7話 異なる正義と平和
「はっ、はっ、はっ――――」
恥も外聞も無く、逃げ惑う事しか出来ないのは仕方が無いだろう。
迫りくるドラゴンを目にした俺は学生以来の全力疾走で森の中へ突っ込んで行った。どのような道筋を辿ったかなど、全く覚えていない。一か八かの作戦ではあったが、やはりドラゴンの大柄な身体では木々の合間を縫う事など不可能なようであり、自分を探しているのか上空を飛び回っている。
木々に重なる多数の葉が自分の姿を隠してくれるのは有りがたいが、こちらも上空を飛び回るドラゴンを正確に認識する事が出来ない。咄嗟な状況であったため、おぼろげな姿形しか記憶する事は出来なかったが、それにしても身長だけで二階建ての建物ほどの高さはあっただろう。翼の存在もあり、横幅の大きさを想像する事すら無駄だろう。しかし、二度と目にしたくない威圧感だった事は確かである。
「飛竜を狩るのは初めてか? ま、未確認の相手から姿を隠すのは正しい事だな」
「ひっ?!」
突然上空から声を掛けられ、心臓が口から出るかと思うほどに驚いてしまった。
ガサガサと物音を立てて木々から降りて来た女性は、さきほどのレイハルドである。
「飛竜は確かに他のドラゴン種に比べればかなり弱い。しかし、それでも油断せずに観察から行うお前を私は見直した。飛竜とて、この霊峰で暮らしているのだ。どんな特殊能力を得ているか分かったものでもないからな」
「あ、ああ……」
返事をする事に精一杯で、彼女の言っている事の四分の一ですら頭の中に入ってこない。身体の中から湧き上がる恐怖心を抑える事と、自身の上がった息を整えるのに必死で他の事に頭がついていかない。そもそも、俺は本当に無事なのだろうか。緊張のあまり痛みに気付いていないだけで、右腕くらい既に食い千切られているかもしれない。
「お、武者震いか。ドラゴン狩りはやはり楽しいからな。奴らは知恵がある」
無事ながらも震えている右腕の存在を確認した俺に向かって、ケラケラと笑い声をあげる彼女。「集中させてくれないか!」と怒りをぶつけたい気持ちもあるが、彼女に帰られたら完全に詰みになってしまう。怒りと動揺と、不安と恐怖が入り混じったわけの分からない感情に、自分を制御できない。
「ふっ、ふう…………。はっ……はあぁあああああああ」
とりあえず、息を整える。相手は自分より何倍も大きい存在である。常識に囚われている限り、動く身体も動かなくなってしまうし、働く頭も働かなくなってしまう。そもそも、敵はドラゴンだけではないのである。目の前のレイハルドも仲間面をしているが、俺の強さがハリボテだったと分かった瞬間に首を刎ねかねない。俺は彼女に猛者だと勘違いされてるから生かされているだけで、本来なら魔物と勘違いされたままに殺されていた身分だ。
「気合を入れ直したか。獅子は兎を狩るのにも本気を出すというしな」
「ああ、楽しんでくれよ」
浮かんだ冷や汗を拭い、状況を判断する。ドラゴンの攻撃手段は何だろうか。常識内では『噛みつく』『爪で掻く』『火を吐く』あたりだろうが、この認識で間違っていないだろうか。いや、これは物事を楽観的に見過ぎている。相手はゲームの世界に存在するドラゴンではないのだ。ゲームの世界なら攻撃されない限り、ダメージは負わない。しかし現実的に考えれば、硬そうな鱗を持ったドラゴンにちょっとぶつかられるだけで、俺は重傷を負う。
「レイハルド、何が見たい?」
「無論、真っ向勝負」
ははは、こいつは馬鹿げた提案だ。彼女、レイハルドは全く分かっていない。何も分かっていない。だからこそ、言ってやった。自分の生存率を高めながら、彼女が満足するための提案を、口にした。
「馬鹿だなぁ、それだと一瞬で終わってしまうぞ?」
強さとは一体何だろうか。そんな事、俺には一切分からん。子供の頃から小麦粉をこね続けていた俺に分かるはずがない。しかし、勇者を名乗る彼女ならある程度の美学を持っているのではないか?
