第3話 初夏、反抗とプライドのエナメルシューズ(6)
夜、直司のもとに辻亮治から電話があった。
「うん。莢音ならもう寝てる。どうも母親とケンカして、とびだしてきちゃったらしいんだ。しかたないから一泊させてる」
『そうか、無事ならいいんだ。自分たちの野次馬根性のせいで混乱させた。すまなかったな』
「そんなふうに悪く思わないでいいよ。それよりも、その、藤野さんなんだけど……」
『そっちはアンバー先輩にまかせた。まあ、そつなくやってくれているだろう。勝手かもしれないが、できれば幸に釈明の機会をあたえてやりたいと思っている。それも、早ければ早いほどいいと思うんだが』
「ああ、そうだね。莢音もきちんと謝りたいだろうし……。明日はちょうど休みだから、どこかで会おうか」
『即決とはありがたい。ところで候補はあるか? �@どこかかしこまった店 �A部室 �Bお前の家』
「え? ウチ? うーん、それは悪いような……」
『意外といい選択だと思うぞ。妹さんもリラックスできるだろうし』
「それはどうかなあ……妹は、この家が好きじゃないんだよ。それに部室だとアウェー感が強い気が……」
『なら�@だな。ついでに昼食も摂ってしまおう。店のチョイスはまかせてくれるか?』
「わかった。お願いするよ」
直司が受話器をおく。
さて、この話を妹にどう切りだそうか。
人知れずため息をつく兄だった。
翌日は梅雨らしく、しめりけの多い一日となった。
「………………ねえ、どうしてもいかなきゃダメ?」
案の定、莢音はその会合に顔をだすのをしぶった。
「ダメ」
直司にしては強く言う。
ぐずる莢音を強引に引っぱってゆく。
手と手をしっかりにぎり、ぐんぐんと引っぱる。
それにあわせて、莢音のツインテールがぼんぼんゆれる。
——昔っからそうなんだよ、お兄ちゃんは。
莢音はふくれながら思う。
普段ぼーっとしているくせに、なにかあると解決めがけてまっすぐに動きだす。
目的ができると周りお構いなしになるのは父に似たのだ、とこっそり耳打ちしたのは母だった。
かつて、明星一家は仲のよい家族だった。
父親の度重なる商売の苦境が、一家をばらばらにした。
おかずの少ない、時には米すらまともにない食卓。
兄、姉たちのお下がりのランドセル、体操服、習字道具。
いったいいつの時代の話だと思う。
そんな生活にあって、家族の普段着だけは充実していた。
高級な素材やブランドのもの、というわけではない。
トレーナー、シャツ、パンツ、シューズ、アクセサリ類。
そういったものの種類だけはやたら多かった。
どれも最新トレンドのものではなく、つまるところそれらは、父の店にならべてあるようなモノばかりだった。
「子供のうちに感性は生まれる。良いものには早くから触れさせておいたほうが良い」
服道楽の父がぶつこんなありきたりの教育論が、言い訳じみて聞こえるようになったのは、莢音に第二次性徴が現れたころ、早い話が反抗期にさしかかったあたりだった。
「そんなことよりももっともっとお金をかけるべき場所があるじゃない! 家とか、車とか! こんな服ばっかりあって朝ごはん食パンの耳とか意味わかんないっ!」
至極もっともなご意見であった。
だがほかの家族は莢音をさほど積極的に支持しなかった。
そういった非難はつまるところ、姉と二人の兄が同じ年頃にほえた言葉でもあったのだ。
さんざん主張したあげく、父の傍若無人ぶりに幻滅しただけの、敗北感にまみれた記憶の象徴でもあった。
ただ一つちがったのは、莢音の反抗が徹底して父にのみむけられたところだろう。
末っ子の強みかそれとも持って生まれた性向か、莢音の抵抗活動は熾烈でねばりづよかった。
頑固者なのだ。
この莢音という妹は。
父に似て、というと超怒るがそういうことだ。
「莢音が嫌がる気持ちはわかるよ」
近ごろやけにものわかりいい顔をするようになった兄が、その手を引きながら言った。
「僕も一緒に謝ってあげるから。それに、藤野さんたちもきっと莢音に謝りたいと思ってる」
莢音はまだむくれている。
謝りたくないわけじゃない、ばつが悪いだけなのだ。
ただそれを素直に表せる年齢でもなかった。
それに、藤野雪がうっかり口をすべらせた言葉は、今思い返してもやはりゆるせない。
「イタリアンのお店だってさ。好きなデザートを食べて良いよ。僕のおごりだから」
「……ジェラート」
「うん?」
「桃のジェラート、食べたい」
「うん。じゃあ、一緒に食べよう」
莢音はこくりとうなずいた。
これは、美味しいジェラートを食べるための代償なのだ。
それをいただくために、いったんはあの女に頭をさげてやるのだ。
兄の顔を立てるために、恥をこうむってやるだけ。
だが魂までは売らない。
この怒りはちょっと頭をさげられただけでは収まらない。
どれだけ自分を曲げようが、腹の中では最大級のあかんべをしてやる。
思いっきり、ベーっとかいーっとかしてやるのだ。
罪悪感をまぎらすそんな理由づけをして、ようやく莢音は気が楽になった。