いつか見た夢の話
友人に誘われて繁華街まで足を伸ばした帰り道、ふらりと立ち寄った駅構内の本屋さんで、中学校の同級生を見かけた。
当時は僕の一番仲の良い異性の友達で、身の回りに溢れてた恋愛話に勘違いした僕と短い間お付き合いもしてくれた人だ。
僕は今でも親しい友人だと思っているけど、会うのも話すのも成人式以来だから‥‥二年以上前?
友達の少ない人間からすれば成人式で会話するのはすごく仲のいい相手だけなんだけど、さすがに常識から外れていることは弁えている。
彼女は知らない女性と親しそうに、二人一緒に料理雑誌を眺めている。
一目見ただけだがなんとなく、あの二人はパートナーなのかもしれないなと思った。
「これ美味しそう」
「これ? こんなの見たことないね」
「材料から既に知らない名前の方がいる!」
「待ってこれホントに初級本? こんなの家でも作れるの?」
「今度一緒に挑戦しよ? 変なの作ってみたい」
「食べるんだったらもっと厳選しようぜ」
隣り合った二人の潜められているはずの囁き声が、駅構内のざわめく本屋の中で不思議とよく聞こえた。
昔の彼女からは想像できない、明るい茶色が差し込むツヤツヤのストレートヘアにオシャレな着こなしで、見違えるほど素敵な大人になった彼女に気付いたのもこの声のおかげかもしれない。
恋愛がよくわからなくて、理想の関係には追いつけなかったけど、この少しハスキーな低めの声と、幼いこどものようにテンション高く話してくれるのがとても好きだった。
彼女と学校や漫画の話をしながら、手を繋いで帰ったのは僕の大切な思い出だ。
その頃咲いていた金木犀の甘い匂いも、目の前に咲いているように明瞭に思い出せる。
相手に気づかれる前に離れようとしていた僕には、二人がどんなレシピを見ていたのかはわからなかったが、幸せそうな様子にマスクの下で笑みが溢れた。
疲れから痛みすら感じ出した足を引きずって、気まぐれに寄った本屋を何も買わずに出てしまったが、早く帰りたい派である僕が珍しく寄り道をしたのは、彼女に会う、もとい見るためだったのかもしれない。
昨日家族の愚痴に耳を傾けたのが良かったのか、買い物の際レジの人に毎度感謝を伝えているのが良かったのか。
神様も運命も功徳も感じたことはないけれど、名も無い誰かに感謝したい気分になった。
未だに恋愛も人生も理解できない僕だけど、彼女らがこの先どんな人生を歩むのか想像すらできない僕だけど、いつまでもああやって楽しそうに生きていけるといいなと思う。
気持ち軽くなった足を動かして、いつもよりいい気分で帰りの切符を買った。
田舎の通勤時間を外れたスカスカの電車内で、何故か座りそびれてしまったが、今日はもう少し頑張れそうだ。
座れそうな隙間探しを早々に諦めて電車の振動に身を任せていると、地下路線から地上に出て、夕焼けのオレンジ色が車内を照らした。
暗さに慣れていた目には眩し過ぎる光に瞼を閉じると、いつか彼女と歩いた学校からの帰り道、甘い香りの風を浴びながら見た日常のなんでもない景色が蘇ってくる。
初めて経験する家族以外の親しい関係にドキドキしながら歩いたあの日から、僕の中で金木犀は「好いこと」とか「幸せ」の象徴だ。
家に向かう電車の中で、草臥れて吊り革にぶら下がる僕の頭の中では、季節外れの金色の花が、いつまでも甘い香りを漂わせていた。