「クッ、クックック、クククク」
レイハルドは心底おかしな事を聞いてしまったとばかりに、腹を抱えて笑い始める。
声を押し殺しているのは、俺に対する配慮であろうか。
「ふ、ふふふ。いや、確かに。お前の力を測るのに、力自慢みたいな事をされても仕方が無い」
「ああ、そんな事は脳筋に任せておけば良い」
「ふふっ、やはりお前からは強さを感じる。他でもない、唯一の力だ。やはり、勇者稼業をやっていると『仲間にしてくれ!』みたいな輩が多いんだよ本当に。大抵そう言う奴らは一芸特化の役立たずだ。力が強いからどうした? 魔力が高いからどうした? それが封じられたらお前はどうするんだ? そもそも根本として、本当に自信があるのならわざわざ他者と群れる必要もないと思わないか? やれ仲間の力がどうとか、絆がどうとか言うやつも今までにいたが、そいつらは君の言う通り全員魔物に殺されて死んだよ。やはり、群れる事を考える輩は信頼が出来ない。その者が持つ力も、その者が持つ精神も」
「多弁だな」
「はははっ、お前の前だと口が軽くなるな。やはり、通じ合っている者同士、と言った所か。君がこのような地に隠居していたのも、同じ理由だろう? 私だけに世界を救わようとするなんて、全くいけずだな」
「すまない、休みが欲しかったからな」
これで俺がどのような振る舞いをしようが、彼女は俺を非難する事は無いだろう。俺に出来る事は逃げ惑い、隙を見付け、唯一のチャンスを無駄にしない事だけである。ドラゴンを追い払った後にレイハルドに文句を付けられるかもしれないが、その時はその時である。それしか言いようがない。代償を先延ばしにする事は間違いでは無い。なぜなら、生きるか死ぬかの二択しかないからだ。
――――
じりじりと木々の合間を縫い、ログハウスに近付いていく。
歩調は堂々と。万が一に足音で気付かれても問題は無い。第一として、本当にドラゴンの目標が俺なのかを確認する必要がある。そもそも、俺にはドラゴンに襲われる理由がないはずなのだ。今までの人生の中で一度たりともドラゴンに喧嘩を売った事などなく、ドラゴンの機嫌を損ねるような事をした記憶も無い。そもそもドラゴン狩りを楽しんでいる雰囲気のあるレイハルドの方が、ドラゴンに襲われる理由を持っていそうである。彼女は今までに何匹のドラゴンを殺してきたのだろうか。
木々の途切れ目、つまりログハウスに続く整地された空間まで戻って来た。この先は整地され木々も邪魔しない為、上空からは丸見えである。しかし、それでも良い。堂々と姿を晒しながら逃げる事で、可能ならドラゴンの動きを確認したかった。己の全力疾走と木々への距離を計算し、絶対に逃げ込めるタイミングを狙ってトライする。
「――――ォオオオオオオオオオオオ!!!」
上空から聞こえる咆哮に圧を感じてしまうが、俺の足が木々の合間に入り込む方が早いはずである。背後を確認する暇も無い、ログハウスを通り抜け対面に連なる木々の中に飛び込んだ。
「…………ギュルルルル」
足を休めず木々の間を走ったが、上空からドラゴンが追ってくる気配は無い。やはり、本来の目標はレイハルドであって俺ではない可能性が出てきた。それならドラゴンの相手をレイハルドに任せる案を考えても良い。俺が逆ギレしながらレイハルドに詰め寄れば、アイツは折れたりしてくれないだろうか? 『俺が何のために隠居してると思ってんだよ!』とでも言いながら詰め寄るべきか?
