逃亡と嘘
冬がやってきた。外は常に息が白い気温で、風が痛い。とっくに葉が落ちて、枝を露わにした大木が、駐車場の隅で寂しそうに立っている。
ようやく慣れた仕事先からは、ボーナスが出るようになった。私にも後輩ができ、責任のある仕事を任せられるようにも。
拓くんとは秋のあの日以降、過去の話はしていない。触れたくなかったのもあるけれど、あれ以上何かを話す必要が無いと感じた。
今拓くんは、家で夜ご飯を作って待っててくれているのだろう。それでいいんだ。今はそうやって過ごせているのだから。
今日も頑張った、と自分のことを褒めながら、いつも通り仕事を終えて、いつも通り家に向かう。そして玄関を開けようとした時、異変に気付く。
鍵を指して回した時の手応えが違う。鍵の開いた音がしない。つまり、最初から鍵が開いていた……?
恐る恐るドアを引っ張って、中に入る。一気に私を包み込んでくる料理の匂いが、ほっとした。拓くんが開けておいて待っててくれたのだろうと思えた。……のは一瞬で。
拓くんの、靴が無い。同居し始めてすぐに新しく買ってあげた靴が、無かった。私のサンダルだけが玄関に取り残されている。
急いで靴を脱ぎ捨て、部屋に入った。居間を覗いて、台所を覗く。誰もいない。拓くんの姿は、何処にもない。更に言うと、台所の足元で、私のお茶碗が粉々に砕け散っていた。
冷たい。足先、手先、背中、心臓が。頭が白い。動かない。動けない。拓くんは、どこに?
もしかして、と思った。
幼少期から檻の中にいたんだ。そして色んな人に買われて、散々な体験もしてきた。いつ、不意に自由になりたいと願ってしまうか。
何かあったのかもしれない。だけど拓くんが自分の意思で、ここから逃げ出してしまったのかもしれない。
今では許される世の中であろうと、買われて売られるの繰り返しだなんて、当人はどう感じているのか。
どこに行ったって檻の中と変わらない。見知らぬ人に合わせて必死に生きていかなきゃいけない。息苦しくて堪らない筈だ。
でもだからって。だからってお茶碗を割る?
料理だけ丁寧に作る?
お世話になったから最後に料理だけ、とかは、なんか違うって。
だってこの料理、1人分じゃ多すぎるよ……!
「こんな真冬に、どこ行ったの!?」
割れた茶碗からして、材料の買い足しでは無い。きっと何か理由があって、何処かに行ってしまったんだ。スーツ姿にサンダルという、おかしな格好で家を飛び出した。
公園、河原、スーパーに、大通り。苦しく、痛くなっていく肺のことなんか知らないフリして走り続ける。
しかし見つからない。スーパーでは流石にできなかったけれど、大声で名前を叫んで探しているのに、返事は聞こえない。
私の心に、着々と不安が募っていく。かれこれ30分以上走り回っていた。
「どこに行っちゃったの……」
視界がぼやけてきて、足がフラつく。電柱に寄りかかって時間を確認すると、もう20時半になろうとしていた。
不安とも恐怖ともつかない感情が湧き上がってくる。まだ15歳の子が真冬に、しかも夜に出て行ってしまうなんて。
「どぉしたんよぉ?」
私が何かしてしまっただろうか、などと考えを巡らせているところに、不意に後ろから声がかけられた。少しだけ掠れた声のその人は、スーパーの袋を片手に持った、お婆さんだった。
「あのっ……15歳くらいの男の子、見かけませんでしたか……?」
