序話 これが彼らの存在感
本来、静寂が守られていた人気の無い洞窟。
しかしながら本日は様相が異なっていた。誰も踏み込まず、禁忌とされる霊峰の麓に存在する深い闇への誘い。大きく口を開けた洞窟は、未踏破の聖域であった。
数刻前に足を踏み入れた大人数の集団は、国営の調査隊である。
資源の確保の為からか、それとも国土を広げる為からか。
前人未踏の洞窟への一歩を踏み出した者の顔付は、やはり様々であった。使命感に燃える者、まだ見ぬ秘宝に夢を馳せる者、恐怖と緊張で顔を強張らせている者。しかし共通点として、冒険者である彼らは選抜試験を突破した猛者である事に間違いは無かった。
「金目のモンは折半で良いんだよなァ?」
「……ええ。魔物の死骸含め、未調査の存在に関しての権利は五分です」
見ただけで業物と分かる長剣を腰に二本差した男が、作業着を着ている調査員に軽薄そうに話し掛けた。集団の中では一番の緊張感の無さを見せている男。周囲の迷惑を気にした様子も無くふらふらと自由気ままに歩いている。不揃いな長髪は後ろで結わっており、身に着ける防具にも金額を掛けているようには見えない。
冒険者としての正装、命を守る鎧や鎖帷子を身に着けるでもなく、魔術師が好むローブを身に着けるでもなく、浮浪の民と見間違えそうな風貌。異質を放っており、場違いな存在に違いないのだが、選ばれた冒険者の中でも一際の実力者だという事は誰もが理解していた。
「貴公……野暮な事は言わんが、調査隊に同行できる栄誉を理解するべきだ」
「へいへい」
そんな達人に注意をする大男。全身を頑強な鎧に身を包み、更に背中にも盾を背負っている。
彼は側を歩く三人組のリーダーであった。堅実な性格である彼は防戦一辺倒の持久戦を得意としており、誰もが傷付かない戦法を得意としていた。それは超人的な読みにより相手の攻撃を完全に防ぎきるという単純明快な方法であった。『相手の攻撃さえ防ぎ切れば負けない』を主軸とした動きは仲間を完全に信頼しているからこそであり、事実、彼らのパーティの被弾率は目を疑うほどの低さなのであった。
「これが噂の剣聖……失望しました……」
「おい嬢ちゃん! 俺の悪口は俺のイネー所で頼むぜェ?」
悲し気に呟いたのは年端もいかぬと思わしき一人の少女。ぶかぶかのローブをはためかせ、両手で持っている自身の背よりも長い大杖を『ぎゅっ』と握り締めた。
彼女が握る大杖には輝かしい宝石が飾られ、精巧に文字が彫られていた。広大な領地を持つ貴族が『是非とも欲しい!』と口にしたところで到底支払える額では無い、正真正銘の秘宝であり類を見ない一級品であった。
それを扱う少女もまた、類稀な素質を持った魔術師である。国立の魔法学校を飛び級で卒業した彼女は早々に最上級のパーティに組み入れられた。そこで一般常識等、冒険者として英才教育を施すつもりであったのだが、数日にして少女は格の違いを仲間に見せ付けてしまい、早々に立場の逆転劇が起こってしまったのである。冒険者として未熟ではあるが、魔術師としての力量は既に歴史に名を刻む事を疑われていなかった。今回の調査隊への参加も自身に箔をつける為であり、少女が突き進む覇道の一ページにすぎないのだろう。
和やかな雰囲気で調査隊に同行している彼らは選ばれし冒険者である。
誰よりも力強く、魔力に秀で、知見に富み、勇猛であった。
冒険者の堂々とした立ち振る舞いは、調査員に安心感を与えていた。
生態不明のモンスターが現れようと、どうしようもない罠が立ち塞がろうと、死線を生き延び選抜試験を突破してきた彼らさえいれば、自分達は生き残る事ができるのだろうと、安心しきっていた。目の前で仲間の身体が爆散しようと、正体不明の靄を吸い込んだ仲間が突然発狂しようと、足を踏み外した仲間が奈落に落ちようと、自分だけは生き延びるものだと、妄信する事しか出来なくなっていた。
彼らが後悔したのは、遂に大きな空間に立ち入った瞬間である。
はじめは三十人ほどいた集団も、既に三分の一しか残っていなかった。しかし、撤退するタイミングを完全に逸した彼らは前に進むしかなくなっていた。
『手ぶらで帰れるはずがないだろう!』
『彼らの死を無駄にする気か!』
誰が言ったか覚えていないし、言った本人は既に死んでいるのかもしれない。
しかし、時すでに遅しなのである。彼らの眼前にはとてつもなく巨大な、四つん這いで大きな肢体を震わせる、全身を赤黒い鱗で覆った未知なる魔物が存在していた。見た目通りの鈍重な生き物であれば勝機はあるかもしれない。しかし、そのような楽観は有り得ない。見た目とは裏腹な存在がこの洞窟には多すぎたのである。志半ば、後悔を呟く間も無く、魔物が彼らに振り向いた。
――――
「じ、自分が気を逸ら――――」
思考が停止し、身体が硬直した仲間を鼓舞する様に声を上げた冒険者の一人が、言葉を終えるよりも先に赤黒い模様に変化した。巨大な魔物が彩られた床から前足を動かせば、「ぬちゃり」とした音と共に残骸が目の当たりになる。数分前まで笑い、怒り、生き延びる事を誓った仲間の変わり果てた姿がそこにある。どう見ても即死であるが、痛みも無く散れた事は結果として、幸運だったのかもしれない。
道中、剣聖は死霊に取り付かれ、意識が残ったままに己の両腕を喰い千切り始めた。皆が必死で止めようと身体を抑え込もうとしたが、到底信じ難いほどの力で振りほどかれ、顔面を剥かれ、片足を引き千切られ、喉元を食い千切られた。同行者を一瞬で亡骸に変えながらも、それでも剣聖の意識は明瞭としており、強張った顔を仲間に見せながら、懇願の言葉を呪詛の様に繰り返していた。