ある程度の距離を取った所で速度を落とし、歩みに戻る。緊張の為か太ももが微かに震えているのが分かる。よく転ばずに、無事に走り抜けたなと乾いた笑いが出そうだ。さて、ドラゴンが旋回している場所を確認しましょうか。
「…………?」
ドラゴンは上空を旋回しておらず、目立つ場所に陣取っていた。低い唸り声を上げながら、ログハウスの屋根に乗っているのだ。こちらを警戒しているのか、視線を彷徨わせている。目が合ったら殺されかねない。
「今のは何がしたかったんだ?」
「ああ、ドラゴンの挙動を確かめたかった」
不意に背後から声を掛けられたが、背筋を振るわせる事は無い。むしろ予想以上に自分に落ち着きが戻っている事に、我ながら驚いてしまった。
「陽が落ちるのを待つ気か? わざわざ不利な条件に持ち込もうとするなんて、君は戦闘狂か?」
「いや、こっちへ誘き寄せる」
足元に落ちている大き目の枝や石を手に取り、手近な木に登る。むしろ、こちらに誘き寄せなければ手段が無くなってしまう。俺が唯一ドラゴンに致命的なダメージを与えられるとすれば、それは上半身、むしろ顔に対する攻撃だけだろう。それならば、どうにか木々の合間にドラゴンが顔を突っ込んでくれる手段を取るしかないのだ。あの大きな図体である、無策のドラゴンが木々の合間に入り込もうともがいた所で、無数の枝に阻まれて両翼が引っ掛かるはずである。もしもすべての枝葉を重量に任せてへし折って突っ込んできたのなら、俺の知識不足による敗退と言う事で、潔く死を選んでやっても良い。
――――
「…………?」
おかしい。ドラゴンは完全に俺の居場所を把握しているはずである。目立つように枝葉を揺らし、枝や石をドラゴンに向かって投擲もした。もちろん距離的に届く事は無いのだが、アピールは成功しているはずだ。しかし、こちらに向かって威嚇とも思えるような咆哮をするのみで、ログハウスの屋根から離れる気配を見せない。
(くそっ、浅はか過ぎた作戦だったか……)
ジリ貧となり陽も完全に落ちれば、それこそ勝ち目はなくなるだろう。これからずっとドラゴンがログハウスの屋根に留まるのであれば、俺にはもうログハウスに戻る手段が無くなり、見知らぬ森林の中を彷徨わなくてはならなくなる。いや、その前に業を煮やしたレイハルドに首を刎ねられるだろうか。
ドラゴンの様子を確認するために、再びログハウスを確認できる距離まで前進していく。望ましいのは上から突っ込んできたドラゴンの目を短剣で突く事だったのだが、この際、横から突っ込んできたドラゴンの目を短剣で突く方向に切り替えていくべきなのだろうか。その場合、距離感を間違ったら俺の身体は一瞬で食い千切られる事だろう。木のクッション性をどれほどまでに信用していいのだろうか。ああ、無情。
「…………ん?」
ログハウスの向こう側。
自分と反対側の木々、地面近くの草木が不自然に揺れているように感じた。
「レイハルド」
「何? そろそろ仕掛けるのかい?」
背後から彼女の退屈そうな声が返って来る。であれば、あれは何らかの獣であろうか……?
「みー! みー!」
「みー」
(馬鹿野郎…………!)
咄嗟に大声が出そうになるが、どうにか声を抑え込む。
今まで存在をすっかり忘れていたが、二匹の緑が蔦を引き摺りながらログハウスに向かって呑気に歩いている。屋根にいるドラゴンの視線は完全に両者を捉えており、距離的に逃げる事も不可能だろう。今からこの場を飛び出し救いに行く事もやはり不可能である。訳の分からない存在ではあったが、見知らぬ間柄でも無かった。どうにか苦痛なく、一撃で安らかに殺される事のみを願うだけである。
「…………ほぅ――――」
レイハルドの感嘆を背後に、駆けだしている自分がいた。
絶対に自分の行動は間違っている。最適解は見であり、今更飛び出したところで何一つ事態は好転しないのである。ドラゴンと緑の距離は短すぎるし、ドラゴンが自分を先に狙ったところで緑が逃げ出す暇も大して与えられないだろう。屋根に佇むドラゴンは興奮したかのように「グルル……」と喉を鳴らしているし緑の二匹は「みーみー」言いながら嬉しそうに俺の方に進路を変える。まったく、何一つ合理的な行動がとれていない。むしろ、俺が出てきたせいで最悪の方向に転がっている気もしてくる。
