6話 奇縁の境目
木々の合間を巡り、野生動物によって傷つけられた樹木が無いものかと目を凝らして捜し歩く。適当に目星を付け、手に持つ短剣で表皮を削り落としても良かったのだが、やはり自分はアウトドア初心者なのである。雑誌やネットで目にした情報を頼りに手当たり次第に物事を試すより、自然の摂理の赴くままに行動した方がおそらく上手くいくのだと、自分の心はそう囁いていた。
「…………あった」
数十分の散策の後、見上げる樹木の幹には銀色の身体を鈍く動かす甲虫が数匹いた。何が原因か、縦の裂傷が目立つ幹にはうっすらと湿り気が見える。餌を求める甲虫の邪魔をしないように手を伸ばし、表皮を指でなぞれば、躊躇なく口に含める。想像通りのうっすらとした甘みが口の中に広がった。
「…………」
さて、樹液の出そうな木々はおあつらえ向きにも白樺に似た白い樹木であった。
理屈通りなら穴をあけてホースを繋げば樹液がゆっくり滴り落ちるのだが、季節が少々よろしくない。冬の間に樹木が蓄えた栄養素を、芽吹きの前に回収するのが樹液搾取のコツなのだ。木漏れ日と体感温度を考えれば心地良い春陽気なので、もしかしたら樹液なんて数滴程度しか回収できないかもしれない。
「ま、物は試しと言いますか」
グチグチ考えても仕方が無い。
やってダメなら他の方法を考えるだけの話である。
なれば自分の選択肢は、必要な道具を探す為にログハウスに戻る事しかあるまい。
――――
「あのっ! 助けて下さい!! 追われてるんですっ!!」
樹液確保の為の仕掛けを作り終えた自分がログハウスに戻れば、見知らぬ女性が声を掛けてきた。ログハウスに寄り掛かるように座っていた彼女は自分の姿を確認するや否やこちらに駆け寄り、もたれかかるように身体をこちらに預けてくる。
何者かから必死に逃げ回っていたのか、背中まで伸びた栗色の髪の毛は彼女の吐息同様に乱れきっていた。身に纏う衣類は所々破れており、枝葉がまとわりついている。
「すみません、両手が塞がっていますので片付けてからで宜しいですか?」
「あっ、はい。お忙しい所すみませんでした……」
彼女は了解の意なのか、身体をこちらから離す。美しい顔立ちが赤らんでいるのはやはり息が上がっているからだろうか。先んじて水場の位置を教えようかと悩んでいれば、彼女が口を開く。
「あ、あの、なぜ上半身裸なのでしょう? 片手に持つ槍はどのような目的で?」
「樹液採取の為に少々。作業をしている内に暑くなったので、上半身だけ脱いでしまいました」
「樹液…………」
見せるように左手に持つシャツを差し出せば、彼女の口元が歪むように動いた。
それより、右手に持つ槍である。男にとっては多少のロマンではあるが、女性にとっては単なる暴力にしか見えないだろう。初対面早々、物騒な人物だと勘違いされても困る。菓子職人は女性を怯えさせる職業では無い、女性を笑顔にする職業なのである。
玄関の陰に槍を立て掛け再び彼女の前に立てば、女性は困惑の表情をこちらに向けるだけであった。
「あ、あの、私言いましたよね。追われているんですけど」
「どなたにですか?」
「はぁ?! どな……?! っ、あっ、敵! 敵に追われてるんですって!」
「敵……? 大よその人数は…………」
「いっぱい! 大勢の人間に追われてるんです! だから助けて下さい!」
再び彼女が駆け寄り、もたれかかるように身体を預けてくる。
胸元に顔をうずめた彼女の口元からは呻き声が聞こえてくる。おそらく恐怖を思い出しているのだろう。
「わかりました、私に任せて下さい」
彼女を抱きかかえ、玄関から応接間に向かう。
そのまま彼女を柔らかいソファの上に横たえれば、自分に出来る事はもう何もない。
「ここにいれば安全です、温かい紅茶でもお飲みになりますか?」
言ってから自分の失態に気付いてしまった。厨房には茶葉など置いていない。ましてやガスコンロも無い為、お湯を作るのにも手間取ってしまう。安らぎを求める女性のエスコートすら上手く出来ないなんて、自分の無力さに打ちひしがれてしまう。こんな事なら真っ先に茶葉を探し求めるべきであったか。
「あ、安全って……」
「相手も男がいると分かれば、安易に手は出してこないでしょう」