「助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ俺はまだ死にたくないまだまだまだまだまだまだ俺は俺は俺は俺は俺はああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
血涙を流しながら自身の指を一本一本と丁寧に噛み千切るその姿をまともな精神で見ている事は出来なかった。助けようと必死に回復の魔法を使おうが、対悪霊への聖水を投げつけようが、剣聖の動きが止まる事は無かった。全ての指を腹の中に収め、手の甲を口いっぱいに頬張り、腕の肉や筋、腱を血だまりの中で噛みしめる。手の施しようが無くなった数分後、一騎当千を誇った剣聖の両碗は見るも無残にこの世から無くなってしまったのである。
道中、魔法を巧みに操る少女は生きたまま蟲の苗床となっていた。突然に飛んできた数十匹の小さな甲虫に調査隊は為す術を取る前に翻弄された。剣聖が健在であれば、一刀違わぬ太刀筋で全てを斬り落としたに違いないが、運命の歯車は調査隊の味方をしなかった。
小さな甲虫は硬く疾い。弾丸の様に飛来したそれは運悪く少女の四肢に激突し、少女の肢体を支える骨を粉々に砕いてしまった。
その場に尻餅をつかざるを得なくなり、両腕両足を突然襲った痛みに『ぎゃ』と叫び声を上げる間も無く彼女の全身は頭上から襲い掛かった巨大な蟲に丸呑みにされてしまったのである。
百足の見た目をしたその蟲は、この場に集った冒険者の誰もが目にした事がある。何十匹、何百匹とも意識せずとも打倒せる存在、のはずであったのだが、未踏の洞窟で突然変異を起こしていたのか、その甲殻に効果的な一撃を浴びせる事は最後まで不可能だったのである。
変異体とはいえ、元は同じ生態だろう。蟲は対象を生きたまま丸呑みし、幼蟲の苗床とする。蟲の体内で生成される毒は痛みを麻痺させながら四肢を溶かし尽くし、無抵抗の人間の子宮をそのまま再利用する。痛みは無いが苦痛は感じる。出産で失われた体力は魔法で強制的に元に戻され、死ぬことも許されぬ永久機関の一部とされるのだろう。助けが来るのが先か、精神が壊れるのが先か――――。
その後も、道中では様々な困難が彼らに襲い掛かっていた。
天井から降り落ちてきたスライムに全身の皮膚を溶かされた者。霧散していた毒によって内臓器官に治癒不可能な致命的なダメージを負った者。古代の遺産と思わしきに魔法陣にその身を獰猛な魔物に変えられた者。不死の骸骨の軍団が持つ魔槍に全身を貫かれた者。
既に心が折れていた者もいたのだが、調査を中止し帰還する事は叶わなかった。
成果は何も得られず、目の前に現れた巨大な魔物によって強制的に終焉が近付いている。人間が到達するには早すぎた、不相応な望みだったのだろうか。
「う、うがぁああああああああああああああああああああああああ」
誰が発したか分からぬ、正気を感じさせない悲痛なる叫び声。
しかしその一吼が、彼らの運命を決定付けた事に誰も気付かなかった。
茫然自失から目が覚めた彼らの挙動は様々であった。正体不明の巨大な魔物から必死に距離を取ろうと一目散に駆ける調査員。それを見届け、辛うじて時間稼ぎを行おうと震える身体を抑え付けながら対峙する冒険者。己の死期を悟り、その場に蹲り神に祈る調査員。これ以上の被害は絶対に阻止すべきと、広域に魔法防壁を張り巡らせ、防衛を固める冒険者。
『グ―――――』
再び身体を奮わせ、威嚇するかのように洞窟内を大きく震わせる巨大な魔物の咆哮。しかし、その咆哮を最後まで聞き届けた者はこの場にはいなかった。空間を震わせた衝撃波が、音よりも早く場に残る者の鼓膜を破壊したのである。
脳をグチャグチャに混ぜられるような感覚。突然の奇襲は彼らの平衡感覚を完全に狂わせ、走り去る調査員は一人残らず無様に転んでしまったのである。
「早く、立て! 貴公らは、生き延び、真実の、報告を――――」
己の言葉が正しく発せられているかは分からない。そして、この声が聞こえているかも分からない。それでも前衛に立つ大男は高らかに言葉を続けるしかなかった。両腕で盾を構え、全身を鎧に包まれた彼は、苦渋の顔をしながらも魔物に視線を向け続ける。
存在意義は絶対的な防御能力である、と自負していた。それにも関わらず一人、また一人と脱落していく仲間を救う事ができなかった。彼は責任を背負い込んでいた。何も出来ない自分の存在意義は、過去に自分が救われた時の様に、誰かを救う事でしか証明できないのだ、と。
『グ―――――ジュル――――――』
対面している鎧の大男を嘲笑うかのように、巨大な魔物はニヤリと笑みを浮かべた。ギラギラした赤い眼が半眼となり、口角が歪に吊り上がった。
もしかしたら、それは大男に対する笑み、なんかでは無かったのかもしれない。単なる習性であったり、もしくは窮地に追い立てられた大男が見た幻覚だったのかもしれない。
現実はどちらでも良い。結果として起きた現象は、後方にて立ち上がろうとしていた調査員の身体から、夥しいほどの血と臓器が溢れ出た、それだけである。
巨大な魔物と逃げ惑う調査員の距離は大よそ二百メートル。魔物が大きい為に距離はもっと詰められていると感じられそうだが、二百メートルほどの距離があった。
間、巨大な魔物に対峙する大男とはたったの三十メートルほどしかない。巨大な魔物からすれば目と鼻の先なのだが、巨大な魔物は大男を嘲笑うかのように無視を決め込み、狙いを調査隊に絞ったようであった。特に狙いを定めたようでは無かったが、無造作に口元を『ガブり』と噛みしめれば、調査員の身体に見えない牙が付き立ったかのような、大きな穴が開いてしまった。一人、また一人と身体に大穴が空き、支えを失った臓器が『ごぽり』と零れ、地面に血潮が撒き散らされた。
(こんな一方的な暴力が、許されて良いのだろうか……!!!)