「みー?」
「……っ馬鹿野郎ぉおおお!!!!」
滑り込むように二匹を両脇に抱え、そのまま慣性に任せてゴロゴロと整地された広場を転がる。自分を包む赤色が闇色に変化したことを察する。赤色が空に照る夕陽だったのか、それとも舞い散る血色だったのか、もうどちらでもよい。包まれた闇色はドラゴンの影か、それとも俺の意識の混濁か、もうどちらでもよい。ただ願うは俺を無事に食い散らかしたら、緑の二匹は見逃してやって欲しいという事だけであった。
――――
「…………」
「みー?」
意識は、ある。生きてる感覚はある。
しかし、全身を襲う生暖かい感触は一体なんだろうか。
ふと、瞑っていた両目を開ければ、全てが露となる。
眼前の赤色は巨大なドラゴンの口内である。ヌラヌラと塗れた粘膜からは涎がポタポタと漏れており、俺の全身を襲う生暖かさはドラゴンの吐息なのである。
噛まれる、もしくは食われる直前だという事は理解したのだが、なぜドラゴンは動きを止めたのだろうか。視線を周囲に巡らせれば、レイハルドは木々の合間からこちらを窺っているのみで手を出した気配は一切ない。明瞭になって来る全身の感覚から分かる事は、時はやはり動いているという事のみ。
「みー?」
「みーみーみー!」
「みー! みーみーみー!」
両脇に抱えていた緑色が、慌ただしく動き出す。
何がしたいのかと顔を向ける前に、白くて硬い物を頬に押し付けられた。
「みー」
「みーみー」
グイグイと押し付けるそれに遠慮は無い。
視線のみを動かせば、蔦に絡まった大きい球体を頬に押し付けられている事が分かってしまった。
(なる、ほどね…………)
そもそも、ログハウスの横に置いてあった卵と言うのは緑の二匹が持ってきたものだったのだろう。しかしその卵はドラゴンの産んだ卵であり、ドラゴンはそれを取り返しに来ただけの話なのだろう。答えさえ分かれば、なるほど馬鹿馬鹿しい話であり、つまらない話でもあった。
「みー!」
「『みー』じゃない。お前たちのせいなんだからな」
「みー?」
両脇に抱えられた二匹の緑は不思議そうに鳴くだけである。困ったものだ。
さて、それならば口を開けたままにしているドラゴンには卵を返さなくてはいけない。攻撃の手を止めたのは、自分が産んだ卵を巻き添えにするのを恐れたからに違いない。悪い事をしてしまった。
「すまなかったな。俺の責任でもある」
「キュルルルル…………」
ドラゴンの口元を撫でればこちらの意図が伝わったのか、ドラゴンが途端に大人しくなる。そのままログハウスの元へ歩み、地面に横たわる数個の卵をドラゴンの方に見せつける。
「ミタムラ、殺せ」
和やかな雰囲気を消し去る様に、淡白な言葉が場に響く。
「断る。元より原因を作り出したのは俺だ。卵を返して終わらせる」
「違う。いや、ドラゴンの件もあるが、まずは両脇の存在をこの世から消せ」
「なんだと?」
抱えられた両脇から逃れるように、もぞもぞと動いている二匹の緑。害意は全く感じられず、それどころかどことなく可愛らしさも感じない事も無いというか、良く見てないから未だにその存在を正しく認識していない部分もあるとはいえ、いきなり殺せと命じられる理由が全く分からない。
「お前のやる事は二つある。まず、飛竜を殺してお前の強さを私に誇示しろ。そして次はお前が両脇に抱えている『魔女の末裔』を排除して人間種の平和に加担しろ」
「言っている意味が分からないな」
「つまり、お前は魔物に加担するというのだな。なるほど、なるほど」
レイハルドが納得したというように何度も頷きを繰り返す。だが、彼女の発想は飛躍が過ぎているように感じられる。この世界で魔物がどのような悪行を繰り返しているのか、部外者である自分には全く想像も付かないが、だからと言って無害な存在を手に掛けて良い理由になるとも思えない。これは平和ボケをしている自分の日本人気質の悪い所なのだろうか。しかし、明らかに好意を見せている相手を問答無用で切り伏せるだけでは互いに遺恨を残すだけになりかねず、憎しみの温床になる。それともレイハルドは勇者を自称するだけあって、本気で世の中から魔物の存在を抹消しようとしているのだろうか。
