プロローグ
「私アイドルになる」
そう言った私を一瞬だけ切れ長の横目で見て、陽毬はすぐに自分のウィンドウに目を戻した。
ここでの陽毬は茶褐色の肌に真っ金々の髪をポニーテールにしている高校生くらいの女の子だ。豊満なお胸を強調するように、Yシャツの上のボタンを多めに外している。
行儀悪く椅子に片膝を立てていて、短いスカートの中身が今にも見えてしまいそうだ。
「で、どう?」
「何年かあとに思い出して絶対恥ずかしくなるやつだからやめときな」
陽葵はチュゴゴとカップストローをすすると、忙しそうにチャットを再開した。
ここはカフェテラスのオープンサーバー。私達だけじゃなく色んな人がみな思い思いの時間を過ごしている。
陽葵が見ているのはVR空間に表示された表示されたウィンドウ。それをいくつも並べて、ネットの向こうの人とやりとりしてニヤついたりしてる。私と話すよりよっぽど有意義そう。
「なんでよ。アイドルがみんな痛いってこと?」
「プロはちゃんと見ても恥ずかしくないレベルに仕立ててるからいいけど、あんたがやっても学芸会レベルになるよってこと」
「やってみなきゃわかんないじゃん」
「じゃああんたなんか努力してんの?」
「それは、これから……」
気持ちが先行してるのは事実だし、私が一般的なアイドルの教養……歌とかダンスに精通しているかといえばそうじゃない。
図星をつかれて私は少しだけ目をそらした。
「今度は本気だし……」
陽毬はため息を付いた。
「ま、理由だけは聞きましょう」
私は自分の目の前に電子マガジンのウィンドウを表示させて、それを陽葵にむけてスワイプした。
ウィンドウがすっと空を移動し、陽葵はそれを受け取ると目を走らせた。
「ダウンロード数ランキング、5週連続一位、大キャリの秘密に迫る」
陽葵に見せたのは現在の流行最先端、大人気三人組アイドル、大cuteキャリコ、通称大キャリのインタビュー記事だ。可愛い猫耳アイドルが思い思いのポーズをとって表紙を飾っている。
「カワイイカッコして目立ちたいと」
「ちーがーうって。いやまぁそう思われるに越したことはないけど。記事の方、そこの下の方……そう、そこ」
陽毬は目を細める。
大キャリのメンバーの一人が、次のライブに向けての意気込みを語っている。どんなパフォーマンスをするか、どういったライブにしたいと思うのか……
その記事の見出しである。
「アイドルライブは興業の名の下、あらゆる表現が許される」
「そう!そうなの!」
私は勢いよく立ち上がって祈るように両手を組んだ。
「アイドルになれば何でもできるのよ」
目を輝かせている私とは対象的に、陽毬はやはり冷淡だ。
「何でもねぇ……」
陽毬は訝しげに頬杖をついた。
誰もが当たり前のようにVR空間を利用する時代。ここでは現実ではできない様々な表現をすることができる。
でも可能であるということと、実現できるかどうかは別だ。
例えば当然のように私達が使っている、ここと同じVR空間を作るとしよう。
集客が期待できるようなデザインセンス。それをVR空間に反映させる方法。当然のようにお金も必要になってくるだろう。
そして何より、倫理的な問題。
私みたいな中学生がそれらをクリアするのは難しい。
それらの技術的、経済的、倫理的な制約のクリアが約束されるというなら、陽毬は共感はできないまでも理解はしてくれたようだ。
「で、エルは世界に向かって言いたいことがあると……」
「ある」
それだけははっきり陽毬の目を見て言うことができる。
陽毬は一瞬だけ目を丸くした。
「ま、そこまでいうならとりあえず適当なアイドルオーディションでも受けてみたら?探せばいくらでもでてくるでしょ」
「適当なやつってあんたね」
「内容を選ばなければなんでもあると思うけどね。それこそ学芸会レベルでいいよって需要もあれば、あんたが脱ぐだけで喜ぶ人もいるっしょ」
悪寒が走った。
「やめてよ!私はそういうのじゃないんだから」
「承認欲求に負けて身売りしたあんたを見るのも楽しそうだけど、身内として恥ずかしいからやめてね」
「だからやらないって!」
「まぁあんたの方向性は置いといて、まず何をおいても最初に許可を取らなきゃいけない相手がいるんじゃないの」
「ぱ、パパ」
「逃げんな、ママでしょ」
「いきなりラスボスじゃん」
「一筋縄じゃいかないでしょうね」
陽毬は肩をすくめた。そして邪悪な笑み。
「私程度を言いくるめてアイドルになろうなんて思わないことね」
「ぐぬぬ……」