怒りに身体が震えている。
怒りと、戸惑いと、喪失感と。
言いようの無い感情がごちゃ混ぜになってしまっている。
守るべき存在は次々と息絶え、つまらぬ自分だけが生き残ってしまう。
否、全滅だけは絶対に避けるべきであった。
「ぬぉおおおおおおおおおおお!!!」
闘志を漲らせ、全身全霊を賭して巨大な魔物にぶつかっていく。無視されるのであれば、存在を認識させれば良い。小さな蟻だろうが、噛み付かれれば手で払われる程度の反撃は受けるはずだ。
『―――――グ』
大男の身体が巨大な魔物の前足にぶち当たった瞬間に、上空からくぐもった音が響いた。大男からの位置からでは見えないのだが、その瞬間に巨大な魔物は苦痛を受けたように苦々しい表情を浮かべ、身体に生まれた痛みに苛立っていた。
しかし、その一撃は大男によって与えられた感覚では無かった。
大男が突撃したタイミング、その一瞬、巨大な魔物が視線を下に落とした隙を見逃さない人物がいた。阿鼻叫喚の状況下の中、早々に巨大な魔物の死角となる背後に身体を移動させた弓兵は、大型の鉄弓にて矢を射った。魔術による作用か、漆黒の残像を残したその一撃、否、二発の矢は寸分の狂いも違わずに最重要である臓器、心臓目掛けて打ち込まれたのであった。
もちろん巨大な魔物の赤黒い鱗は硬く、その下の皮も弾力性に富んでいる。皮下脂肪も筋肉も厚く、致命傷を与える事は出来なかった。しかし、鱗を打ち破り皮に突き刺さった矢からは血が滴っており、希望に繋がる有効打になった事に変わりは無かった。
「……あとは頑張ってー」
どこからともなく聞こえた女性の声に、大男の目に力が宿った。我武者羅に抵抗しているのは、自分だけでは無いという勇気を授かった気がした。視界を広く持てば、この場に立っているのは自分だけでは無い。右側からは戦斧を振り上げるドワーフが見えるし、その後方には詠唱を唱える魔術師もいた。先ほど聞こえた女性の弓兵も合わせれば、天外無敵、栄えある選ばれし冒険者が四人も生き残っていたのである。
「…………! 己は、貴公を生き残らせる! 時間稼ぎは任せろ!」
この場に立っていたのは四人の冒険者である。しかし、生き残りはもう一人いた。逃げ惑い、身体に大穴を開けて全滅したと思っていた調査員だったが、臆病風に吹かれてその場に蹲っていた調査員だけは、幸か不幸か今の今まで生き延びていたらしい。
大男の言葉に反応するように『応っ!』と言う声が聞こえた気がした。ドワーフが振り下ろした戦斧が巨大な魔物の爪先にぶつかった瞬間に、大男は最後の調査員の傍らに駆け寄った。命は惜しいが、冒険者は所詮、雇われの身である。このような稼業をし続けている限り、魔物に殺されるのは時間の問題であった。それが今日、偶々訪れただけの事である。そう思えば調査員を生き延びさせるのは当然だと思えたし、国の発展に必要なのは力では無く知識なはずであろう。
「我々に構うなっ! 死ぬ気で走り、貴公だけでも生き延びてくれ――――っ!」
大男が調査員の腕を取り、無理やり立ち上がらせる。言葉による一喝を浴びせ、尻を叩けば、最期の調査員は壊れたおもちゃの様に振り返る事も無く、一心不乱に出口の方向へ走り去って行ったのである。道中の罠は解除済みだし、道中の魔物も討伐済みである。後は本人の運次第なのだが、大男はもう調査員の安全を願う暇も無く、残された仲間と共に最後の時間稼ぎを行い始めたのだった。
――――
「はっ、はっ、はっ、はっ…………」
己が最後の生き残りになるのだと国立研究所の一員として覚悟を決めた男の判断は、実に適切で一切の間違いも犯さなかった。心に浮かぶは『生き残る』と言う使命感だけであり、些細な不安も心配もすべて投げ出し、狂った呼吸を正す余裕も無く只管に洞窟内を走り続けていた。出口への道標など存在しなかったし、道中、アクシデントが多すぎて地図を書き残す余裕も無かった。しかし、調査員の頭の中には正解のルートが記されており、男はその線をなぞるように走り続けるだけで良かった。ある意味、走馬灯だったのかもしれない。調査員は決死の覚悟で洞窟を走っていたし、事実、死と隣り合わせの時間だった事に間違いは無い。死を間近に感じた事で記憶が細部まで思い出され、それが頭の中に正しい地図として浮かんでいたのだろう。
「はっ……はっ………?! ――――はぁっ?!」
走り続けた男は己の目を疑った。
酸欠に陥った自身の脳内が見せる、幻影を見たのかと思ってしまう。
しかし動揺をよそに自体は進行しており、目の前の存在が陽炎の様に消え去る様子も無い。
「いらっしゃいませ、一名様のご案内でしょうか?」
「……ん? 客だと……?」
女性の声が洞窟内に広がり、戸惑ったような男の声が続いた。
