檻の中の少年
薄い掛け布団を除けた。窓の向こう側から、蝉の煩い鳴き声が幾重にも重なって聞こえてくる。寝起きの頭には、少し痛い音だ。
じっとりと、背中に服が張り付いている。気怠い体を強制的に動かして、顔を洗った。歯を磨いて、昨夜の残り物を口にして、それから、スーツに着替える。
誰もいない室内を背に、私は太陽が眩しく焦がす街中に、足を踏み入れた。行く宛もなく“社会人のフリ”をする私を、邪魔そうに追い越していく“社会人”。
途端に歩いているのが申し訳なく感じてしまって、木陰のベンチに腰掛けた。私だけ、何処か遠くを生きているみたいだった。
仕事、探さなきゃ。
満タンに充電されたスマホで、求人表を検索する。月25万とか、30万とか、いろんな情報を見ているうちに、目に付いたのはバナーの広告。
好きな相手が買える時代。何かのアニメのようなキャラクターと、隣に白いゴシック体で書かれたその文章は、いつもなら気にしないのに。指が招かれるように、つい、広告を押してしまっていた。
まだ私が生まれてなかった頃。だけどつい30年前。増え続けたホームレスの子どもや、幼児への親からの虐待を見兼ねてか否か、16歳までの子の人身売買が、許されるようになってしまった。
私の足は、ふらっと駅のホームへ向かう。人身売買の会場は、ここから電車で1時間程。Suicaの残額を確認してから、会場の最寄り駅への電車に乗り込む。朝からそっちの方面へ行く人は僅かなのか、私が乗り込んだ車両では、老人が1人、新聞を読んでいるだけだった。
ゴトゴトと音を立てて、電車が走り出す。子どもの頃は、電車はガタンゴトンと音を立て続けるのだと、ずっと勘違いしていた。実際にガタンゴトンなんて音は、橋の上を通る時くらいだった。
会場に行って、誰かを買うのか。なんて問われたら、ウンともイイエとも、今は答えられない。仕事に疲れてしまって、生きることさえ諦めそうな私の、言葉を聞いてくれる人が欲しい。
理由を付ければそうなるけれど、本当のところは、なんとなくにすぎなかった。ずっと興味がなかった。でも今日はなんか、行ってみようかなと思えた。それだけだった。
最寄駅に着いてから徒歩10分。スマホと睨めっこしながら、会場に到着する。自然豊かだった道のりとは打って変わって、賑やかな、屋外デパートみたいな場所が、そこには広がっていた。
市場、といえば良いのだろうか。同じ大きさの――3畳くらいの大きさの檻が、等間隔に並べられている。勿論、檻の中には、いろんな子どもが1人ずつ入っている。
いかにもお金持ち、というような服装をした人々が、様々な檻に群がっていた。どこもかしこも、スーツ姿の私なんかが割り込んでいける訳がなくて、ただその場をフラフラと歩く不審者だ。
ふと目に留まったのは、誰も周りにいない……誰かが中を見てもすぐに去っていってしまう、檻だった。これだけ檻に群がって、吟味をする人が多いのに、どうしてその檻だけは誰も足を止めないのだろうか。
恐る恐る近付いてみる。その檻には、中央でうずくまる男の子がいた。私の足音を耳にしてか、じろりとこちらを見たのに、すぐに目を逸らしてしまった。
「こんにちは」
こういう場所に来ることは初めてなので、いくら売られている子だとしても、声をかけるのは勇気がいった。なのに男の子は、けしてもう私のほうを見なかった。
「コンニチハ! もしかしてこのコ、気になってマスカ?」
横から会場のスタッフらしき人が話しかけてくる。褐色肌に露出の高い服、眩しい笑顔。スタッフだって分かったのは、首から名札を下げていたから。
いきなり話しかけられて戸惑いながらも、曖昧に頷く。そしたらこの人は、檻の中の男の子を、何も見ずに説明し始めた。得意げに、でもどこか、嘲笑っている。
