表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
同居人は喋れない  作者: 流美
3/5

買われるということ

 風が温い。落ち葉の音が足元から聞こえてくる。どこかに姿を隠したコオロギやスズムシが、声を張り上げていた。



 闇の中、住居から漏れ出す明かりと、車のライトが道路を照らす。近くなったり遠くなったりする虫の音に、耳を傾けてみる。


 明かりの点いていない家に帰っていた2ヶ月前。今は当然のように明かりが点いていて、ドアを開ければ美味しそうな匂いが体に纏わりついてくる。



「ただいま」



 靴を脱ぎ捨て、自室でスーツから部屋着に着替えた。身軽になった体に、ほっと一息つく。それから心を躍らせて、リビングに入る。


 テーブルの上に揃えられた家庭料理と、向こう側に座って私を見上げる拓くん。テーブルの私側に置かれたメモ用紙には、おかえり、の一言。


 それを目にして、ただいまと再度言うと、拓くんには柔く笑ってくれる。私が席に座ったと同時に、拓くんは立ってご飯をよそいに向かう。



「いただきます」



 拓くんからお茶碗を受け取り、互いに向かい合うと手を合わせる。テレビをつけることはせずに、作ってくれた料理を食べ進めた。一口食べるごとにペースは早まり、食べ終わった頃には、相変わらず心が踊っていた。



 洗い物と片付けは私が行う。とはいっても量は無く、5分程で済んでしまうが。


 拓くんは食べ終えてから、自分でテレビを点けて熱中する。特に気になる番組があるのかないのか、料理番組からドキュメンタリー番組まで、様々な種類のものを見ている。


 何か面白いのか、楽しそうに笑顔を浮かべていた。



「最近、よく笑ってくれるようになったね」



 片付けを終え、定位置に座った私は何気なく声をかけてみた。瞬時にこっちを向き、曖昧に笑った。そして、もうすっかり手慣れた様子で、メモ用紙にペンを走らせる。



〈そうですか?〉


「うん。出会った頃とか、すっごい無愛想だった」


〈すみません……〉


「あ、責めてるとかじゃなくてね! 拓くんが笑ってくれるようになって、嬉しいの」



 虚を突かれたような表情を見せたが、私の言葉に、照れくさそうに目線をずらした。



「ほら、そういうとこ」



 前までは見せてくれなかった。嬉しそうな顔も、照れた顔も、驚いた顔も。気持ちが表情に出てくるようになったのは、最近になって。


 ふと気付いて、あぁ、慣れてくれたのかなと嬉しくなった。拓くんの笑顔は、どこか幼さが感じられて可愛い。



「ねぇ、拓くんはどんな人に買ってもらったの?」



 何気なく聞いてみた途端、拓くんの顔色がさっと変わる。狼狽える指先に、怯える瞳。聞いてはいけないことを、聞いてしまった。


 慌てて発言を取り消した。聞かなくていいのだ、拓くんを買った過去の人なんて。興味本位で踏み込むことじゃないんだ、きっと。



 ペンを握りしめて、なにかを書き始めた拓くん。もう二度と聞かないように念を押されるのだろう、と身構える。


 だけどその内容は、身構えたものと真逆のものだった。



〈聞いてくれますか〉


「……勿論」





***



 僕が檻に入れられたのは、6歳の誕生日を迎えた、数日後だった。



 誕生日の前日、両親は刃物を持ち出すような大喧嘩をした。原因は、双方の不倫。お互いに悪い筈なのに、お互いに罵り合っていた。


 直ぐに離婚の手続きを済ましたお母さんは、私が産んだのよ、と言って、僕の手を引いて家を出た。その時は少しだけ、嬉しかった。



 でも、お母さんは僕にお父さんを選ばれるのが嫌なだけだったみたい。大人のプライドってやつなんだろう。僕を邪魔だと殴りつけて、人身売買の会場に、引きずっていった。


 怖かった。檻の中に子どもがいる異質な空気が。全身に装飾をつけた見知らぬ人が。何も知らないその土地が。僕の肌をビリビリと痺れさせて、吐きそうなくらいに、心がきつく縛られた。



 それから僕が檻に入れられるのなんて、一瞬だった。


 お母さんが褐色肌の人と会話をしたと思ったら、その褐色肌の人に、開けられた檻の中へ突き飛ばされた。肘に擦り傷ができたくらいだけだけど、痛かった。


 ガチャンと閉められた檻の音が、痛かった。



――お母さん、出して!