目の前に見えるは二人の男女…………のようではあったが、女性と思わしき存在は、人間では有り得ぬ色をしていた。全身を覆う色は緑色。良く見れば意志も持たぬ植物の様な存在であったが、突然に言葉を発したのは彼女で間違いないだろう。直立している彼女は植物の集合体にしか見えない。頭の位置からはか細い蔦が幾重も垂れさがっており、腕や脚などの彼女の基礎を築いている部分には幹や枝が微かに見えており、その周りを覆うように不規則に草花が生い茂り巻き付いていた。
丁寧に作った藁人形の上に、草花で美しく装飾を施した存在と言えば分かりやすいだろうか。しかし、明確な意志を持つ彼女の所作は完全に人間そのものであり、蔦の合間から見え隠れする彼女の表情を目にした者は、揃いも揃って『種族の差など微々たるものじゃないか?』などという危険な思想を口にし、己の理性と本能の狭間に苦しめられる事になるのであった。
「あの…………?」
植物の彼女が不思議そうに首を傾げる。
しかし笑顔は絶やされず、言いようの無い安心感が男の胸に広がったのだった。
「…………?!」
しかし、言葉が出ない。何を言えば良いのか分からない。
状況を整理するためにも周辺に視線を巡らせれば、更なる存在が目に入ってしまった。
「わらわは小腹が空いたのじゃ。ヌシの拵えた団子を早く食わせよ」
ほんの少し離れた場所、人力車に乗せられた女性が扇子を口元に当てながら優雅に言葉を発した。身に纏う和装は一見して高価。その和装に見劣らない美貌と、頭から生える毛並みの良い両耳。彼女の尻に敷かれた金色は質の良い座布団なのでは無く、彼女自身から生える黄金色の尻尾である。
「今、クレープを包んでいますので」
妖狐の言葉に、落ち着いた男の言葉が返る。
この場に存在している異質な三人組は、本当に落ち着いていた。先ほどまで、調査隊である自分達が必死の思いで辿り着いて来た道のりを、身体に目立った傷を残す事も無く、単なる日常の延長上と思わせるほどの平穏さで超えてきたのだろうか。
「このような血生臭い場所、来とうなかった」
不満げな言葉を口にする妖狐の外見は、この場にそぐわないほどに美しかった。
「あ、姐さん! 流石に人間種の空気を読んで下せぇ。アニキの顔に泥を塗る事になっちまいます!」
「別に、そんな事無いんだが……」
気付けば、更に男が増えていた。
妖狐が乗った人力車を引いていたのは、この筋骨隆々の男だったのだろう。短髪に切り揃えられた赤髪と左目を覆う眼帯が実に似合っている。既にどのくらいの距離を引かされているのか、涼しい洞窟内にも関わらず全身から汗が止めどなく出ていた。それでも健脚ぶりは衰えていないのか、疲れた様子も見せずに正した姿勢のままに、妖狐の態度に口を挟んでいるようだった。
「人間種の理に興味など無い。わらわが欲しているのは、彼奴の両腕から生み出される菓子のみじゃ。甘さで口の中で蕩けるのじゃが、下品な味わいでは無い……。長年生き続けてきたわらわの口を喜ばせるなど、下賤な人間種にしておくのが勿体ないくらいじゃな……」
妖狐の言葉に導かれるように、皆の視線が何か作業をしている男の両腕に向けられた。
「……大したモノは作っていませんよ」
「アニキ! その謙遜は嫌味ですぜ! アニキは鮮烈な実力者であると共に、掃除も炊事も手際よく済ませちまう! 勇名を轟かせながらも庶民的で柔らかい態度! もっと自信を持って下せぇ!」
興奮気味に捲し立てる筋骨隆々。しかし、その言葉を聞いたところで男の態度は変わらず、むしろ小さく「これが日本人の美点なんだろうな」と他人事のように呟くのみであった。
「とりあえず、座って、待っててください」
光景に呆けていた調査員に向かって、作業をしている男が声を掛けた。
「こちらへどうぞ」
植物の彼女に導かれるように、用意された椅子に座る。白く塗られた丸いテーブルの上にはパラソルが開いており、周りには空いた三脚の椅子が置いてあった。男はどうにも四人用のテーブルに座ってしまったらしい。慌てたように中腰となり周囲を窺うも、丁度良い一人席は存在していなかった。
「粗茶で申し訳ございませんが」
間をおかずに、目の前に飲み物が置かれる。勧められるままにカップを手に取れば、温かそうな湯気に混じってハーブの心地良い匂いが鼻孔をくすぐる。今まで身体を支配していた緊張感が緩和され始め、ようやく調査員に落ち着きが取り戻されていく……。
「そ、それどころじゃないんです! ひ、人が死んで……調査隊が全滅したんです! この奥に住まう巨大な魔物が……ここに辿り着くまでにも……何人もの仲間が……くっ、ううっ……」
緊張が緩み、同時に口から言葉が溢れてくる。
悔いるように涙が男の頬を流れ落ちて行き、ぽたりとテーブルの上に水滴が広がった。
「あら、お辛い体験をされたようで……」
「……って、あ、あなた達はどうしてここに………魔物には襲われなかったんですか?!?! そ、それとも全員が魔物の一味で、私を殺そうと…………」
慌てたようにテーブルから立ち上がる男。
しかし、そんな彼に不思議そうな視線を向けるのが二人。興味無さそうにしているのが二人。
「魔物は、えっと、眷属たちが……あっ、ちょうど帰ってきました!」