「…………えっ、あの」
「警察を呼びましょう」
「け、けいさ……?」
「スマホはお持ちじゃないでしょうか? ならば、人気のある場所まで一緒に――――」
「………………」
彼女は自分の言葉を待たず、身体を起き上がらせる。
先ほどとは違い、何かを見据えるようにこちらを見つめてくるのはどうしてなのだろうか。
「すみません、怖いので何か武器などありませんか?」
「短剣で良ければ」
腰に差していた短剣を彼女に差し出せば、何の躊躇も無く彼女はそれを取り上げる。
興味があるのか、ジロジロと短剣に視線を向けている。柄を確認し、刃の両面に鋭い視線を走らせている。まるで、工房で働く刀匠のようである。彼女の真剣な様子に自分は声を掛ける事も出来ない。
「この短剣で、自分が刺されるとは全く考えていない? 私が強盗の仲間で、嘘をついている可能性は?」
「その発想はありませんでしたね」
「なるほど…………」
彼女が納得の声を出したと同時に、ソファの前に置かれたテーブルが宙を舞った。
突然の展開に頭と身体が連動してこない。『ぶつかるっ!』っと思った瞬間にテーブルは自分の顔面を襲い、慣性のままに後ろに仰け反ってしまう。
誰かに首元を掴まれた感触がある。そのまま力づくで引かれれば、自分は何の抵抗も無く床の上に横たわる事となる。即座に腹部と両腕に圧迫感、焦点をどうにか合わせれば、眼前に短剣を突き立てられてる事に気が付いた。
「どうして抵抗をしないの? 自分は死なないとでも?」
「咄嗟に動けるほど、俊敏じゃないので」
「それは嘘」
自分の本心を一刀両断にされてしまえば何も言う事が無くなってしまう。それより、時間の経過と共に身体の痛みが明確になって来る。まず、彼女に抑えつけられているであろう両腕の解放を望みたいのだが、何と言えば彼女は素直に従ってくれるのだろうか。そもそも、彼女が言っていた『盗賊の仲間』という言葉は本当だったのだろうか。
「ここまでお膳立てしたのに、お前は何もしてこないな」
「この体勢から私に何を望むのでしょう。それと、その口調が本来の、と言う事で?」
「ええ、もう隠す必要もなくなったから」
「貴女の正体が盗賊と言う意味合いで?」
「それは嘘。正義の化身である私がそのような不埒を行うわけがないじゃないか」
「正義……」
「お前、もう詰んでるだろ? 死ぬ前に正体を現しても良いのでは?」
いつの間にか会話のキャッチボールがあらぬ方向に飛んで行ってる事に気付いてしまった。情報量が少なすぎて彼女の目的が一切伝わってこないのだが、眼前に光る短剣の刃は存在感をどんどん増してくるわけで、それを握る彼女の顔には言いようの無い笑みが浮かび始めている。
「…………貴女の目的が分かりませんが」
「正義、と言ったよね? 私の仕事は人間種に仇を成す魔物を狩る事なんだよ。最高に正義だよね」
「そんな貴女が、なぜ私を?」
「魔物の確率が高い、と言う理由では不満かい? お前は自身が人間だという証明をできるのか?」
「できますが」
即座に断言を返す。おそらくここで言い澱めば、自分の人生はどのような経路を巡っても『死』に繋がっただろう。組み伏せた男を魔物寄りと疑っているにも関わらず彼女が多弁なのは、決め手を探しているからだろう。であれば、時間をかけての説得は悪手になる。彼女が自分からの説明を『時間稼ぎ』と判断した瞬間、その刃をこの身に突き立ててしまう可能性が高い。
「ほぉ…………」
彼女が嬉しそうに声を上げ、身体の拘束が緩められる。
「じゃあ、疑いを晴らしてくれよ。私だって無益な殺傷はしたくないからね」
――――
「まず聞きたいのですが、貴女が私を魔物と睨んだ理由が聞きたいですね」
正したテーブルを挟むようにソファに座り直す。眼前の正義の申し子はソファの上にて寛ぐようにして座っており、自分がどのような言葉を発するのか楽しむかのような表情をしている。外面的には笑っているのだが、些か気分が悪くなってくる表情である。
「そうだね。普通の人間だったら、助けを求めた女性に手を貸さないか?」
「貸しますね」
「だろ? だから私は弱弱しい女性のフリをして、お前にアプローチを掛けてみたんだ。しかし、展開は思いもよらぬ方向に転がっていく。お前は私を助けるどころか、家に連れ込んでしまったんだ!」