 不思議と声は出なかった。無我夢中に叫んでいたのは、心の中だけだった。お母さんはその人とのやり取りを終えたら、僕に笑って手を振って、そのまま帰っていった。


 帰り際、もう僕を見てはくれなかった。



 檻の中で生活を始めてから、何が面白いのか、檻の外から僕を見てくる人はいっぱいいた。何人かはスタッフに話を聞いて、僕を買おうか迷っている人もいた。


 僕はそれを、ぼんやりと眺めているだけだった。買ってほしいとは思わない。勿論、ここで過ごすのも嫌だけど、お母さんに捨てられた僕は、もうどうしたらいいのか分からなかった。



 陽が沈んで、昇って。また陽が沈んで、昇って。何度も空はそれを繰り返すけど、お母さんの姿が見える日はこなかったし、声が聞こえる日もこなかった。


 代わりに僕は、初めて買われることが決まった。無愛想でなんの感情も無さそうな女性だった。白いワンピースが似合う、長い黒髪。ある日、僕をじっくりと見てから、他の檻を見ずにスタッフを呼んだ。



 ここに来たときの恐怖を、また感じた。スタッフとその女性の会話を聞きながら、背中が冷えて、息苦しくなるのが分かった。


 それは知らない人の元へ行くしかないという恐怖と、この檻から出てしまったら、それこそもう二度とお母さんと会えないんじゃないかって思ったから。



 勿論、反抗なんて許されないし、泣き叫んでまでここでお母さんを待っていようとも思わない。僕は開けられた檻の扉を見つめて、恐る恐る外に出た。


 その女性を見上げて、目を合わせてみると、女性は優しく僕の手を引っ張ってくれた。一瞬、どきりとしたけれど、久しぶりの手の温もりに、多少の安堵を覚えた。



「私は家事をしてほしいから君を買った。最初は教えてあげるから、早いとこ覚えて、できるようになってね」


「……はい」



 その女性は僕の名前を知っていたのだろうけど、名前を呼んでくれることは無かったし、僕に名前を教えてくれることも無かった。


 だけど女性は本当に、掃除も料理も洗濯も、僕ができるようになるまで全部教えてくれた。できるようになってからは、やることがあるようで、ずっと部屋に篭って集中をしていた。



 居心地が良いわけじゃなかった。家族でも友達でもない。家政婦みたいな扱い。今では少し感謝をしているけど。


 最終的にその女性は、1年程で僕のことを売った。結婚することになったかららしい。



 それから直ぐに、僕は再度買われた。息子を亡くしたという老夫婦。老夫婦は僕を本当の子どものように、心から優しく接してくれた。


 その環境が心地良くて、幸せだと感じられて、僕は積極的に家事を手伝った。未だにお母さんのことは心の隅に残っていたけれど、この人達の元で過ごせるなら、と諦めている僕もそこにはいた。



 毎日、ゆっくりとした時間の中で一緒に過ごした。時には水族館だとか、動物園だとか、僕だけのために連れて行ってくれた。


 初めて見る魚に、初めて見る動物。興奮して走り回る僕を、微笑みながら見守ってくれた老夫婦。


 でもお母さん、ともお父さん、とも呼べばしなかった。結局、どれだけ老夫婦のことが好きだろうと、実親の存在は消せない。



 老夫婦はそんな僕を快く許してくれ、お婆ちゃんとお爺ちゃん、そう呼ぶことを推奨してきた。それに甘えて、毎日毎日、お婆ちゃん、お爺ちゃんと呼んでいた。およそ2年間の、幸せな生活だった。