「みー!」
「みー! みー! みー!」
植物の彼女の視線の先、不思議な鳴き声と共に現れたのは小さな子供であった。しかし、やはり見た目がおかしい。全身が緑色で植物にしか見えない。
「みーみー!」
「みー……?」
「あら、あらあらあら……」
「みーみー」と鳴く子供たちは、何かを引き摺っていた。粘つく液体が纏わりついた、大きな塊のようで……中心から四本の棒が生えており、小さな丸い何かがくっ付いている。
「みっ!」
「あ、あの、もしかして、この子も貴方の仲間、ですか?」
「…………えっ」
その言葉に、淡い期待を抱いてしまった。しかし、少女は蟲に襲われたはずである。あの状況で助かるなんて有りえないが、死体を持ち帰るだけでも何らかの成果に繋がる可能性は高い。抑えきれない期待感を胸にした男が努めて冷静に引き摺られた物体に目を向ければ、そこには浅い呼吸を繰り返す魔術師の少女の姿があった。全身が体液か何かで汚れているが、早急に措置を行えば一命は取り留められるかもしれない。しかし、背負って洞窟を出たとして、間に合うのか――――――。
「自分に任せて下せぇ」
人力車の横で待機をしていた筋骨隆々が、手に持っていたタオルで少女の全身を手際よく拭き取り、首筋に何らかの薬を注射で打ち込んだ。そのまま担ぎ上げたと思うと、壁際に運んで行ってしまった。
「い、一体何を……!」
男が慌てたように壁際へと追いかければ、そこには死んだと思われた仲間達が静かに横たえられていた。人数にして七人ほど。しかしその内の半分は穏やかな呼吸をしており、生命活動が維持されている事を表していた。
「ど、どうして……」
「ん? 道中、見付けちまったからよ。別に助ける義理なんかねぇんだが、アニキが『助けられる命は助けましょうよ』って言うし、まあ同じ人間種としての情けって奴か?」
筋骨隆々が可笑しそうに「くくく」と笑うのだが、男にとってどうでも良かった。理由などどうでも良く、国益の為に共にした仲間と再びこうして対面できる喜びに心を震わせていた。亡骸でも構わなかった。きちんと埋葬し、最期の言葉を掛けられるのがどうしても嬉しくて仕方が無かった。
「みー!」
「みーみー、みー!」
「はい、行ってらっしゃい」
緑色の子供が再びどこかへ行ってしまった。贅沢は言わないが、同じように仲間を見つけ出してくれたら、感謝のしようがなくなってしまう。互いに見ず知らずではあるのだが、途方も無い孤独感を感じていた男にとってはどうしようもない救いとなっていた。
「クレープ、出来ました」
「おお、待っていたのじゃ!」
作業を終えた男が手にしているクレープが、意志を持ったかのようにフワフワと空中を飛んで行く。そのまま人力車に座る妖狐の手に届いたかと思えば、何の遠慮も無く妖狐はクレープに齧り付いた。
「……なんじゃこれは?! 団子の味がしないではないか!!」
「……クレープって言ってるじゃないですか」
妖狐の不満そうな言葉に、不満そうな顔をする男。
その様子を植物の彼女はニコニコと見つめていた。
「あっ、指にクリームが付いてますね」
「……ん?」
男が確認するよりも早く、近付いた植物の彼女が男の左手を手に取り、唐突に「はむっ」とその人差し指を口に咥えた。頬の部分が赤らみながらも、上目遣いでその行為を止める事はしない。数秒の行いであったが、時折口元から「ちゅうちゅう」と啜るような音が聞こえてきた事を、妖狐の美しい耳が聞き逃す事は無かった。
「ほぅ。団子を食べ損ねたわらわの前で、そのような裏切り行為か。植物風情が妖狐に喧嘩を売っとるのか? いくら貴様らが親密とは言え、目の前で堂々とそのような行い…………万死に値するぞ?」
妖狐の持つ扇子が宙に浮き、救出した人の様子を見ていた筋骨隆々の男の頭頂部を激しく殴打する。『ピシャリ!』と言う景気の良い音と同時に筋骨隆々は顔を歪めるのだが、不満を漏らすようなことは無かった。
「……ごめんなさい。でも、私の身体が彼の指先を欲してしまうの。これは幼少の頃から彼に調教された結果かもしれません。気分を害されたら申し訳ないです。でも、本能には逆らえない――――」
「…………俺の両手はそんなに甘い匂いがするか?」
男が呆れたように右手を自分の鼻に近付け、クンクンと匂いを嗅ぐ。
「人間種の凡庸な鼻では感じ取れまいぞ」
「そもそも匂いじゃないですから」
「か、か、か」と妖狐が笑い、「ふふふ」と植物が小さく笑う。揃うように響いた笑い声を前に、男は肩をすくめ、筋骨隆々は自分の頭を撫でる。
と、そんな平和なイチャイチャを見せられていた調査員の男であったが、ようやく己に授けられた重要な任務を思い出す事ができた。現実離れした平和な光景に脳内が混乱していた部分もあったのだが、彼は必死で生き延びようとしていたはずである。しかし、己の安全が保たれた事に気付く事ができれば、次は自身を必死に庇ってくれた仲間達の救出に向かうべきであるのでは?