「このコね、小さい頃はとても人気だったケドネ、今は無愛想で、売れないのデスネ。だから来年の春には、販売終了しちゃいマスネ〜」
販売終了ということは、道端に捨てられてしまうか、奴隷国へ送られてしまうということだ。そんなの慣れているのか、ニコニコと言ってのけるスタッフ。少しだけ、居心地が悪い。
話を聞いていると、どうやらこの男の子は15歳らしい。鈴木拓という名前で、何度も買われては売られているとのこと。
「すっごく安くなってるケドネ、お姉さんみたいな若い人が買うナラ、もっと若くてキュートなコにしたらいいデスヨ!」
「……ねぇ、鈴木拓くん。私の、話し相手にならない?」
良心で言ってくれてるのだろうけど、私はそんなスタッフの言葉を無視して、もう一度、声をかける。うずくまっていた拓くんの肩が、ぴくりと跳ねて、恐々とこっちに顔を向けた。
何かを訴えてくるような、深い瞳。物を言いたげに口を開いて、弾かれたように顔を再び伏せた。
「決めました。私、この子買います」
「えぇ、お姉さんホント? ウ〜ン、お姉さんそう言うなら嬉しいケドネ。じゃ契約書持ってくる、待っててくださいネ」
とたとたと、小学生の女子のような走り方をして、どこかへ行ってしまった。走っていったほうに本部があるのだろうかと思いながら、うずくまったままの拓くんに、目を移す。
正直、これだって決め手はない。瞳が寂しそうに見えたから。開きかけた口から何を言おうとしてたのか、気になったから。この子なら、安心できそうだななんて、直感的に感じたから。
「お待たせごめんナサイ。契約書を書いてもらう前に説明をしマス! 買ったコはどのように使っても大丈夫デス。でも故意に殺したりするのは禁止されてマス。殺しちゃうと訴えられるときもあるから、気をつけてネ」
一体このスタッフは何度同じ説明をしてきたのだろうか。淡々と、聞きやすい声で説明をされた。この説明は、人身売買の、ルールみたいなものかな。
故意に殺すことなど断じて無い。説明にも、見せてもらった契約書にも、何の問題も無いことを確認して、サインをした。それから、毎月2万払いの1年間で購入を確定。檻の鍵を開けてもらった。
「もうすぐ16歳になるから、このコはもうここに帰ってこられないネ。お姉さん、長く使ってあげてネ〜」
私がどのように拓くんを扱うと考えてるのかは分からないけど、なんだかんだ丁寧に案内してくれたスタッフに会釈をした。
檻の扉が開いたときから俯いたままの拓くん。足取りは重く見えるけど、しっかりと私の後を着いてきてくれる。ちらと、遠くなったスタッフを見ると、未だに手を振っていた。
「私は大野真尋。これから宜しくね、拓くん」
言い方は悪いけど、買った側としては、なるべく早く仲良くなりたい。一先ずは少しだけでも心を許してほしい。だから友好的に、積極的に声をかけてみるけど、拓くんは微妙に首を動かしたくらいだった。
そこから電車に乗って、家に向かう。向かっている途中、自分のことをいろいろ話してみたけれど、反応はいまいち。初対面だし仕方ないかな、なんて考えて、仕事探しをまともにやっていないことに気付く。
今日こそ新しい仕事を見つけるって決めたのに。半ば急ぎ足で家に帰った私は、拓くんに座椅子に座ってもらうと、スマホで求人表を開いた。
画面をスクロールして、私ができそうな仕事を探す。動かない事務仕事とかは苦手だから、体を動かすやつがいいな。
飲食店やコンビニ、遊園地スタッフなどの募集に目をつけながら、2人で生活していけそうなくらいの月給で探していく。いくつかをお気に入り登録した中で、1番家から近い飲食店に、電話を掛けることにした。
「電話掛けるから、静かにしててね〜」
緊張しているのか否か、座椅子に座ったときから全く動いていない拓くん。足痺れないのかなと気になりつつも、別室に行って電話を掛ける。トーンを上げた声色で、ハキハキと喋る。なによりまず大切なのは、第一印象だ。