 いつしか、老夫婦は認知症を患い始めた。生命力も弱くなってきて、僕に笑いかけてくれることも圧倒的に少なくなった。そんな老夫婦は、覚悟を決めたように僕に問いかけた。



「また……あそこに戻しても、大丈夫かい……?」



 あそこ、というのは檻の中だと、言われなくても察することができた。戻りたくなんかなかった。離れたくなんかなかった。


 だけど老夫婦が死んでしまったら僕の居場所はない。生きる術さえ分からない。そんな僕にしてあげられる唯一の方法なんだな、とは、分かっていた。



「大丈夫だよ、お婆ちゃん。お爺ちゃんっ」



 不安な気持ちを隠すように、満面の笑みで答えてみせた。案の定、老夫婦は安心しきった表情を見せ……すぐに顔をしわくちゃにした。



「ごめんねぇ……本当に、ごめんねぇ……」



 お婆ちゃん、それからお爺ちゃん。今まで感じたことのない力で、僕を抱きしめてくれた。全身を包む温もりが、幸せで。



 あぁ、これで最後なんだな。



 耳元で啜り泣く2人の声が、胸をぎゅっと締め付けた。苦しくて、悲しくて、とてつもなく寂しい。


 それでも、大丈夫だよってまた笑おうとしたら、代わりに溢れたのは嗚咽と、大粒の涙だった。翌日、僕は老夫婦と手を繋いで、会場へと足を運んだ。



 老夫婦と別れてから、長い時間を檻の中で過ごした。老夫婦が恋しくて、寂しくて、落ち込んでる僕に足を止める人は、早々居ない。


 幸せだった時に比べて、この檻はあまりにも冷たかった。辺りが真っ暗になった頃に、涙を流すことも多々あった。そんな僕を買ったのは、厳つい顔をした、若くない男性だった。


 その人に買われて、漸く僕は人身売買の恐ろしさを身を以て体験した。これまで買ってくれた女性と老夫婦が、どれだけ運が良い相手だったのかと。




……あまり、思い出したくない。


 厳つい男は、滅多に口を開かなかった。その分、何かあれば殴ってきた。


 ストレス解消として殴る、蹴るは、ほぼ毎日。時に首を絞められて、意識が飛びかけたこともある。


 それから、危ない薬を売る代理人や配達人としても動かされた。代金を支払ってもらえずに、相手に殺されかけた挙句、厳つい男にも殺されるほど殴られた。



 吐いても吐いてもやめさせてくれなかった、飲酒も。不味くて、気持ち悪くて、頭がどれだけガンガンと痛んでも、厳つい男は無理矢理僕にお酒を飲ませてきた。


 頭のおかしくなった女の相手をさせられたことも多い。変な臭いがして、気持ち悪かった。それでも抵抗すると、厳つい男に殴られるから、為されるがまま。ただ何も考えないようにしながら、終わるのを待っていた。



 そのうちに、喋れなくなったことに気付いた。返事ができなくて、お腹を、背中を、足を、腕を、殴られて、蹴られて。いつもは口から出たごめんなさいも、出てこなかった。


 心の中でどれだけ全力で叫んでみても、口から声は出ない。許しても貰えない。うずくまってることしかできなくなった。



 同じような日々を繰り返して、当たり前の日常が分からなくなって、最初に僕を買ってくれた女性のことや、あんなに大好きだった老夫婦のことが霞む。


 幸せだと思っていたあのひと時が、もう思い出せない。どれを思い出そうとしても、厳つい男の顔や、頭のおかしい女の顔が僕の頭に浮かんで。胃から酸っぱい液が込み上げてくるんだ。