「あ、あの! すみません! これ以上、あなた達に頼める立場でも無いんですが……」
「…………クレープ、食べます?」
「違います! あのっ、この先で巨大な魔物と戦ってる仲間が……調査隊の仲間がいるんです! 恐ろしく強靭で獰猛で……手遅れかもしれませんが、もし助けられるのなら……」
「行きましょうか」
マイペースでクレープを作っていた男の手が止まり、空間の雰囲気が一気に変わった。男の言葉に反応する様に、植物の女性と妖狐は息を吐き、筋骨隆々は肩を回し始める。
「場所は、どこでしょうか。距離は大よそ……」
「ここから更に、奥……。拾い空洞に出たと思ったら……」
「分かりました。では行きましょうか。」
――――
何の躊躇も無く洞窟を突き進む四人を前に、後を追う調査員は口を開く事も出来なかった。地面から現れた未知なる蜘蛛型の蟲を前にしても、足を止める事も無く打倒してしまう。植物の彼女が両腕を振るえば数十本の蔦が魔物を雁字搦めにしてしまい、そのまま細切れに分割してしまうのである。
肉体を持たない霊体が現れたとしても、先頭の男が人力車に目を向ければ、何の音も無く霊体が苦しみながら蒸発してしまうのであった。調査員の男の位置からは窺う事が出来ないのだが、恐らくは妖狐が何らかの力を使っているのだろうと予想は出来てしまった。
「ヌシ。無力なヌシが無理して前に出る必要も無いぞ?」
「俺が前に出ないと、誰も助けに行かないでしょう?」
「かかか、そうであったのぅ……人間種を助ける義理など……」
「姐さん! 思っても口にしないで下せぇ!」
緊張感の何もない呑気な軽口が飛び交う始末である。
それにしても無駄のない洗練された動きが繰り返される。ともすれば、調査隊の同行者である冒険者と同じくらいか、もしくは苦戦する気配が無い所を見れば、それ以上の技量を持ち得ている存在である事が容易に想像できてしまう。しかしながら、それならばなぜ自分は彼らの事を知らないのかと、調査員の男は頭を悩ませてしまう。最上位に並ぶ技量を持つ冒険者であるならば、嫌でもその噂を耳にする事は出来る。しかし今まで、魔物や妖狐を引き連れた冒険者、魔物使いの存在を聞いた事など一度も無かった。嫌でも目立ってしまうだろうパーティにも関わらず、これは一体どういう事なのだろうか。
「どうにか、間に合ったようですね」
先頭を走っていた男から聞こえる、どことなく安堵したような声。余裕が生まれたが為に、考え事をしていた調査員の男の意識が現実に引き戻される。男の言う通り、巨大な魔物の前には盾を構えた大男がどうにか立ち塞がっており、魔物の周囲を巨大な鉄弓を持った女性が走り回っていた。戦斧を持っていたドワーフは地面に横たわっているのだが、はっきりとした外傷は無さそうである。それよりも壁にもたれ掛かっている魔術師のローブが赤黒く汚れており、危険な状態である事は間違いなさそうであった。
「あっ! アイツじゃ! わらわが求めていたのはアイツの腸じゃ!」
「腸…………」
「具体的に言うと肝であるぞ! 早く腹を掻っ捌いて、新鮮な肝を火で炙って酒に溶かして飲み干したいもんじゃ……。くーっ、想像しただけで涎が止まらんぞ!」
「俺たちは、あの魔物の腸の為に、ここまで来た……と」
「そうじゃが? 何か問題でもあるか?」
「…………ふざけんな」
男がぼそりと呟いた言葉は、どうにか妖狐の耳には届かなかったらしい。もしくは、届いたとしても無視をしているのかもしれない。それより幸運な事に、仲間を助けたい調査員の男と謎の四人組の目的は一致していたらしい。
「では、危険ですのでミタムラ様はここで見ていてくださいね」
「アニキを危険な目にゃ、合わせられねぇからよ」
「お気遣い、ありがとうございます」
男がぺこりと頭を下げたと思えば、当然の様に人力車の隣に座り込んでしまった。
「みー! みー!」
「みー!」
「あら、ロザリーとアルバニも着いて来ちゃったの?」
「みー!」
「じゃあ、一緒にミタムラ様に、良い所を見せましょうね」
「みっ!」
どこにいたのか、先ほど見掛けた緑色の子供が筋骨隆々の陰から姿を現した。
二匹の子供は理解をしているのか、楽しそうに地面を転がったり。二匹で競い合うようにジャンプをして遊んでいる。その様子を植物の彼女は穏やかな顔で見守っており、筋骨隆々は鼻息を荒くしながら巨大な魔物に無造作に近付いて行くのであった。
――――
たった二人が戦場に加勢しただけで、戦力図が一気に様変わりしてしまった。
今まで防戦一方だった大男の横に立つ赤毛で短髪の筋骨隆々眼帯男。魔物の前足による重い一撃を大男が防いだと思ったや否や、筋骨隆々が一歩前に飛び出て振りかぶった右腕を力任せに振り下ろした。