藁にも縋る思いで尋ねてみた。優しそうな目元を細め、考えてくれる。見知らぬ男の子のことなんて、例え見かけていても忘れてしまうものだろうな。
期待はしていなかった。でも、一欠片の情報でもいい、何か聞きたかった。このままじゃ、不安で押し潰されてしまう。
ゆっくりとした動作で、目を見開いたお婆さん。口元に手を当て、思い出そうとするような様子を残したまま喋り出した。
「探してる子かどうか……わからんけんど……スーパーの裏の空き地に、ぽつんと人影があった気がするねぇ……」
「本当ですか! ありがとうございます!」
深々とお辞儀をして、私はまた走り出した。気をつけなさいなー、の声を背中で受け止めながら、自分の探索の甘さを後悔し、同時に、願いと焦りを感じた。
無事でありますように。まだ居ますように。
すっかり冷たくなって感覚の無くなった足を動かす。真っ赤な指先も、ヒリヒリする顔も、全部忘れて、冬の中を駆け抜けた。
「拓!!」
名前を叫んで漸く空き地に入ると、そこには拓くんと警察の姿。暗くてよく見えないけれど、腕を掴まれて引っ張られている拓くんは、必死に首を振って何かを拒んでいる。
「あの! ……拓くんが、何かしましたか?」
「あぁ、この子の母親ですね? こんな時間にこんな場所で独りでいるものですから、理由を聞いていたんですよ」
「すみません、もう帰りますから」
「家出か何か知りませんけど、危ないから気を付けて下さいね」
息を切らして返事をする私に、不服そうな表情で言い放った警察の人。ちらちらと私達のほうを見ながら、何処かに去って行った。
ほっとして胸を撫で下ろす。拓くんのほうを見ると、掴まれていた腕を摩りながら、心底申し訳なさそうに俯いていた。
「さ、帰ろう! 外は寒いでしょう」
何でもないように笑ってみせる。わざわざ責めることもないんだ。心配こそしたけれど、ここまで反省した態度を取られていたら、許す他ない。
目を合わせないまま、コクンと頷いたのを見て歩き出す。スーパーの光と、昼とは違う静かな騒めきが近付いてきて、空き地から出ようとした時。
クイとスーツの裾を引っ張られ、動きを止められた。どうしたんだろうかと振り向いてみると、さっきまでそっぽを向いてた拓くんと目が合って。
「――すき」
す、き?
口が開いて、一瞬だった。私じゃない。拓くんが、私に、そう言っ……て。
どうして、なんで。頭が回らない。何を考えようとしてるのか、何を思っているのか、分からないくらいに頭が回らない。頭が真っ白って、こういうことだ。
何を言えばいいのか。何かを問いかけていいのか。分からなくなった。たった一言に、呪いをかけられてしまったみたい。体が動かない。
金魚みたいに口をパクパクさせているうちに、拓くんは私を追い抜いて。数メートル先で振り向いた拓くんを目にして、やっと足が進んだ。
白い息を散らして、走ってきた道を歩いていく。お互いに何も喋らない。
ぐちゃぐちゃだった私の頭の中は、徐々に冷やされていった。だけど分からないことばかりが、ぐるぐると回り続けている。
拓くんは、嘘をついていたのか。本当は、ずっと、ずっと前から喋れたのか。それに好きって、何。拓くんは私に言ったの?
私は26歳だし、拓くんを買った人だし、確かに私だって好意はあるけれど、それは家族のようなもの。立場も関係性も全部おかしくて、狂ってる。なのに、好き?