電話を掛けるのは何歳になっても不安がある。特に、企業相手だと。自分じゃ分からない、電波の状況もそうだし、相手にちゃんと聞こえているだろうか、っていう不安もある。
威圧感のある店長との電話を、なんとか終え、部屋に戻った。すると私の姿を見次第、拓くんは手の平に、人差し指で何かを書くような動作をした。首を傾げるけど、拓くんは同じ動作を必死に繰り返す。
「何か……書きたい、の?」
とりあえず思いついたことを聞いてみると、遠慮気味にだが、頷いた。口で言ってくれれば早いのにな、と思いながらも、家電の側に置いてあるメモ帳と、ペンを渡した。すぐに文字を書いた拓くんは、私にそれを見せてくれた。
〈ぼく喋れないけど大丈夫ですか〉
綺麗な、でも男の子らしい字。私が紙を手にして読んでいる間、拓くんはビクビクと怯えているようだった。
喋れないから、今まで何も返してくれなかったのだろうか。にしては、この怯えようは一体何故か。私は割れ物に触れるように、そっと、優しく声を掛けた。
「大丈夫よ、気にしないで」
〈あなたの会話相手をちゃんとできません〉
「いーのいーの、聞いてくれる人がいるってだけで、気持ちが楽になるんだよ。女性っていうのはね」
15歳で、そんなことに気を遣えるのかと感心しながら、なんてことないように返答を続ける。まだ少年なわけだし、檻の中の生活から出られたことに喜ぶのが普通なんじゃないかな。
そう思ったけれど、言うのはやめておいた。ずっと無愛想のままだけど、元々、謙虚な性格なのかもしれないし。
「何か食べたい物ある?」
時計の針は、もうすぐ11時を指す。そろそろお昼ご飯を買いに行かないと、お店が混雑する頃だ。
遠慮しているのか、いきなり聞かれて戸惑ったのか、拓くんは両手を顔の前で大きく振った。ついでに、首も。
流石に、来たばかりで聞くのは答えづらかったかな。冷蔵庫を開けて、何かあるかと確認する。先日のお昼に食べた、うどんが2袋も残っていた。
そういえばこの前、何を思ったのか買いすぎちゃったんだよな。ツナと、うどんにかける汁もある。卵もあるし、先日のお昼ご飯と同じものを作ろう。
「お昼ご飯、うどんで大丈夫?」
相変わらず遠慮気味に、小さく頷く拓くん。1人前でいいかな、と、私の分と拓くんの分で2袋開ける。袋に書かれた説明をざっと読んで、レンジの中に置いた。
温めスタートのボタンを押して、今度はツナ缶の汁を切る。開けすぎて、危うくツナが全部流れでそうになりながらも、温めが終わる前に無事に終えた。
お皿に温まったうどんを出して、少しほぐす。それからツナを飾るようにして、上から卵を落とす。私の簡易的お昼ご飯の完成。
一人暮らしを始めてから、初の2人前だ。誰かの為にご飯を作るというのは、ちょっとだけ、なんだか恥ずかしい。今更になって、家庭力の平凡さを悔やんだ。
「はい。こんなものだけど、良かったら食べて」
足を崩さないままの拓くんの前に、お皿を置く。反対側に、私のお皿を置いた。拓くんには申し訳ないけれど、家に箸は私の分だけなので、拓くんには割り箸を渡した。
いただきます、と手を合わせて食べ始める私を見てか、真顔のまま、拓くんも手を合わせて、微小にお辞儀をした。それから、ごちそうさま、と再度手を合わせたときも、拓くんは一片の笑顔も見せずに、同じようにお辞儀をしただけだった。
まぁ普通に食べてくれたなら良かったかな、と気楽に考えるようにして、自分のお皿に拓くんのお皿を重ねたとき。慌てたようにメモ帳を手にして、文字を書き始めた。
横目で見つつ、不思議に思いながら、お皿を流しに置いて蛇口を捻ったら、メモ用紙が目の前に現れた。
〈ぼくが洗います〉
びっくりして、反射的に声が出てしまった。隣からいきなりメモ用紙を出してきたのもそうだけど、そんな気を遣ってくれるなんて。
