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2話 訪れた異邦の世界

 ライトに目元を照らされているのか、眩しさを感じる。

 それと同時に、柔らかい暖かさも感じてしまう。まるで、季節外れの春陽気だ。


「…………! 寝過ごしたか……?!」


 一瞬で意識は覚醒した。製菓の為の下準備など一切していない。クリスマスが過ぎたとはいえ、それでも来客が無くなる事は有り得ない。着替えもしていない事を思い出し、慌てて立ち上がり更衣室へ向かおうとしたのだが、目の前の光景に違和感を覚えてしまう。


「…………?」


 内装が違うのだ。

 先ほどまで自分が座っていたテーブルに目を向ければ、それはテーブルでは無かった。

 自分の頬を触れば、ひんやりとした冷たさを感じられる。自分が頬を付けて仮眠していた場所は飲食スペースのテーブルではなく、厨房の調理台であった。完全に意味が分からない。自分はそれほどまでに仕事人間だったのだろうか。

 しかしそもそも、ここは自分の知っている厨房内ですらない。壁や床は木造でまるでログハウスだ。それなのに調理台や冷蔵庫等、厨房機器や備品の類はパッと見た限り上質で新品の道具が取り揃えられていたのだ。


「明晰夢の類……か……?」


 窓から差す陽射しは明るい。明るいのだが、そこにはガラスが嵌められていない為、窓と言って良いのかすら分からない。外から鳥の鳴き声が聞こえてくる。現実感の無い、突然の状況に頭がまったく働かない。

 一旦冷静になろうと洗顔の為に厨房内を再び見渡すが、やはりシンクが存在しなかった。調理場なのに水道の類が無いのが意味が分からない。いや……水道だけでは無くガステーブル(コンロ)もないじゃないか。


「…………」


 鬼が出るか蛇が出るか。内装が分からない為に視線の先のドアがどこに続いてるかも想像が付かない。しかし、厨房内で出来る事も無さそうであり、つまりは物事を進展させる為にもドアの先に進む事は必要な事なのだろう。そもそも今は何時でここはどこなのだろうか。呼吸を整え、ドアノブに力を入れれば何の抵抗も無くそれは開き、目の前にはベッドとロッカーの置かれた一室に繋がるのであった。


 まったくもって気が抜けてしまった。本当にここはどこかのログハウスなのではないか? なぜ自分がこの場に居るのか、という疑問は尽きないが、身に危険は無さそうである。それならば、早々に現状を把握するのが先決である。もしかしたら本当にこれは明晰夢であって、数分後に自分の目が覚める可能性もある。それならば、この異体験で感じた事を菓子作りに生かせる可能性もある。


「…………ふ、ふふっ」


 思いがけず、楽しくなってきてしまった。

 冷静な判断さえ取り戻す事が出来たのなら、職人気質として先立つのは好奇心である。この夢の先を、少しでも長い時間見続けたい。夢ならではの幻実感を一身に感じるべきである。

 大なり小なり、自分の感情や記憶、経験は自分の創作物に目に見えて現れる。苛立ちの混じった気持ちの時に作った洋菓子は時にほろ苦く、上機嫌な気持ちの時に作った和菓子は唐突に甘い。

 だからこそ、製菓の際は自分の感情を完全に無にする事が求められる。精密な機械の様に、同じ工程をひたすら繰り返すのである。自分の気分次第で味を変える菓子職人(パティシエ)は、三流以下である。それが個人店の醍醐味と主張する同業者もいない事は無いが、味のコロコロ変わる不出来な完成品なんぞ、二度と出会えない幻に過ぎない。しかし、感情を追求した先にある製菓こそが唯一無二の完成品でもある。三流と一流が紙一重の世界。だからこそ製菓は奥が深いわけで……。



 ――――ドアを開き、外の世界と対面する。



 まず目に入るは一面の木々であった。密集した木々ではあったが、背はそこまで高くは無いのか天から差す太陽の光が木漏れ日となって自分の身体を照らす。左右を見渡すが、整地された部分は自身が出てきたログハウスの周囲だけであり、そこから一歩でも足を踏み出せば雑草や朽ち木が自分の足元に絡み付き自由な歩行を妨げるのだろう。

 簡単に言えば、人の行き来の感じられない完全な僻地である。今まで自分が営んでいた大通りから外れた店舗なんて可愛いものである。このログハウスは完全に外界から隔離されているようで、自給自足を好むキャンパーでさえ苦笑いをしてしまいかねない。


「…………」


 自分は自然が嫌いなわけではないが、文明人として生きてきた以上、完全な自給自足は苦手である。

 苦手と言うか、そもそも経験が無い。学生時代に登山部やアウトドア部に所属していたわけでもないし、社会人になってからは長期の休みすら取った記憶が無い。つまり、この場で自分が出来る事は何もないのだ。


 自然派の菓子職人(パティシエ)なら喜び勇んで新感覚をその身に詰め込んだであろうが、お生憎にも自分はそのような方面の感覚を取り入れられそうにはない。ほとほと残念な事だが、この明晰夢で得られる経験は何も無さそうである。であれば、これ以上の夢は必要ないのであり、直ちに目を覚ます必要がある。


「――――さよなら、イメージの世界」


 明晰夢など滅多に経験出来る事なのだろうか? しかし夢を見ている場合、脳は十分に休めていないのだ。明くる朝から始まる業務を考えれば、休息は大事である。そもそも、自分は閉店後に仮眠を取っているだけなのだ。片付けや帰宅の事を考えれば、このような妄想に付き合っている暇など毛頭ないのである。



 ――――厨房に戻り、調理台の上に頭を預ける。



 静かに目を閉じ、意識を沈めていく。ガラスの無い窓から差す陽射しが鬱陶しいのだが、夢の世界と考えればすべては幻なのである。陽射しの眩しさは飲食スペースの蛍光の光であり、感じる暖かさは店内を暖かくしているエアコンの温風なのだ。

 明晰夢、不思議な経験だという実感はあるが、案外そうでもないのかもしれない。明日にでもシフトに入っているバイトの子にでも聞けば、もしかしたら多少の話題にもなるか、も、な――――。



 徐々に思考は淡々と進み、完全に落ち込んだ。

 当然の様に夢の世界は終わる。次に目が覚めたら後片付けが始まる。



 そう思い込んだ男の意識が覚醒し、再び眼を開いたところで、存在している視界はログハウスの様相(ようそう)であり、やはり見ず知らずの厨房内なのであった。

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