私はスクロールを操作してVRモードをオフにした。
目の前には姉の陽葵。そのリアルの姿はメスの茶トラ猫である。
スクロールに内蔵されている猫語の翻訳機。その目覚ましい技術の進歩により、今や猫と人間は一寸違わぬ精緻な意思疎通が可能となった。
この翻訳機の開発者をしてこう言い残したそうだ。
ネコと和解せよ、と。
姉と言うからには私の姿も猫なのか?というとそうじゃない。
お猿さんから進化したとされる普通の人間である。
歳は十三、黒髪黒目の日本人女子。身長も特別高いわけじゃないし、絶世の美貌を持ってるわけでもない。
自分で言うのもどうかと思うけど、アイドルになるなんて言って訝しげな反応をされるのも悔しいけどそらそうって感じ。
一応陽毬とは同い年だけど、向こうが数カ月分年上らしい。
生まれた時から一緒に過ごしている対等な関係を姉以外とは呼べないでしょうってこと。
「ママのところ行ってくる」
陽毬は目を向けて瞬き一つ。それの同時通訳が私のスクロールから聞こえる。
「はいはい」
猫の言語は総合肉体言語だ。
肉体言語と言っても殴り合いをするって意味のスラングじゃない。
猫は人間には聞こえない周波の鳴き声も出すし、鳴き声の機微に限らず、ちょっとした仕草、目線。それら全てがコミュニケーション手段であり、翻訳の対象なのだ。
陽毬は飲んでいたカップを置いて椅子から降りた。
VR上で飲んでいたカップは、VR上で注文した商品がドローンで配達されて反映されたものである。猫用の取っ手もついている。
最近の猫はデカい。らしい。
普通に1mくらい。例に漏れず陽毬もそれくらいある。
言動も年々人間染みてきていて、陽毬は普通にお尻をつけて椅子に座ってるし、割と立つ。後ろ足だけで。
その理由として、猫の脳が年々肥大化していっているかららしい。
人より早い世代交代で、びっくりするくらい早く進化してきてるようだ。
さらには腎臓病の特効薬も開発されて50歳くらいまで普通に生きる。
自分の部屋を出て台所に向かうと、ママは晩ごはんの支度をしていた。
ついてきた陽毬は後ろの方で壁の角から片目だけをのぞかせて様子を伺っている。
「ママー。話があるんだけど……」
「あらエルちゃん、どうしたの?」
包丁の手を止めて、ママは振り向いた。
私がいうのもなんだけど、私のママは美人だ。
腰まで届くウェーブがかかった髪、シワ一つない肌。娘の私が到達するには難しいと言わざるを得ないほどの胸ボリュームに、美しい曲線を描くくびれ。ネット上でもこんな美人にはなかなかお目にかかれないと思う。
私はパパ似なのか、悲しいくらいにママと比べてポテンシャルが低すぎる。
以前ママに、どうして私はママと比べてこんなに平凡なのか冗談半分で聞いてみたことがある。
そうしたら真顔で『そういう風に産んだからよ』と答えられて、私は震え上がった。
ママなら冗談でなくそうできるかもっていう奇妙な説得力があった。
「私、アイドルになりたい」
ママは一瞬で険しい表情になると、ハッと気づいたようにポケットに手を入れた。
ママは最近では珍しいスクロールを常用しない人だ。
ポケットから二本のペンがくっついたようなスクロールを取り出す。ペン同士を広げると、ペン部分に巻き取られていた透明なフィルムが広がって、これがVRのディスプレイになる。
そしてペン側につけられた耳掛けを装着して、私たちはどこでもネット世界にダイブする。
ママはスクロールでいくつか操作をして、何かを確認するとホッとしたように息をついた。
一旦スクロールをしまうと、改めて私に向き直る。
「どうして?」
それを聞く前に一手先に行動するのがママだ。スクロールで何をしたのかはわからないけれど、何か心当たりがあったのだろう。
「私、音楽を作ってみたい。それでそれをみんなに見てほしい」
「どんな?」
「ギターと、ドラムの、そういう元気が出る曲」
ママは困ったように頬に手を当てた。
「……私ね、エルちゃんには”普通”になって欲しいの」
ママは私の両肩に手を置いて優しく言う。
「そんなの流行じゃないし、ましてやアイドルなんて」
「でも……」
「エルちゃん、普通でいることが一番幸せなのよ。普通の人はアイドルなんて目立つことはしないわ」
置かれた手に力がこもる。
ママは昔のことを語らない。
美人で何でも完璧にこなす、非凡なママが歩んできた人生は、同じように普通とは違う特別なものだったのだと思う。
そんなママが生涯をかけて得た幸福論が普通でいることだという。
