第1話 春、愛と情熱のアロハ(10)
「中村さんは、お父様を第二次世界大戦で亡くされたんだ」
帰り道、ワーゲンバスが下り坂をゆるゆる下がってゆく。
エンジンはふかさず、ギアはニュートラルで慣性にまかせて進んでいる。
だから車内は、声をはりあげなくとも会話できた。
「戦時中、日系人の部隊はヨーロッパ戦線の、より過酷な戦場に送られた。少数民族で、しかも敵国側の民族だ。442連隊戦闘団。そういう時代でもあった。彼女は枢軸国側の人間を憎んで育ったそうだ。分かりやすく言うと、ドイツとイタリア、そして日本を」
憎む、という言葉がうまく消化できない。
現在のシズコはみちたりて、日本での生活を満喫しているように見えた。
「かたくなな意識が変わったのは、旦那さんと出会ってからだ。夫のジェームズ氏は高名な民俗学者でね。日本にも長く滞在し、多くの優れた論文を発表した。父親ほども年の離れた彼を、シズコさんはとても敬愛していたそうだ」
坂の上の邸宅は、成金趣味とはほどとおい、知性や品格の豊かさを象徴するようなすばらしいものだったし、訪問はこの上ない経験になった。
ただ建物だけがあそこにあっても、きっとこんな気持ちは芽生えないだろう。
住む人や住んできた歴史あっての家なのだ。
「今や彼女の広い交際範囲には、イタリア人もドイツ人も、もちろん日本人もいる。憎むべき対象とむきあい、そして理解してようやく、中村さんは心の平安を得たのだよ」
「現実と誠実に対決し、そして克服した。それはきっと大変な勇気がいる事なんだろうね」
「そう。僕らはそういう強さを持ちつづけなくてはいけない。それが、あの中村さんのような素晴らしい人と関わる者としての義務なんじゃないかと思うね」
父と息子が、静かに会話する。
「父さん。離婚届は空欄を勝手に埋めてハンコを捺して送り返しておいたから」
「少し考える時間すらくれないのか!?」
実の息子がおしすすめた血も涙もない所業に、明星靖重は悲しみのアクセルを全開にしたのである。
結論から言うと、高峰枝実利は無事シャツを手に入れ、そして祖父と姉との三人で温泉旅行を思う存分楽しんだ。
閲覧制限されたSNSのグループに入れてもらい、直司もその様子をうかがい知ることができた。
ならんで座る老人と高峰枝実利。
二人はカラフルなおそろいのシャツを着ている。
背後から二人をだきよせる大人の女性。
それが姉なのだろう。
なんて幸せな一枚。
「旅行を境にご老人はずいぶん快方に向かったそうだ。今では家の中のことぐらいなら自力でできると言っていた。彼女を奥方とまちがうこともなくなったとさ」
「これで高峰先輩も、自分のことに専念できますね。三年生ですから、受験もあるでしょうし」
あれから二週間が経って、直司はなしくずしにこの部室に通うようになっていた。
毎放課後、藤野幸ら三人が無理やりむかえにくるのだ。
逃げ場はなかった。
「まあ、私は受験なんぞはせんが」
「就職ですか?」
「いや、旅人になる」
直司は言葉を失う。
旅人?
何それ、それって進路?
ってなもんだ。
まあ、そんなふうにつっこむ気もおきなかったのだが。
「旅かあ、素敵ですね。インド行きましょうインド! 自分探しの定番でーす! あ! ハシシはなしですよ! 薬物、禁止ー!」
「いやいやヨーロッパの田舎を回ってアディダスやプーマのデッドストックを漁るという手もあるぞ」
「アリゾナだろ。体一つで砂漠横断だ。射殺覚悟で軍の演習場にしのびこむのも面白い」
三人組が各々好きなことを言う。
そこに、控えめなノックがあった。
「ハイ」
メガネの辻亮治が応対にでる。
引き戸を開け、準備室の外でたたずんでいたのは、今しがた噂に上がった高峰枝実利本人だった。
「こんにちは。その節は大変お世話になりました。……ちょっと明星くん、借りていいですか?」
僕?
直司がすっとんきょうな顔をした。