「レイハルド、人間賛歌の世の中を作ってどうするつもりだ」
「勘違いしないでほしいのだが、私は人間賛歌をしているわけでは無い。悪人であれば人間ですら切り捨てる。むしろ、自分の利益の為に他者を蹴落とす貴族どもなど、真っ先に血祭りに上げてやりたいくらいだ」
「なぜ殺さない」
「魔物が先だ」
「その答えは答えになっていないだろう。君は勇者を自称しながら悪に順番を付けているのか? それなら、このドラゴンは何番目だ。この二匹の緑はどちらを先に殺す? 君の意にそぐわない言葉を発する俺はいつ殺される。明日か? それとも明後日か?」
「魔物の事になると君は多弁になるようだね。やはり魔物側の人間だったか」
「はははっ、レイハルドの前だと口が軽くなるな。やはり、通じ合っている者同士、と言った所か。君が俺の話に耳を傾けるのは、自分の中に揺らぎがあるからだろ? 俺だけを悪者にしようとするなんて、全くいけずだな」
「嫌味はやめてくれないか」
「なに、魔物が逃げる時間を稼いでるだけさ」
レイハルドとの会話を切り上げ、背後で卵を鼻先で転がしているドラゴンに目を向ける。早々に全ての卵を口に含むなり抱えるなりし、さっさと飛び去って貰いたかったのだが、どうした事かドラゴンは卵を転がす事に夢中の様子である。意味が分からないし、意図が読めない。
(………………)
「レイハルド、聞きたい事がある。君はドラゴンの卵は美味いと言っていたが、そもそもドラゴンの卵は流通しているのか? ドラゴンの卵は安易に手に入る物なのか? ドラゴンを倒せる人間は、この世界に大量に存在するのか?」
「ふーむ、君の着眼点はやはり面白いね。世間知らずの様に見えるが、物事の根本を捉えようと頭を働かせるクセがあるのかな。うん、やっぱり君は他の人間より強さに説得力がある。私に怯む様子も見られないし、まったく、どうして今まで出会う事が無かったんだ」
「それで、答えは?」
「飛竜の卵は稀少だが流通している。流通している卵は飛竜の巣、以外から運ばれてくる。上位種はともかく、飛竜を殺せる人間は少なくないが多くもない。しかし、飛竜を殺せる人間は飛竜の卵を求めない」
「分かりやすい説明ありがとうございます。おかげで納得が出来ました」
両脇に抱えていた緑色を地面に降ろす。卵を持っていた緑色は、持っていた卵を地面に降ろすと同時にトコトコとログハウスの中に入って行ってしまった。残されたもう一匹はキョロキョロとあちらこちらに視線を向けるだけで、この場から離れようとしない。
「要は、有精卵か無精卵かって話だったんですね」
「ああ、そうだよ。巣から離れた場所に捨てられる無精卵はともかく、自分の赤ちゃんは大事だよね」
「最初から、分かっていた? 私を試そうと?」
「そう、試そうと」
悪びれる気も無く微笑むレイハルド。
しかし、悪気が無いからと言って人を試すような事をしても許されるのだろうか。俺は本気でドラゴンを恐れたし、本気で殺されるかとも思った。神経が張り詰めているからこそ気丈に振る舞えているだけで、身体も精神も摩耗しきっている。
「しかしミタムラ、私の『魔物を殺すべき』という主張は未だに心変わりをしていないよ。その件についてはどう思っている?」
「個人的に同感は出来ないが、その意志に救われてきた人々がいるのは事実であると考えられる。だからこそ君は勇者を自称しているわけだし、ある程度の知名度を得ているのだろう。それなら、私の知らない場所でこれからも頑張って、と言うしかない」
「違うだろ、お前は乙女心が分かっていない。そこは『これからは自分も手伝うよ』だろ」
「私が、手伝う……?」