「大丈夫よ、気にしないで! 今日くらいゆっくりしてて?」
そうは言ってみたものの、頑なに首を振る拓くん。袖捲りもして、譲る気は無さそうだった。
気を遣ってるだけなのか、誰かに家事を教わっていたのか……。私の目をじっと見つめて、いいからやらせろよ、なんて言ってきそうな拓くん。気まずくなって、私が折れることにした。
「じゃあ、ごめんね。お願いします」
今度はしっかりと頷いた拓くんを見て、私はどうしようと考える。水が跳ねる音と、スポンジをくしゅくしゅ握って、お皿を洗う音。
そういえば、どこかに使ってないメモ帳なかったかな。拓くんが使っているのは家電のメモ帳なので、できれば使ってほしくない。新しく買えば済む話なんだけど。
どこかしらにはあるだろうと、片っ端から引き出しを開けてみる。案の定、2段目に入っていたので、あっさり見つかった。
いつだか買った、防水のメモ帳。何の目的で買ったのか忘れたけど、もう使わない。ついでに、一緒に入っていたボールペンも拓くんにあげてしまおう。
台所を見ると、丁度洗い物を終えたようで、濡れた手の行き場に困っていた。
「下にあるタオルで拭いていいよ!」
私の言葉を聞いて、白いタオルで手を拭く。未だに表情の変わらない拓くんに、先程見つけたメモ帳とペンを差し出した。
「拓くんにあげるから、このメモ帳使って」
困惑したように動きを一瞬止めたが、恐る恐る手を伸ばしてきて、受け取ってくれた。防水のメモ用紙の書き心地はどうだか分からないけど、遠慮なく使ってくれるといいな。
洗い物をしてる間、横に置いてあった家電用のメモ帳を、私に渡してくる。有り難く受け取って、家電の隣に設置し直した。
〈ありがとうございます〉
「いえいえ。こちらこそ、洗い物してくれてありがとう!」
深々とお辞儀をされたので、私も深々とお辞儀をして返す。大事そうに、両手でメモ帳を持ってくれているのが、いささか可愛い。小動物みたいだ。
それから私達は、お互いに何もしないまま、夕方を迎えた。
「夜ご飯、どうしようかなぁ」
ぽつりと呟いてみた言葉に反応して、メモ帳に文字を書き出す。ただの独り言なのに、反応が早いなぁ、なんて。
反応してくれる人がいるのは、すごく贅沢なことだなと感じる。19歳から一人暮らしを始め、1度は恋人を作ってみたけれど、上手くいかないで終わった。
ずっと一人のまま、ここに住んでいた。近所付き合いも、一切ない。だから本当に、独り言に反応してくれるような人って、貴重で、大事にしないといけない人なんだろうな。
〈ハンバーグで、どうでしょうか〉
「あ〜いいねぇハンバーグ。久しぶりにそうしようかな」
ハンバーグなんて、自分だけの為に作らない。お弁当とか、レンチンだけのとかなら、たまに食べるけど。
今日は拓くんもいるし、ということで買い出しに向かう。生憎、ハンバーグに必要な材料が一切揃っていない。
拓くんが一緒に着いてきてくれるらしいから、近場のスーパーに歩いて向かうことにした。
歩きながら会話するのは、私はともかく、拓くんが危ない。折角だし私の話を聞いてもらおうかな、とも考えたけれど、一方的に話してしまうのは、今は、何か違う。
一歩後ろから着いてくる拓くんを、時々確認しながら、およそ20分。ここら辺で最大のスーパーに到着した。
「疲れてない?」
もう既に遅いが、檻から出たばかりの少年に、20分も歩かせるのは酷だったのではないか。慌てて問いかけてみたけれど、平然と頷いてくれた。安心して、買い物かごを手に取る。
ハンバーグに必要な材料を、次々にカゴの中へ放り込んでいく。私の横で、きょろきょろと周りを見回している拓くん。何か珍しいのか、何か不思議なのか。あちこちに興味を向けている様子で、なんだか微笑ましい。
何時に来ても長蛇の列なレジに並び出すと、拓くんは漸く落ち着いた。カゴの中をじっと見つめて、動かない。
