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台南女子的中学日々

重陽節の酒杯に浮かぶ菊花

作者: 大浜 英彰

1枚目の挿絵の画像を作成する時には、「Ainova AI」を使用させて頂きました。

2枚目と3枚目の挿絵の画像を作成する際には、「AIイラストくん」を使用させて頂きました。

 刺し身三種盛りの皿に残った食用菊を摘み上げた私を怪訝そうな顔で見つめたのは、留学先の大学のゼミで知り合ったボーイフレンドだったの。

()さん、刺し身の菊なんてどうするんだい?」

 どうやら彼は、敢えて食用菊を残しておいた私の意図に気付いてないらしい。

 もしかしたら、この九月九日が何の日なのかも知らないのかも。

挿絵(By みてみん)

「それは勿論、この食用菊を美味しく頂く為よ。ねえ、菊池君。よく見ていて。」

 そうして私は食用菊を湯呑みへ落とすと、良い具合に燗上がりした徳利の中身を静かに注いだんだ。

 立ち上る白い湯気を吸っただけでも酔いが回ってしまいそうな純米酒に浸され、湯呑みの底に沈んだ食用菊の黄色い花弁は先程よりも幾分か綻んだように感じられたの。

 やがて酒杯の中の液体が無色透明から微かに黄色く色付き始めた頃には、先程から漂っていたアルコールの揮発臭に雅やかな気品が感じられるようになったんだ。

 その気品と生命力は、あの黄色い菊花から滲み出ている風味と芳香に他ならなかったの。

「これは良いね、馬さん。菊の香りが熱燗に溶けているみたいで、何とも風情があるよ。」

「そういう事よ、菊池君…この菊の香りを移した菊酒こそ、延命長寿と邪気払いの願いが込められた重陽節の行事食なの。」

 酒杯から立ち上る上品な芳香に陶然となりながら、私はボーイフレンド兼ゼミ友に頷いたの。

 私の生まれ育った台湾を始めとする中華圏では奇数の重なる日を節句と定めているけれども、この九月九日は一桁の奇数の最大数である九が重なる事から「重陽節」と称して特に重んじているわ。

 昔から重陽節の時期には菊の花が咲き始めるので、人々は冬の寒さや霜にも負けない菊の強い生命力にあやかろうとして、菊花酒や菊茶を飲むようになったの。

 そんな私の講釈を、ボーイフレンドは興味津々とばかりに頷きながら聞いてくれたわ。

「成る程…前に家族と一緒に懐石料理を食べた時、菊の花を浮かべた日本酒が食前酒として出てきたけど、あれも菊花酒だったんだね…」

「そう言う事よ、菊池君。末期の蜀漢を攻めた魏の鍾会も、この菊花酒の事を詩の中で褒めているわ。曹操の息子の曹丕だって、菊花酒を飲んだからこそ皇帝としての激務に耐えられる頑丈な身体になれたと言うし、そうした群雄や英傑達にあやかって飲んでみるのも一興よ。」

 鍾会や曹丕といったビッグネームに心動かされたのか、菊花酒の酒杯を見つめるボーイフレンドの眼差しに畏敬の念がこもったように感じられたの。

 中華圏に住む私達と同様に日本の人達も「三国志演義」を愛しているって聞いたけど、あの話は本当だったみたいね。


 それからというもの、菊池君は刺し身に添えられている食用菊を日本酒に浸して飲むようになったの。

 一部のゼミ友からは「菊池が菊を飲んでいる」と茶化されたけど、私も菊池君も全く気にしなかった。

 それどころか、二人で示し合わせて菊花酒を飲むようになったの。

 会食やデートで訪れた御店の刺身に食用菊が添えられていたら、迷わず日本酒の酒杯に投じたわ。

 そうして菊花酒を飲み交わす回数を重ねていくのに伴い、私達の仲も深まっていったの。


 そしてそれは、学生時代から十数年が経った今でも変わらないの。

挿絵(By みてみん)

「毎年不思議に感じていたんだけど、お父さんもお母さんも重陽節には日式清酒に菊を浮かべて飲むんだね。お祖父ちゃんやお祖母ちゃんは、高粱酒で作った菊酒を飲んでいるのに。」

 意を決したように問い掛けてきたのは、台南市の国民中学に上がったばかりの娘だった。

 よっぽど気になって仕方なかったのだろう。

 菊茶にも茶菓子にも、まるで手をつけていなかったの。

「そうだよ、須磨子(すまこ)。お父さん達は若い頃から、この時期になると菊入りの日本酒を飲んでいたんだ。須磨子が産まれるよりずっと前の、お父さんとお母さんがまだ大学生だった頃からね。」

 そう言いながら私と娘を交互に見つめる夫の横顔には、照れ臭そうな微笑が浮かんでいたの。

 きっと私も、同じような顔をしているんだろうな。

挿絵(By みてみん)

「こっちで日本酒を買おうとすると関税の都合で割高なの。だけど蓬萊米を使った日式清酒でお父さんの好みの銘柄が見つかって何よりね。」

「どれどれ…ああ、やっぱり『台南酒廠』って書いてるね。お父さん達が日式清酒を買う時は、大抵このメーカーなんだよね。」

 清酒の紙パックを私に返すと、娘は何事もなかったかのように蛋黄酥タンファンスーをつつき始めたの。


 夫の苗字を継がせて「須磨子」という日本風の名前をつけた娘だけど、当人としては「日本人」としての自意識よりも「台南市生え抜きの中華民国人」としての自意識の方が強いみたい。

 生まれも育ちも台南市だから、それも当然ね。

 十八歳の誕生日を経た須磨子が最初の重陽節を迎えた時、あの子はどんな菊花酒を飲むのだろう。

 私の両親と同様の、菊の花を漬けた高粱酒なのか。

 それとも私達夫婦と同じ、食用菊を浮かべた日式清酒なのか。

 まだまだ先の事だけど、今から楽しみね。

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― 新着の感想 ―
重陽の節句は元旦、ひな祭り、こどもの日、七夕と位置づけられている他の節句と比べて、地味な感がありますが、それだけに風情がありますね。 菊花酒、よいです。
食用菊を浮かべた清酒。 そういう飲み方があることを初めて知りました。 刺身のパックについている黄色い小さな菊。 今度、あの菊が刺身についていたら、一度やってみようかと思います。 でも最近はプラスチック…
 日本のお酒に浮かぶ、中華圏の慣例。二人のように、時間とともに馴染んでいくものかもしれませんね。  異なる文化が混ざり良い味わいとなる、その一例ですね。ある意味須磨子ちゃんの先輩のようです。 >「菊…
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