どうしたらいいの。どうしたいの。何もわからなくなった。今まで私が拓くんにどうしてたのかも。私が拓くんをどう思ってたのかも。泡のように消えてしまった。
はっと気付けば家に着いていて、鍵を開けてくれるのを待っている拓くん。出会った頃のように無愛想で、何かを訴えている瞳。拓くんは今、何を思っているの。
部屋に入ると、手のつけられていない料理を温め直そうとする拓くん。それを手で止めて、お風呂に先に入るように促した。
少しの間、意味ありげにじっと目を合わせてきたけれど、微小に頷いてお風呂場に入っていった。
その間、私は台所で壁にもたれかかる。無事で良かった。帰ってきてくれて良かった。でも、この問題は一体どう解決したらいいのか。
正直、拓くんに恋人として接することが想像できない。家族のように、子どものようにこれまで接してきたつもり。だからこそ、そんな相手にキス、だとか、そういう……こと、とか……。
拓くんは、それを望んでいるのかな。私が拓くんを家族として見てる間、拓くんは私を女として見ていたのかな。
それでも私がどうであれ、拓くんの気持ちを無視して、何もなかったみたいに接するなんてできない。
そもそも、拓くんはいつから喋れたのだろう。どうして外になんか出て行ってしまったんだろう。
最初から本当は喋れたのなら。拓くんがこれまでしてきた演技に、どんな意味があるというのか。
頭がショートしそうで、目眩がした。そこで拓くんがお風呂から出てきて、今度は私をお風呂に無言で促す。
お風呂場に入る前、台所に真っ直ぐ向かった拓くんを見ていると、いきなりばっと私の方を向いた。いささか目が狼狽えている。
〈ごめんなさい、おちゃわん、割っちゃって〉
「……平気だよ。適当に違うの使うから」
走り書きで書かれた文字を読んで、ムッとした。その感情を堪えて、ぎこちなく笑って見せる。
慎重に破片を片付け出す拓くん。私は手伝うことはせずに、お風呂に入った。
なんで、喋ってくれないんだろう。
もう、拓くんが喋れるのは分かってる。今更隠す必要なんて無い。言いたいことを文字にする必要なんて、無い筈なのに。
ぐちゃぐちゃした頭の中と、心の中。顔を洗っていると、あの言葉を言ってきた時の拓くんが脳裏に浮かんだ。
震えていて、弱々しくて、でも芯がある声。寒さか否か、真っ赤になった顔と、全てを悟っているようで、不安げな深い瞳。
早く体も洗って出てしまおうと考えながらも、いつものように、つい湯船に浸かってしまった。ぼんやりと湯船に浸かっている間は心地良くて、ほんの少しだけ落ち着く。
その時間が今はどうしようもなく愛おしくて、出たくない。それでも余計重くなった気がする体で、なんとかお風呂を出た。
キッチンには拓くんが立っていて、料理をひとつずつ温めているようだった。温め終わった料理を横から取り、テーブルに並べる。
全て温め終わると、お互いに手を合わせて食べ始めた。今日はテレビを点けないまま。
静かで、いささか重い空気。拓くんも私も、笑わない。いろいろと考えてしまって、食べ終わる頃になっても、料理の味が全然感じられなかった。
再び互いに手を合わせてから、拓くんが食器を洗い終えるのを待つ。食器がぶつかる音と、流れる水の音。それから、泡の音が部屋を満たしていた。
どうしよう、という言葉しか浮かんでこない程、頭はいっぱいいっぱいだった。拓くんが洗い物を終え、テーブルの前に礼儀正しく座ったのを見て、私は息を飲む。
〈今日はごめんなさい。たくさん迷惑をかけてしまって〉
それだけを書いた一枚を破って、私に差し出してきた。いつもと変わらない筆跡。逃げようとしない姿勢。
混乱するだけの私よりも、何倍も大人みたいだ。
「今まで、ずっと……嘘、ついてたの?」
途切れ途切れにそう問いかけると、眉を潜めて首を傾げられた。
拓くんも覚悟を決めているのだろう。私も覚悟を決めなければならない。聞きたいことを、回りくどく聞いては駄目だ。
「本当は……ずっと前から、喋れたの?」
今度は目を見開かれた。直後に肩を竦める。覚悟を決めているように見えたけれど、かなり目が泳いでいる。
心臓の音が、より一層早まったのに気付いた。ペンの動きが鈍い。それは、答え難いということ。
「そっか……。うん、わかった。今まで嘘吐いてたのは……訳が、あるんだよ、ね?」
「い、いいの。怒ってない。怒る理由、なんて、ないし。だけど、その、もう半年、一緒に過ごしててさ。なのに……あはは。ごめん、まとまらないや」