『グ…………ガ―――――?!』
体格差や重力など全く関係が無いのか、筋骨隆々の振るった拳は巨大な魔物の前足に大きな衝撃を与え、後方に浮かせる事に成功していた。巨大な魔物は慌てた様な呻き声を発するが、更なる追撃が魔物を襲う。周辺を走り回って隙を探っていた弓兵が間髪入れずに三発の矢を放つ。寸分の狂いも無く狙い通りの右目に突き刺さった矢は、大きな爆発を見せ、右目を完全に壊す事に成功していた。
突然の痛みに暴れ狂おうとしている魔物であったが、その動きを妨げるように身体中に絡み付いていたのは、地面から伸びている草木や枝葉、太い蔦であった。体格差は絶対的な強さと言っても間違いでは無い。理性も無く暴れ狂った巨大な存在に巻き込まれてしまえば、為す術もなく蹂躙されていた可能性は高い。それを先見して完全に阻止した植物の彼女の補助技術はとてつもなく有能な一手であった。
「みー?!」
「みー、みーみーみー?!」
突然の爆風に驚いたのは、いつの間にか巨大な魔物の頭の上に登っていた緑色の二匹である。二匹は魔物の頭をポコポコと棒を使って叩いている。しかし、その行為に意味があるのかは誰にも分からない。呪い的な儀式なのか、体内に蓄積をダメージを与えているのか、はたまた気分的なものなのか。真相は巨大な魔物にしか知り得ぬことであった。
「つ、強すぎる……」
安全地帯である片隅、人力車の横で事の成り行きを見守っていた調査員の男から無意識に言葉が生まれてしまう。しかし、実際そうである。ドワーフと魔術師が倒れている状況を見れば、残りの二人がジリ貧のままに力尽きる事は当然だっただろう。しかし、たった二人が加わっただけで、盤面がひっくり返っているのである。命からがら全員で逃げ出す事を第一と考えていたはずだが、調査員の男の頭には「生け捕りも可能ではないのか……?」と言う確信が生まれていた。もちろん言葉にする事はない。せっかくの命の恩人を前にして、恩知らずな言動をすべきではないからだ。
「……あの二匹、役に立ってます?」
「え、えっと……」
興奮を抑えながら見守っていた調査員の男に、ミタムラが声が掛けた。
慌てたように質問の意図を理解し、巨大な魔物の頭をポコポコと叩き続けている二匹の子供に目を向けるが、正直な所、役に立っているのか全く判断が付かなかった。
「俺はあの二匹を、どうやって褒めれば良い?」
「え、っと……。自分より大きくて強そうな魔物なのに、勇敢だったね……でしょうか…?」
「そうか……」
調査員の男の言葉に納得したのか、ミタムラは黙って前を向いてしまった。
釣られるように視線を巨大な魔物に戻せば、既に大勢は決まってしまったのか、四肢を伸ばして腹這いになった巨大な魔物の姿がそこにはあるのだった。
――――
「お疲れ様でした」
「うむ、見事な見世物であった。退屈しのぎに丁度良かったぞ」
労いの言葉を掛けるミタムラとは違い、妖狐は尊大な態度である。しかし慣れ親しんだ態度なのか、誰も嫌な顔を見せずにスルーを決め込んでいる。傍目から見ればパーティ内の戦力分布が良く分からないのだが、ミタムラがリーダーである事は何となく空気感から伝わっていた。
「助太刀、感謝の極みで――――」
肩で息をしていた大男が鎧を脱ぎながら和んでいるミタムラ達に近付いて行く。しかし、その足取りは途中で止まり、大男の顔に驚いたような表情が生まれ始める。
「お、お久しぶりです。ミタムーさんじゃないですか……」
「…………ああ、テオバルト。お元気そうで何よりです」
「いえ、このようなお恥ずかしい姿を……」
テオバルトと呼ばれた男が慌てたように額の汗を拭う。
「調査隊、の一員になったんですか? 随分と出世したじゃないですか。本当におめでとうございます」
「いえ、自分はしがない冒険者の一人です。運よく、このような業務に仕える事が出来ましたが……結果は散々です。故郷に錦を、と思ったのですが、自分の実力不足には本当に嫌気が差してしまいます――――」
「ちょ、ちょっと待って下さいテオバルトさん! 貴方は選抜試験をトップの成績で合格した最優秀の冒険者じゃないですか! こう言ってはなんですが、このような死地でさえ最後まで生き残って――――って、あっ、そう言えばもう一人は……?」
調査員の男が慌てたように周囲を見渡す。
ミタムラも釣られるように周囲に視線を巡らせれば、素知らぬ顔で出口へ向かおうとしていた女性の弓兵を見付けてしまった。視線に気付いたのか、女性が顔を向ければ、タイミング良くミタムラと視線がぶつかってしまった。
「…………」
「…………」