そこから数分して、お会計を済ませ、持参したエコバッグに買ったものを詰め込む。いざ帰宅、と気合を入れたところで、拓くんがエコバッグに手を伸ばした。
「持ってくれるの?」
無愛想に、私の目を見て頷く。本当に、偉い子なんだなぁとじんわり感じながら、ありがとうと素直にエコバッグを任せる。そこまで重くはない筈だ。
ゆらゆらと、夏の日差しを浴びながら歩いて帰る。せめて日傘でも持ってくれば良かった。そうは思ったものの、日傘なんてものはここ数年使っておらず、どこに仕舞い込んだかなんて分からなかった。
おかしいな、来るときはこんなに暑くなかったと思ったのに。
朝起きた時点で汗をかいていたのに、何故、気が回らなかったのだろう。たった20分のこの距離でも、車で来れば良かった。
お互い足取りが重くなりつつも、なんとか帰宅をする。買ったものは冷蔵庫に詰めて、座椅子に座った拓くんに、ポカリスエットをコップに注いで渡した。
汗を滲ませて、いささか苦しそうに息を吐いている拓くん。私からコップを受け取ると、煽るように飲み干した。口元の雫を袖で拭い、息をひとつ吐く。
〈ありがとうございます〉
「暑い中ごめんね。ゆっくりしてて!」
もう一度、拓くんのコップにポカリスエットを注いでから、自分の分もコップに注ぐ。2回に分けて飲み干した私は、拓くんの反対側で、いつものようにスマホを弄り出した。
小説も漫画も読むけれど、どれもこれも最近読んでしまったものばかり。そういうときは決まって、スマホに触ってしまう。過去には依存症として、世間から問題視されていたが……改善する術が作られるわけでもなかった。
漫画を読んだり、ゲームをしたり、音楽を聞いたり。その間、拓くんにはテレビを見てもらった。最初は遠慮してたけど、しばらくしたら画面に釘付けになっていた。
テレビは案外見る子なのかな、と、視線を一切動かさない拓くんを、ちらりと見て思う。拓くんの分までスマホを買ってあげられるまでの余裕はないから、少しだけ助かる。
そのうちに、淡いオレンジ色の光が、窓から射し込んできた。そろそろご飯の用意をしなければ、と冷蔵庫を開けた。中から、昼に買った材料を取り出していると、拓くんがやってくる。
〈ぼくがハンバーグ、つくりますよ〉
「えっ、拓くん作れるの!?」
〈料理はとくいです〉
「そうなんだ……でもやってもらうのは忍びないし……」
〈買ってもらった身なので、やらせてください〉
断固として譲ってくれない。料理が得意なことには勿論、あまりに謙虚な姿勢にも驚いた。なんでこんな良い子が、あんなところにいたのだろうか。
しかし、拓くんは働ける年齢ではない。何か家のことを任せるというのは私としても、拓くんとしても良いことなのかもしれない。どうしても抵抗はあったが、私が折れて、作ってもらうことにした。毎日は作ってもらわなくても、時々作ってもらおう。
夕飯の準備をお願いするにあたって、台所の使い方を軽く説明する。食器の場所、調味料の種類、片付けの方法。一人暮らしだからそんなに教えることもなく、あとは自由に使ってもらうことにして、私はテーブルの前に座った。
またスマホを弄るのも、そろそろ疲れてきてしまっていた。かといって、小説や漫画を読む気分にも、テレビをつける気分にもならない。
そのうち、肉が混ざり合う音が聞こえてきて、耳を澄ました。家族で一緒に暮らしていた頃が、不意に懐かしくなる。誰かの手料理なんて、いつ振りなんだろう。
作ってくれるのが、私よりも11歳下だなんて、びっくりだけど。……それでも、手料理は幸せだ。
――とんとん、と背中を叩かれた。意識がぱっと明るくなって、ぼんやりとした感覚。濃厚な匂いが、体の中に入ってくる。
背中を叩いてきたほうを見ると、片手にメモ用紙を持った拓くんが、真っ直ぐに私を見ていた。