あぁしまった。目頭が熱い。
震える声が抑えられない。次々に口から零れ落ちてく言葉が止まらない。考えるより先に外に出て行ってしまう。
拓くんを傷付けてしまうかもしれない。私が今何を言っているのか、私にさえ分からない状態だ。
止めなきゃ。黙らなきゃ。ちゃんと話を聞かなきゃ。
こんな一方的に責めるみたいに、言ってはいけない。あまりにも大人気ない。
いつの間にか、目から涙がポタポタと落ちていた。感情が高ぶって泣いてしまうなんて、何年振りのことだろう。
そっと、目元にハンカチが当てられた。無論、拓くんだ。テーブルの向こう側から身を乗り出している。
「ごめんっ……」
ハンカチを受け取り、目に強く押し当てる。それでも喋ってくれない拓くんのことを考えたら、涙が溢れて溢れて、ハンカチをぐっしょりと濡らしてしまった。
どうして喋ってくれないの。心の中で聞いたって答えてくれない。そんなの当たり前だ。当たり前、なんだけど。
嘘だったんだ。
私、信頼されてなかったんだ。
これだけ長い間、メモで会話を続けるくらいに、私のこと信用してなかったんだろう。
私だけが一方的に、家族みたいに思ってて。私だけが一方的に、拓くんを大事に思っていて。
本当は私、ずっとずっと、嫌われてたのかな。
胸が苦しくて、息ができない。考えれば考えるほど、ネガティブな方へと思考が進んでしまう。
だけどハッと思い出して、無理やり思考回路を捻じ曲げた。拓くんは私に、好きと言ってくれた。ならきっと……多分……嫌われてない。
私の単純な願いも込めている。それでも、喋らなかった拓くんが、わざわざ喋って私に好きと言ったということは、それなりの好感度があるって考えたって、良いはず。
本当は、そんな事実は夢だったかもしれないって、ネガティブな思考へ戻りそう。それをなんとか、ギリギリの所で抑えて涙を止めた。
「理由、聞いても、いいかな」
へらっと笑って見せた。本当に笑えてるのか分からないけど、精一杯誤魔化してみる。拓くんは顔を歪めて、深く頷いた。
〈ぼくは喋れませんでした。今までうそはついてません〉
〈洗い物しながら、早くあなたが仕事から帰ってこないかなと思ったら、それが口から出てしまって〉
〈本当にびっくりして、それで、怖くなって、外に……つい〉
3枚の用紙を纏めて渡された。そこにはこう書いてあって、私の心の重りが、多少軽くなった気がする。
つまり拓くんは、何故か喋れるようになって、それに自分自身で驚いて咄嗟に外に飛び出してしまった。
そんな漫画みたいなこと、普通するのかって不思議に思う。けれど、いつの間にか声を失った拓くんからしたら、大きな衝撃だったのは間違いない。
「なんだ」
思わず呟いてしまって、口を押さえた。私の呟きを聞いて、より一層顔を歪めた拓くん。流石に失礼だったと自覚はしているので、直ぐに謝った。
「……私、拓くんに信用されてなかったんだって思ってた。あ、嫌われてるのかなって。でも……そんなこと、無かったんだね」
歪んでた拓くんの顔が、百面相みたいにころころ変わる。困惑して、焦って、それから今度は、力強く頷いた。
良かったと、心から思う。ちゃんと拓くんの話聞けたのもそうだけれど、何より、嫌われてなかったという事実が、嬉しくて。
だけど、そうやってほっと出来たのも束の間。問題はまだ解決していなかった。
「拓くんは……私のこと、恋愛として好き……なのかな」
誤魔化して無くしてしまいたかった問題。でも当然、そんなことは出来ない。
私の質問で、空気がピンと張ったのが分かる。拓くんの目がふるふると泳ぎだして、言葉に詰まっているようだった。
拓くんに裾を引っ張られたあの瞬間を思い出し、私もこれ以上の言葉は出て来なかった。
顔が熱くなってきて、拓くんから目を逸らしてしまう。ちゃんとした恋愛なんて、中学で終わったものだと思っていた。
親友に彼氏を盗られてしまってから、もう恋なんて無縁でいいやと諦めていた。モテるような女性の訳でもない。
独身のままだろうかとぼんやりと考えていた。そんな中での、拓くんからの告白。
恋愛感情だったなら、とても嬉しい。だけど嬉しい分だけ、不安と焦りが募る。15歳の少年と、26歳の大人だ。恋人になんて、なれるのか。
ちらりと拓くんを見た。口を真一文字に結び、汗を浮かべ、それでもペンを握りしめてメモ用紙に向かい合っている。
緊迫した空気を肌でヒシヒシと感じていると、些細な音を立ててペンを置いた。拓くんは、か細く息を吸い込んだ。