 喋れなくなって間も無く、僕はまた売られた。ぼろぼろになった身体と心。早いところ16歳になって、道端に捨てられてしまいたかった。独りで死んでしまいたかった。


 檻の中でうずくまるか、死んだように眠り続けるか。たまにふと目を開けては空を見上げ、無意識のうちに涙を零す。誰もかれも、大嫌いだ。



 そしてまさか15歳で買われる時まで、僕はそうやって過ごしていた。




***




「嘘、でしょ……」


〈ぜんぶ本当のことです〉



 信じられなかった。否、信じたくなかった。拓くんがそんな経験をして、あの檻の中にいただなんて。


 私が声をかけた時、拓くんは何を考えていたんだろう。私に買われることが決まったとき、拓くんは何を思っていたんだろう。



 自分でも知らない間に、頰を涙が伝っていた。人身売買というのは、そういうことだなんて、分かっているつもりだった。知っているつもりだった。


 殺す以外なら、誰にどう扱われようと罪には問われない。それが恐ろしさ。一度売られてしまった人間は、奴隷にも、王様にもなり得る。



 知りたくなかったわけじゃない。むしろ、話してくれたのは本当に嬉しい。けどいざ聞いてしまうと、現実があまりにも残酷で、無情で。



「ごめんね…………」



 何に対して謝ってしまったのか分からない。口から自然に、ごめんねという言葉が出てきてしまった。


 聞いてしまったことに対してなのか。その人達の代わりに、なのか。正直、何も考えてられない。ただ、胸が、痛い。



「拓くんを、もう痛い目になんて合わせないから……」


〈……ありがとうございます〉



 私が泣く意味なんて無いかもしれない。泣いたところで、拓くんの過去は変わらないし、拓くんの心が軽くなるわけじゃない。


 でも溢れ出てくる涙が止まらない。拭っても拭っても、溢れる。必死に目を擦って、涙を止めようとしたところで、私は腕を掴まれた。



〈目、はれちゃいますよ〉



 不安そうな顔の拓くん。私が目を合わせると、拓くんは冷凍庫から保冷剤を持ってきてくれた。


 タオルに包んで、目に当てる。そうやって優しすぎる拓くんだから、残酷な過去なんて消してしまいたいんだ。だって優しい拓くんを意地悪な人で染めてしまうなんて、おかしいじゃんか。



「ごめん。……お風呂、先入るね」



 少しして、そう告げた私は風呂場に向かう。不安げな表情を見せていた拓くんだが、特に動かないまま。私はシャワーを浴びて、お風呂へ浸かる。



 拓くんがここに来たときと比べて、断然笑うようになった。というよりも、一緒に生活をしてくれるようになった、のか。


 無愛想で、反応も薄くて、なんなら無視をしてきて。家事はやってくれていたけれど、ただそれだけの存在、みたいな。


 私のことをあくまで他人としか思えないのか、私が出掛けている間は飲まず食わずのせいで、熱中症になりかけていた時も。



 でも今は、全然違う。家事をやってくれているのは変わらないけれど、テレビを自分で勝手につけるし、飲み物だって好きに飲む。


 私の話を聞いて、笑って頷いてくれるようなことも多くなったし、積極的にメモ用紙で会話をしてくれるようにもなった。



――そうだ、拓くんは確実に心を開いてくれている。


 まだ途中だとは思うけど、あれ程辛い過去を話してくれるくらいには、心を開いてくれているのだ。



 良かった、と勝手に安心した途端、眠気が襲ってくる。お湯の温かさが、心地良い。


 しかし湯船の中で寝るわけにはいかない。お風呂から出て、眠い目を擦りながら着替える。居間には、さっきの位置で座ったまま、机に突っ伏している拓くんがいた。



「お風呂出たよ」



 そう後ろから声をかけてみるも、反応がない。隣に座って隙間から顔を覗くと、目を瞑っていた。寝ていただけだった。でもその目からは一筋だけ、涙が頬を伝っていた。


 私は本当に辛いことを、話させてしまった。深く実感し、また、心が強く痛む。拓くんがいつも使っている布団を、肩から掛けてあげた。



「おやすみ」



 小さく呟いて、電気を消す。起こしてあげようかとも悩んだけれど、それはやめておいた。途中で起きれば自分で布団に行くだろうし――何より、腕で半分隠されたメモ用紙を見てしまったら、起こすことなんかできない。



〈……かあさん〉



 普段とは違う、震えて、力の無い文字。まだ拓くんは母親のことを、心の何処かで待っていて、信じているのだろうか、と。


 拓くんだって分かっている筈だ。母親が辛い過去を作った原因で、もう二度と迎えになんて来ないこと。


 それでも、受け止めきれないのだろう。だってまだ15歳の少年だ。今も母親が隣にいて良い時期なのに、拓くんは6歳で売られてしまった。



 そんな拓くんを私は、そっとしておきたかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