「お前は常識が足りていないが知見に富む。私には和平の為に魔物を切り殺す事しか出来なかったが、お前ならもっと根本的な部分、世の中の悪意や非道徳な部分を正す事が出来るように感じる。もう一度言うが、私の手足となって働くべきだ。人付き合いが煩わしくなって世捨て人になった気持ちは分かるが、私と言う知己の友が出来たのだから悩む必要もないだろう。と言うか、私も休息が欲しい」
突拍子も無いアイデアに言葉が出ない。そもそも、自分は勇名を広める事に一切興味が無い。魔物と争う力があるわけでもないし、知恵があるとも思っていない。俺が自信を持って主張できる事は菓子職人として菓子を作る事であって、世の中をどうこうする事では断じてない。
「何、今すぐに答えを求めているわけでない。多少の時間が必要な事は分かっている。お前が霊峰に籠っていた間に世間がどのように変わったかを確認する必要もあるだろう」
「あ、ああ…………」
釈然としないままに返事をするが、どうした事だろうか。
「みー、みー」
ふと、足を叩かれた。
緑が足を叩きながら、ドラゴンの方へと引っ張ろうとしていた。
「ん? ああ…………」
意図してる事が分かり、卵の方へ向かう。
その中から最初に持ち上げた卵をドラゴンの目の前に運んでやる。
「それが、子供か?」
「ああ、最初に持ち上げた時、弱弱しくも鼓動を感じたので」
鼓動を感じた。つまりはそう言う事なのだろう。ドラゴンの目の前に置いた卵を緑が無遠慮にペシペシと叩けば、少しづつ罅割れが生じる。
そのまま少々の間をおけばバリバリと卵が還り、中からピーピーと鳴く子供のドラゴンが姿を現すのだった。還った子供ドラゴンは窺うように周囲の様子を確認した後、親ドラゴンの視線もそのままに、パタパタと小さい翼を羽ばたかせ、そのまま夕闇の中に飛んで行ってしまうのだった。
「…………? おい、お前の子供が飛んでったぞ」
「飛竜は還れば別々に生活を始める。親の役目は卵から無事に還る事を見守るまでだ。あとはまた、勝手に生活を始めるさ」
「…………おい、じゃあなんでこのドラゴンはこの場に留まる」
「魔女の末裔に聞いてくれ」
緑に目を向ければ、ドラゴンに向かって「みーみー」と何かを訴えている。ドラゴンも何かを納得しているのか「グルル」と返事をし、何らかの意思疎通をしているように見えた。
「まあ、明日まで留まっていればお前に懐いたという事だ。明日になれば分かる」
「お、おい……」
「お前もしつこい奴だな、寝室はあるのか? 夜も更けるしお前のベッドを使わせてもらうぞ。そして気付いていないのかもしれないが、お前は大幅に気力も体力も消耗している。栄養を取って今すぐに休むべきだ。なに、寝ている隙に魔女の末裔を殺そうなどと微塵も考えていないよ。だから安心して休息をとり給え。おやすみ、ミタムラ」
彼女の言ってる事は全く以て正しかった。自身が疲労していると自覚を持ってさえしまえば、あとは身体は鉛のように動かなくなる。足腰は途端に重くなるし、意識は朦朧としてくる。彼女は栄養がどうのと言っていたが、何かを作る気力も食べる気力も残っていない。何なら今すぐに、眠ってしまいたい。
「みーみー」
這うように玄関から応接間に入れば、先に中に入っていた緑が何をするわけでもなくソファに行儀良く座っていた。しかし、こちらを確認するや否や、「みーみー」と騒ぎ始める。
「みーみーみーみーみー」
「みーみーみーみーみー」
「みーみーみーみーみー」
「みーみーみーみーみー」
ソファに寝転べば、途端に眠気が襲ってきた。それにしても、耳元がみーみー騒がしくて発狂しそうである。そう言えば、ログハウスの中に光源など無かったと思ったが、レイハルドは平気なのだろうか。陽が完全に落ちれば、室内は一気に暗くなってしまうだろう。ああ、それにしてもみーみーうるさいな。
「ミタムラ、おやすみ」
寝室の方からレイハルドの声が聞こえてきた。その声を聴いた自分は、唐突に意識が朦朧としてくるのを感じる。彼女の声から、言いようの無い安心感を感じてしまった。やはり、別世界。なんだかんだと言いながら、自分は寂しさを感じていたんだろうな、と思った瞬間、意識は完全に途絶えるのだった。