〈ハンバーグ、できましたよ〉
「あ、ありがとう! もしかして私……寝てた?」
〈10分ほど〉
自分でも気付かないうちに寝てしまうなんて。段々と顔が熱くなる。にこりともしない拓くんを見てると、そのうち、申し訳ない気持ちのほうが上回ってきた。
私が完全に目覚めたのを確認して、拓くんは台所へと戻った。その後を着いていって、拓くんがハンバーグの乗ったお皿を持っていく間に、白米をお茶碗によそる。
お箸と、小皿と、お茶碗。それぞれ2人分を持って、テーブルの上、向かい合わせに並べた。
いただきます、と手を合わせる。お昼と同じことを繰り返して、私はハンバーグに手をつけた。
小皿にひとつ持ってきて、一口大に箸で切る。分厚いハンバーグから、切った瞬間に溢れる肉汁。きらきらと光っている。箸でそっと掴んで、口の中に放り込んだ。
やばい、美味しい。
他人が作った料理だからなのか、拓くんの料理が上手いのかは分からない。けど、すごく美味しい。胸の奥がじーんとして、頰が勝手に緩んで、思わず口元を押さえてしまう。
私の様子を見てか、ちょっとだけ不安そうに眉を下げた拓くんが、メモを手に取る。なんとなく聞かれることが察せたので、慌てて首を振った。
「美味しすぎて驚いてるだけだよ!」
少々声を張り上げ訴えると、ほっとしたのか、照れているのか、上目遣いで私を見て会釈をしてきた。すぐに食べるのを再開する拓くん。私もまた一口、また一口とハンバーグに手をつけているうちに、がっつくように食べ進んでしまった。
「美味しかった……」
一種の感動を覚えつつ、食事を終えた。流石に後片付けも任せるわけにはいかないので、食器は私が洗って片付ける。
それにしても、想像以上だった。スポンジを泡だてながら、ハンバーグの、夢いっぱいの味を思い出す。食べたばかりでお腹はいっぱいなのに、今にも涎が出てしまいそう。
ぱぱっと洗い物を終わらせ、私、拓くんの順にお風呂に入る。着替えが無かったことに気付いた時には、もう拓くんはびしょ濡れだったから、フリーサイズの私の私服を貸すことにした。
そして申し訳ながら我が家のベッドはシングル。誰かが泊まりにくることもないので、予備の布団があるわけでもない。
どうしようかなと考えた末に、仕舞っていた毛布を1枚貸して、それにくるまって居間で寝てもらうことにした。
悩んでいたら拓くんが、檻の中で過ごしていたのでどこでも眠れる、と言ってくれたため、苦肉の策だ。夏で暑いとはいえ、毛布1枚だけで寝てもらうのは本当に申し訳ないけど。
〈毛布があるだけで、とてもありがたいですから〉
気にしないで、とでも言うように、拓くんはそう書いたメモ用紙を見せてくる。いくら拓くんが遠慮しようと、本当に有難いと思っていようと、同じ人間である以上、あまり差は作りたくない。
敷布団だけならある程度安く買えるだろう。なるべく早くに買いにいかなくては。
「体痛かったらちゃんと言ってね」
こくんと素直に頷いたのを見て、電気を消す。ベッドに潜り込んで、気分に合うポジションを探すと、大きく息を吐き出した。
心臓が今頃になって、どきどき鳴り始めた。いきなり出会っていきなり同居。そんなの買ったんだから当たり前だけど、幾度か会いに行ってから買うのが普通だっただろうか。
こんなことは考えたくないけど、もしかしたら出来心で何かを盗んで出て行ってしまうかもしれない。人間を買うような私に恨みを持っているかもしれない。
私はただの購入者で、拓くんからしたら何の情もない相手。不安と恐怖、それと焦りでいっぱいになる。
拓くんに、心から信頼してもらえるようになりたい。
恐ろしいことは無理やり頭の中から追い出して、私は寝る体勢を変えた。何も考えないように、考えないようにしているうちに、気付けばまた、ふっと眠りについているのだった。