「室内の方が安全ですからね」
「…………その発想が私には納得できない。敵がいるならば、相手を制圧すべきだろう」
「弱弱しい女性をその場に置き去りにして、敵を制圧しに行くべきだと?」
「お前なら出来るだろう?」
ここである。彼女のこちらに対する評価がまずおかしい。平々凡々な菓子職人が多勢の暴力に有効である話など、まったく聞いた事が無い。
「先ほどもそうですが、なぜ私を過剰に見積もっているのでしょうか?」
「過剰? いや、謙遜は止めてくれ。『この地』にいるお前が弱者なはずがないだろう? それともお前は認識していないのかい? じゃあ、口に出して言ってみろよ。お前はどこで生活しているんだい?」
「どこかの山奥、でしょうか。森林地帯だとは把握していますが」
「そう、霊峰セファードだ。前人未踏の秘境と呼ばれる神聖であり残酷な場所だ。神隠しの魔女や鋼鉄のドラゴンが徘徊する、誰も立ち入る事の出来ない魔境だ」
(なるほど…………)
なんたる奇縁か、本来であれば普通の人間が生活できないような環境で自分は生活を始めてしまっていたらしい。この地に移動してしまった自分の不運さを嘆きたくなってもくるのだが、泣き言を言っている暇も無いだろう。
「――――さいよ……」
「ん、どうかしたかい? 何か最期に言い残す事でも思い出したのかい?」
「放っておいてくださいよ、と言ったんです」
偉そうな態度の彼女に、言い放ってやった。
否、自分が助かる最適解は、おそらくこれなのだろう。目の前の彼女は、どういうことか自分の事を何らかの猛者だと勘違いしている節がある。それであれば、それに乗っかるのが一番手っ取り早い。答えの無い言い争いをしたところで、自分が人間である証明を彼女に見せる事は難しい。であれば、最初から盤面を投げ出してしまえば良かったのだ。
「ふ、ふふふふ…………」
呆気に取られた彼女の口から、小さな笑いが漏れ始める。
畳みかけるなら、今しかないか。
「まったく、やってられない! 人付き合いが煩わしくなったからこの地に安住を求めたのに、それすらも許されないというのか。まったく、勘弁してもらいたい。私が何か試されるような悪さをしましたでしょうか? それとも、物珍しさの為だけにちょっかいを掛けたとでも?」
大袈裟なジェスチャーを加え、身を乗り出す。
内心の計算高さを看過されないよう、怒りの素振りを見せるのに必死になる。なにしろ、こっちは暴力と程遠い生活を送って来た日本男児である。強さとか弱さとか、そういう方面に話の舵を切り出されたら言い逃れる事も難しくなる。ならば話の辻妻とかそういった常識は一旦置いて、ゴリ押しでこちらの主張を一方的に言い捨てるだけであろう。
「い、いや、そうだな。く、くく。……わかる、わかるよその気持ち。人付き合いは面倒事が多い……」
笑いを噛みしめようとしているのか、「くくくっ」という声が彼女の口から漏れ出始める。
「いや、すまなかったよ。そもそも、お前の言う通りでもある。自分以外の人間を過小評価していた部分は、確かに私の中にもあった。私よりも早く、誰かがこの地で生活を始めるなど、到底考えが及ばなかった――――」
彼女の態度から険が薄まり、どうやら命の危機も去ったようである。
それならさっさと帰って欲しい。自分のボロが出る前に、彼女にはご帰宅を願いたいのだが。
「お前、いつからここにいるんだ?」
「『いつから』と言いますか、気付いた頃から生活を始めていましたよ」
「なんと、物心が付いた時から」
彼女は嬉しそうに頷いているのだが、それは盛大な勘違いである。
物心も何も、本当は今日からなのだから。
それより、彼女の口から自然に魔物と言う言葉が生まれ、何の抵抗も無く暴力的な行動も生まれたという事は、やはりこの世界の常識は多少なりとも自分がいた世界とは異なっていそうである。最低限の知識をどうにか収集しなければ、浮世離れした不審者と言う目で自分を見られかねない。
「自分の実力に自信があったからこその、余裕か。ふふっ、自分に近しい者がいるというのは、多少なりとも嬉しさが込み上げてくるな。ふふっ、出会いの証に名を交換し合おうではないか。言うまでも無いと思うが、我が名はレイハルド。自称ではあるが勇者をやらせてもらっている。名目とはいえ、自身を有名人であると紹介するのは少々気恥ずかしいな。ふふふ、久しい感情だ」
