3話 不可思議な存在
ログハウスの裏に備えられた手押しポンプのレバーを力のままに上下させれば、ジョボジョボと井戸水が口から吐き出される。受け皿を用意していなかった為、吐き出された水はそのまま雑草の生い茂る地面に染み込んでいった。しかし、これで水の心配は必要なさそうである。救助が来るまでの水分補給はどうにかなりそうである。
残念ながら厨房に設置されている冷蔵庫の中身は空であった。食事の為の食器やカップは多少は置いてあったが、調味料なども一切なかった。つまり、調理をするなら一から自力で用意する必要があるのだろう。
調理とは言ったが、そもそもの食材はどうすれば手に入れられるのだろうか。自分がこの場所に置き去りにされている理由も意味も分からない。しかし、ログハウスに備えられている物品は全てが新品であるようだった。厨房内の道具や食器は当然として、寝室のベッドも清潔が保たれており、枕も型崩れしていない。
意図的なものを感じてしまうのだが、自分の知り合いにこのような大規模なドッキリをするような人物に心当たりは当然無く、考えれば考える程に奇妙な状況に背筋が震えてしまう。
それはそれとして、この状況の答え合わせが終わるまでは最低限生きていかなくてはならないのだ。頭を悩ませているだけでも空腹感は訪れるし、喉も乾く。であれば、可能な限り身の回りの状況を認識し、最適な行動を心掛けるべきであろう。
「みー! みー!」
続く様に「コン、コン、コン」と不思議な音が聞こえた。音の鳴る方は先ほどの手押しポンプである。子猫でもいるのかと顔を向ければ、そこには緑色をした二人の子供が存在していた。
「…………」
大きさはどれくらいか、二、三歳の子供よりもう少しくらい小さい程度だろうか? 動く度にヒラヒラと服の裾が揺れているが、上下どころか全身が緑で少々不気味である。頭から靴の先までほぼ緑である。箇所によっては薄い緑や濃い緑など違いがあるのだが、それにしても緑なのである。親のセンスが悪い。
「みー! みー!」
自分に気付いているのかどうなのか、一人は手に持った木の枝でコンコンとポンプを叩いており、もう一人は地面に染み込んだ水に顔を近付けて――――。
「っておい、そんな所に顔を近付けたら汚れるぞ!」
慌てたように二人の子供に近付いてみれば、二人の姿が明確に露になっていく。
揺れていた服の裾だと思っていたのは、長い髪が揺れていただけであった。そして、近付いた事で判明したが、衣類を身に纏っている様子が一切ないのである。二人は恐らく裸なのだろう、否、二人に洋服と言う概念があるのかも怪しい。そもそも、目の前の存在を人だと認識するのは間違いなのではないだろうか?
「…………みー?」
ようやく自分の存在に気付いたのか、木の枝を持っていた方がこちらを見上げるように顔を向ければ、目が合ってしまった。瞬間、自分が妖なる存在と相対していた事に気付いてしまった。
異端な存在に可能な限り動揺を見せまいと深く深呼吸をし、静かに後退る。
刺激を与えないように視線だけを動かす。地面に顔を近付けていたもう一匹はこちらの様子に興味が無いのか、地面に生まれた水溜まりの中に手を浸し、それを口元に近付けペロペロと舐めていた。
「…………」
「み? みー?」
自分の一挙一動が重く感じる。しかし、ジリジリと後退を続ける事によって距離を取る事は完了した。そんな自分の様子を見つめていた妖だったが、興味が薄れたのか視線は再びポンプに戻っていた。
(………………)
足音を立てないように早足でログハウスに戻れば、厨房へ向かう。ログハウスの内装は実にシンプルであった。玄関があり、応接間があり、寝室があり、厨房があるだけである。
簡素で生活しやすい空間であるが、一際に厨房は自分が落ち着く空間である。水でも飲んで落ち着こうと計量カップに手を掛けるが、厨房内に水道が無い事を思い出した。頭を掻き毟りながら調理台に腰を寄り掛からせれば、思考の整理を始める。
(――――聞いてないぞ……)
思う事はいくらでもあるのだが、頭に浮かぶ言葉はそれだけであった。
何に対する怒りなのか、自分でも把握出来ない。しかし、聞いてないのである。
(…………食事に困ってるからとは言え、焼いて食べるのは猟奇的すぎるか?)
まず、見た目が悪すぎる。色はさておき、外見が人間の子供なのである。
二匹の背後で包丁を振り上げた自分の姿を想像する。その身体に刃物を突き立てれば、断末魔のように先ほどの声が響き渡るのだろう。悲鳴的な「みー!」の声を聞き届けた後、罪悪感も無くその肢体を捌けるものなのだろうか?
否、自分は菓子職人である。才覚に恵まれたとは言え、人を笑顔にする為に始めた仕事である。正体がどうであれ、人の形をしている相手を手荒く扱う術を自分は持っていない。
「ふぅ……」
落ち着いて考えれば、先ほどの二匹も自分に対して悪意を持っているようには感じられなかった。
可能性としては、先住の存在なのだろう。このログハウスは、年期的に最近建てられたもののはず。それを不思議に思った二匹が見に来た、程度の話なのだろう。きっと。
であれば互いが求めない限り、争いが生まれる事も無さそうか。
「…………水でも汲んで来るかな」
計量カップを片手に、玄関を抜ける。
自然な足取りで裏の手押しポンプの元へ向かえば、既に先ほどの二匹はいなくなっていた。
『ガコっ』とレバーを押せば、冷たい井戸水が流れ出す。
手に持った計量カップに注いで口に含ませれば、新鮮な水の味を感じられる。二杯、三杯と水を飲む事で落ち着きを取り戻す事が出来た。穏やかな風を感じ、今後を思い巡らすには十分な一時であった。