何事も無かったかのように、女性は再び前を向き、出口の方へ歩みを進めてしまう。しかし、ミタムラは視線を逸らす事をせずにずっと女性の姿をガン見し続けている。
「…………店長が怒っていましたよ」
「…………?!」
ミタムラの言葉に何かを察したのか、女性が足を止める。
そして観念したかのように溜息を吐き、ミタムラの方に近付いて行く。
「べっつに、怒られる事なんて、してないんだけどー」
「ウルカさんも心配していましたよ」
「ミタムー君、上手く誤魔化しといてくれない?」
「仕事を何十日も休んで、何をしていたんですか?」
「えっとねー、珍しいアイテム、貰えるって聞いたからー」
「…………」
眉を顰めるミタムラとは反対に、何の反省の素振りしない女性。
「まあ、欲しいモノは手に入ったからー。てんちょによろしくー」
ひらひらと手を振りながらその場を去って行く。ミタムラも呼び止める事をしない。しかし、調査員である男は慌てたように右往左往しているのだが、どうしても残りの二人、ドワーフと魔術師の様子が気になるようであった。
「…………ほらよ、こいつらは無事だぜ」
遅れるように筋骨隆々が皆の元に集合する。右肩にはドワーフを担いでおり、左肩には魔術師を担いでいた。放る様に作業員の男に投げ渡せば、当然の様に気を失っている二人の下敷きになってしまった。
「おーい、肝じゃ! 酒の準備は出来ておるのかー?」
「…………」
場にそぐわない気の抜けた言葉が魔物の方から聞こえてくる。皆が目を向ければ、妖狐が両腕で巨大な肝を頭上に掲げていた。生きたまま抜き取られた肝は、未だに動いている。鮮度が良すぎて気持ちが悪いほどなのだが、妖狐は気にした素振りを見せない。
そして、頭上に掲げているにもかかわらず、血液や胆汁が妖狐に降りかかる様子は見られなかった。滴ってはいるのだが、空間が捻じ曲げられたように妖狐の身体を避けているのだ。周りで喜んでいる二匹の緑色は「みーみー」と鳴きながら嬉しそうに飛び跳ねているのだが、その二匹には遠慮なく体液が降りかかっていた。
――――
「あの、何かとありがとうございました。国からの謝礼が……」
「いえ、結構です。皆さんの治療に使って下さい」
「ほ、本当に有難う御座います」
陽は夕暮れ。赤らむ空を背景にミタムラ達は最後まで無事だった二人と別れようとしていた。
洞窟からの帰還に伴い、ミタムラ達は行方知れずや死亡した調査隊の仲間の捜索を申し出た。その結果、運良く生き長らえていた重傷者七人と、軽症者三人、形の保った死体を九人分ほど回収する事に成功していた。共和国に戻ったミタムラ達は早々に調査隊のメンバーを引き渡し、挨拶もそこそこに帰るべき場所に戻ろうとしていた。
「テオバルト、頑張ってくださいね」
「ミタムーさんと久々に出会えて、本当に感涙の極みでした」
別れ際、ミタムラとテオバルトが固い握手を交わした。
共和国側から見れば、ミタムラは謙虚で控えめな男に映っていただろう。しかしその実、ミタムラはさっさと帝国に帰りたがっていた。謝礼を断ったのも面倒くさくなりそうな偉い人との謁見を避けたかっただけである。
そもそもミタムラは、妖狐の『美味い素材があると耳にした。行くしかあるまい』との言葉を信じて洞窟に向かったに過ぎなかった。実際、妖狐が満足するような珍味は見付かったのだが、ミタムラの心情としては『騙された』と言う気持ちでいっぱいだったのだ。
「では……これで……」
頭を何度も下げる調査員の男と、テオバルト。
二人に会釈を返して帰路に向かったミタムラ達であったが、ふと、何かを思い出したようにミタムラが調査員の男に近付いて行った。
「ああ、これ、渡しておきます」
「えっと……」
「名刺、作ったんです。クレープ食べに来てください。菓子職人なので」
「はぁ……」
ミタムラは思い残した事も無いのか、満足したように頷いて踵を返した。
夕暮れの平野を、帝国方面へ向かうミタムラ達。カラカラと心地良い人力車の音が少しずつ共和国から離れて行く。魔物の活発になる夜間も近いのだが、彼らの心配をするほど、野暮な事も無いだろう。
「…………全てが片付いたら、一緒に行きましょうか?」
「ええ、是非ともよろしくお願いします」
調査員の男の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
とてつもない偉業を難なくこなしてしまう彼が、今度はどんな菓子で自分達を驚かせてくれるのか、とても楽しみになってしまったからである。
「ミタムーさんは、素晴らしい人ですよ」
「でしょうね。既に、ファンになってしまいました」
静かに笑う二人の男。
そんな二人は楽しみを胸に、代表者の待つ円卓の間に向かうのだった。