私自身、ママは理想のママだと思うし、愛してくれているとも当然思っている。
そんな何より娘を大事に思っているママが何をおいても娘に普通で居て欲しいのだと言う。
「だから、ね?アイドルはダメよ」
その言い知れない説得力に、有無を言わずに頷くしかなかった。
翌日、私は授業など上の空で考え事をしていた。
ここはVR空間の教室だ。リアルの私は自分の部屋で授業を受けている。
今はネットで義務教育を受けるのは普通のことだ。
私や私のパパやママが生まれる前にあった学校っていう括りで受けるものでは必ずしもなくて、必要な単位を取るために大小様々な教育機関があって、私たちは自由にそれを選択する。
今もこうして数学の単位を取得するべく出席だけはしている。
もちろんネットに限らずリアルで授業を受けても良いけど、リアルの方はあんまり人気がないと思う。
誰でも持ってるスクロールで自宅にいながらこうして授業を受けられるのに、リアルだと毎日通学しなきゃいけなくて、お金も時間もかかる。
学校っていう手段じゃなければ塾とかもあって、それだと色んなところにあるから通学は融通が効くけど、それでもマンツーマンで直接指導を受けたいとか、特別な理由がない限りは選ばれないかなって感じ。
もし仮に昔みたくリアルの方が主流だったら……ママは喜んで学校に行かせてたのかなってなんとなく思った。
ふと目の前の子の後頭部を眺める。
VR空間を表示する私のスクロールの端にはレイヤー2の文字。
レイヤーはVR空間でどれくらい補正をかけられるかで、数字が大きいほどリアルとかけ離れてくる。
2は年齢補正まで許されてる。性別とか人か猫かとかまでは偽れない。ちょっとお堅い方だけど、教育の場みたくある程度厳粛さが求められる環境では普通だ。
必要最低限の補正しかかからないレイヤー1なんて使ってるのは、もはや日本の国会中継くらいなんだそう。海外の政治家さんたちはみんな10、20代くらいの若々しく見目麗しい姿で熱く討論している。
目の前の子は10代くらいに見えるけど、突拍子もない可能性を考えるなら、ひょっとしたらリアルはお年寄りでとっくに義務教育は終わってるけど急に奮起して何か新しい学びを得ようとしているのかも。
好きな年齢になれるのにわざわざお年寄りを選ぶ人は少ない。
他にも視界を巡らせる。
あっちの子は20代くらいに見える。ちょっと大人びた自分を演じたいのかもしれない。
そっちの子はブロンドだけどわざわざ海外から来てるのかな。猫の翻訳機と同じように多言語の翻訳もリアルタイムで行われるから国境もあんまり関係ない。
勉強熱心な猫もいる。猫は義務教育もないのに偉すぎる。もっとレイヤーが上だったら猫かどうかも分からない。
私はここにいるみんなのことを何も知らない。
実際、私がここで仲のいい人は誰も居ない。
みんな授業が終わったら微かなワープエフェクトを残してあっという間に居なくなる。
各々が好きなコミュニティに移動して、そこで友達を作って過ごしてる。
そもそも単位制なのだから、ここ以外の場所で会う機会もない。
私はネットに仲のいい友達は……どうだろう。そこまで深い間柄の人はいないかも。
スクロールを外せば同じ部屋でくつろいでいるであろう陽毬が居るから、それでいいやって満足しちゃってる。
当の陽毬はネットにミイちゃんっていう仲のいい友達が居るみたいだけど。
放課後、昨日と同じネット上のカフェテラス。目の前にいるレイヤー3の陽毬は金髪ギャルの姿。
別に私と陽毬だけのプライベートな空間を選んでもいいけど、周りの雑音が意外と心地よかったり、背景に表示される広告が話題の種になったりするからなんとなくここを選んでる感じ。
例えばVR空間で陽毬の手を握ったって、私は陽葵を捕まえておくことができない。彼女は別の空間に行ってもいいし、さっさとログアウトしてもいい。
ネット上でもわざわざ同じ空間にいてくれてるあたり、なんとなく陽毬も私のことを思ってくれてるのかな。
まあ私と話すより別の作業してる時の方が圧倒的に多いけど。
不意に広告が大キャリの新曲を流し始めた。
今週のダウンロード数ランキング一位。
物憂げなピアノの旋律に、囁くようなハミングのボーカル。時折雨音のような環境音が聞こえるリラクゼーションミュージック。
これが今のトレンド。ランキングの他の曲はといえばクラシックとか。モーツァルトの人気は根強い。
私が好きな、私が作りたいと思ってるギターバンドの曲は無くはないけど下火って感じ。
