1話 彼の者は菓子職人
「てんちょ~、お疲れで~す。バイト代ありで~す♪」
忙しかった冬の日々は終わった。バイトの女子高生が入り口に掛けられた木製プレートをカラカラ鳴らしながら出ていったのを見届ければ、息を吐き、大きく伸びをする。
窓には薄く結露が出来ていた。目を凝らせば外には何かが降っている。
雨だろうか、それとも雪だろうか?
クリスマスな事もあり、売り上げは上々だった。大通りから外れた場所に建てられた店ではあるのだが、有難い事に客足に困った事は無い。大々的な告知や宣伝をした事も無く、マイペースで働きたいという消極的な理由なだけで前の職場から独立したはずだったが、世の中の口コミは自分が予想していた物より壮大なスケールなのだという事をその身に感じてしまう。
ショーケースに残った洋菓子を取り出し、飲食スペースに置かれた小さなテーブルに置く。三卓ほど設置したテーブルは仕事帰りのOLや部活帰りの学生など、日々に疲れた女性客が疲れを癒すかのように利用する事が多かった。壁に視線を向ければ額縁に飾られた数枚の賞状や、有名人・アイドル等と撮ったツーショットの写真などが飾られている。独立当初は訪れたテレビの取材にも応じていたが、今考えれば愚かな行為だったとも思える。マイペースに働く目的で独立したはずなのに、メディアの影響力を深く考えていなかった自分に嫌気が差す。今の状況を前職場のオーナーが見たらどう思うのか。笑うのだろうか、呆れるのだろうか。
「休みが、欲しい」
純粋な気持ちだった。
元より、不定休でやらせてはもらっている。しかし、日本には様々なイベントがあり、そのタイミングに人々は手土産として洋菓子や和菓子を求める場合が多いのだ。
クリスマスは終わったが、一か月後にはバレンタインの準備が始まる。それが終わってもホワイトデー、入学式のお祝いや、イースターもある。母の日や父の日に小洒落た菓子を渡す人も少なくない。夏になれば冷菓子が求められ、秋になれば季節感のある菓子を求められる。日本の製菓技術が世界レベルなのは素晴らしい事なのだが、生活に密着しすぎていて休む間もない。
『そこまで言うのであれば、手を抜いて休めば良いのでは?』と思われるのも仕方が無いかもしれないが、わざわざ店頭まで足を運んでくれた来客のがっかりした顔を見る事を、自分は良しとしていない。ショーケースを見た際に生まれる一瞬の困惑と、諦めの入り混じった困った笑顔。菓子職人として、それほど失望感に苛まれる事はないだろう。自分の仕事の誇りを失った瞬間、自分は何者でもなくなるのだろう。
「……温泉に行きたいな」
そうは言うがな、働けば疲れるのである。手元の洋菓子を口元に運びながら、無になる。
口に生まれた甘味が、糖分が、脳に運ばれる。多幸感が生まれると同時に、全身の疲れを感じてしまう。
店の外は静寂である。人通りは完全に無くなっており、行き交う賑わいも無い。外気温の低さは雨のせいでは無く雪のせいなのだろう。それならば、静かな事にも納得がいく。
このまま目を閉じればすぐにでも眠ってしまいそうだ。
店の施錠は済ませただろうか? しかし、ドアに掛けられたプレートは「close」になっているはずだ。
今更、店に入って来る人などいるまい。片付けなど後回しにして、身体が求めるままに自分は、僅かな休息に身を沈める事を選んでしまうのだった。