかなかったのだろうが真意はまったく違うはずだ、と察した。迷ったけれど、最終的に住所と携帯電話の番号を父にメールした。父からも同様に住所と携帯電話の連絡先がメールで届いた。それ以降、住所か電話番号が変わるときにだけ、Eメールでやり取りをしている。
私からそれを聞いた母は、満足そうに『そう』と言った。
『やっぱり柚希ちゃんは、いい子ね』
母にそう言われて、私は曖昧に微笑むしかなかった。
去年、私の二十歳の誕生日。
父から「誕生日と成人おめでとう」のメールが届いた。私が「ありがとう。でも日本では新成人は十八歳になったんですよ」と送り返すと、「時事に疎くてすまないね。だが、誕生日は誕生日だ。おめでとう」と返事が来た。
その時ですら、電話はしていなかった。
だから父から電話というのは非常に珍しい。
普段なら悩んだ末、通話ボタンは押さなかっただろう。だが今日は違う。私は恋人の裏切りによって心をかき乱されていて、平常心を失っていた。
衝動のまま、通知ボタンをタップした。
すると。
『中川 柚希さんのお電話ですか?』
聞き覚えのない、しかし柔らかいトーンの女性の声が流れてきて、途端に私は狼狽する。
「は、はい……そうです」
『よかった。私、中川 大輔さんの近所の者なんですが……、突然、こんなお電話を差し上げてごめんなさい。あの……、中川大輔さんが、昨日心臓発作でお亡くなりになりました」