立ち上がり手を差し出す彼女、レイハルド。彼女の態度から察するに、彼女の勇名は世界に轟いているのだろう。であれば、初対面時の弱弱しい女性のフリをしたところで無駄だった気もするのだが、それは自分の気のせいだろうか。それとも、見え透いた演技に対する対応すら、彼女の判断材料だったのか。だからこそ、自分の事を『力を持つ魔物』と判断したのかもしれない。それならば咄嗟に世捨て人を選んだ事はあながち間違いでは無かったようである。なるほど、自分の運の良さに感謝を。
「おい、どうした。握手だ」
先ほどまでの陰険な態度は完全に無くなっており、二重人格なのか割り切りが早いのか、こちらでは判断が付き辛い。そもそも、短剣を突き付けてきた事に対する謝罪もその口から発せられていない。物事には順序があると思うのだが、職業戦士はそういう生き物なのだろうか。
「ミタムラ、です。職業は菓子職人」
「お前の名前、心に刻んでおこう」
力強く握手を交わす。繊細な指先は商売道具の為、あまり強く握って欲しくないのだが。
「さて、心強い同士も発見できたし、私は街に帰還すべきかな。お前はこの地に残るのか?」
「いや…………」
本音を言うなら、自分も街に行きたい。しかし、彼女のようなあくの強い人間と長時間共に歩くのも苦痛になりそうである。と言うより、共に時間を過ごす事で、俺が彼女にした説明に対する齟齬が生まれる可能性が高くなってしまう。残念だが、別行動をすべきだろう。
「いや、私は――」
「そうか、それは残念だ。見送りは玄関までで結構。次は手土産でも持ってくるさ」
「ハハハ」と軽快に笑いながら彼女は外に出ていく。
追うように表に出れば空は赤く染まりつつあり、夕闇が近付いてくる事を教えてくれた。
「おや、飛竜の卵じゃないか。お前のか?」
彼女の嬉しそうな声。目線を向ければ玄関の横に、数個の大きな卵がごろりと置いてあった。
大きさは自分の胴体ほどの大きさか。近付き触ってみると、ずっしりとした重量感を感じた。腰を入れて持ち上げてみると、中身が詰まってるのかやはり重たい。しかし、なぜここに卵など。
「なあ、一つ分けてくれないか? 飛竜の卵は美味だからな」
嬉しそうに寄ってくる彼女だが、卵の存在理由がまったく分からない。そもそも、彼女に言われない限り、これが卵だと気付かなかっただろう。自分の常識の中で最大の大きさの卵は、ダチョウの卵である。市販されている普通の卵の二倍近い大きさのダチョウの卵ですら大きいのに、このドラゴンの卵とやらはそれより更に大きい。前提として、この卵から生まれるドラゴンはどれほどの大きさなのだろうか。
「おっ、噂をすればお母さんの登場か?」
先ほどまでの穏やかな風が、徐々に変わってくる。
心地良く感じていたそよ風は力強さを増し、そして強風へと変わっていく。
木々が揺らぎ始め、赤く染まっていた空に大きな存在が照らされる。逆光行とは言え、その姿形から何者かは分かる。背中に生えた大きな翼が動きを見せる度に、自分の身体に強風がぶつけられる。
「ハ、ハ、ハ」
言葉の出ない自分とは違い、隣の彼女は掠れた笑い声を発してる。
掠れているのは耳元がゴウゴウと騒がしいからである。彼女の高笑いを掻き消すほどの強風と存在感に立ち尽くす事しか出来ないのだが、それは彼女も同じなのだろうか。相手はドラゴン、彼女も死を覚悟しているのだろうか。
「ハハ、ハハハハハハ…………!」
彼女の笑い声は止まない。
発狂してしまったのかとその表情を窺えば、彼女は純粋な笑顔を顔に浮かべているようだった。
「おあつらえ向きだミタムラ! 同士として、言わせてもらう! お前の強さを見せてくれ!!」
俺は自分の耳を疑った。
しかし彼女は俺の強さを疑っていないようで、満面の笑みをこちらに向けてくる。
相手はドラゴン、勝ち目など存在するのだろうか。
「ギュルルルル…………ォオオオオオオオオオオオオオ!!!」
こちらの決意など待つつもりも無いのか、ドラゴンが咆哮を上げ滑空を始めた。
目標は誰でも無い、この、俺か。