私としてはなんで?って感じだけど、流行ってそういうものなんだろうって思いもする。
例えば浮世絵みたいなナス顔の絵が流行だった時代に、今の時代の目が大きいアニメ調の絵を持っていったら評価されるだろうか。
逆でもいい。浮世絵を今の時代に持ってきてこれを流行らせてくださいっていうようなもの。
こういうリラクゼーションミュージックが流行してるのは猫の存在があるから。
猫は今やどの家庭も家族として迎えている。
なにかの世論調査では90%以上、100に届く勢いだった気がする。
猫はクラシックとか環境音みたいなリラックスできる音楽が好きなんだ。
今は猫が好きな音楽が売れる時代なんだ。
もちろんそれが嫌なわけじゃない。
本当に癒やしを求めている人ももちろん居るだろう。クラシックは退屈とか生意気なことを言うつもりもない。
でも私は、ずっと探してる音楽があるんだ。
それがなんていう曲なのかは分からない。
それなのになぜかエレキ、ベース、ドラムのギターバンドの曲な気がする。
そういうバンドの曲をいくつも聞いてきたけれど、どれもしっくりこなかった。
かゆいところがあるのに、どこがかゆいのか分からない、そんなもどかしさ。
無いなら作ればいいのだろうか。そうすれば少しはこのもどかしさは晴れるのだろうか。
「ねぇ、陽毬」
陽毬は聞こえてるのはわかってるでしょとばかりに返事はしないで目だけをこちらに向ける。
「私やっぱりアイドルになりたいよ」
「昨日も言ったけど、それにはママの許可が……」
「個人で活動するんなら、ママに文句を言われる筋合いなんてないでしょ」
私はまっすぐ陽毬を見つめ返す。
「個人でって……」
陽毬はまだなにか言いたそうだったが言葉を飲み込んだ。
「ちょっと走ってくる」
「は?ちょ、え?」
私はスクロールのVRモードを切るとそのまま外に飛び出した。
行き先なんてない。ただひたすらに走りたかった。
私の家は田舎だ。今の時代に、あえて都市部に住む理由はそんなに多くない。ここでも隣の家まで1キロ以上ある。
すれ違う人はもちろんいない。いくつかのドローンだけが頭上を通り過ぎていく。
「ちょっと、待ちなって」
後ろからドローンに運ばれた陽毬が追いかけてきた。
「ったく、私は長距離走れないんだから急に変なことすんなって」
「別に、無理に、ついて、来なくたって」
息継ぎしながら答える。
「んで?なにか目標でもあるわけ?」
「MVを、つくる」
「ミュージックビデオ?」
私はうなずいた。
オリジナルソングを歌って、踊る。その動画をネットに投稿する。
まだなんのアテもないけど、とにかく絶対体力は必要だ。
「いつまで?」
「え?」
「いつまで走ってるつもりなのかって」
「……疲れるまで」
陽毬はため息。
「目標5キロ!最終的には一日10キロを目指す!」
陽毬は私にビシッと前足を突きつける。
「へ?」
「帰ったら腕立て、腹筋、スクワットだかんね」
私はあっけにとられてぽかんと陽毬を見つめていた。
「返事!」
「は、はいっ!」
陽毬は更にぶつくさ言いながらも、自分の端末でなにかこれからの算段を立て始めたようだ。
私は単純に嬉しくて、ちょっとにやけて走り続けた。
思い出すのは、初めてネットにダイブした時のこと。
レイヤー4、誰もが何にでもなれる場所で、私はあえてレイヤー1と同じ設定で飛び込んだ。
当時と同じ年齢、同じ服、化粧っ気のない顔。可能な限りありのままの自分でいたいと思った。
世界中の誰とでも繋がれる場所で、どこかの誰かが私に興味を持って、友達もたくさんできると思ってた。
けどそんなことは全然なくて。
私のことなんて、誰も興味がなかったんだ。
でもそれは私も同じなんだ。
同じように、私も今まで他の人を知りたいと思っていただろうか。
誰かが興味を持ってくれるかもしれないと思っていた、過去の私と同じ誰かに目を向けてこられただろうか?
いつしか私は、ネットではみんなと同じように、ありのままの自分を表現することを辞めてしまっていた。
アイドルは、ただのきっかけだ。
ここから、始めるんだ。
私はずっと、かゆい場所が分からないもどかしさを感じていたんだ。
無人の教室。名前も知らないクラスメイト。
否応なしにレイヤー加工される私たち。
そんな世界で私たちはリラクゼーションミュージックを聞きながら、ゆっくりとまどろみに落ちていく。
そんな人たちに、私は叫んでやるんだ。
私はここにいるんだぞって。