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メアリーの部屋

作者: NS

 私が暮らす400立方メートルの世界は「メアリーの部屋」と呼ばれています。

 私がメアリーだから、ではありません。確かに私の名前はメアリーですが、そこは順序が逆なのです。その部屋で生きるが故に、私はメアリーと名付けられたのです。

 この部屋にはふたつの色しかありません。白と黒。それ以外の色が存在することが許されない世界で、私は25年ほど生きてきました。

 部屋の中にあるものの数は物心ついてから変わっていません。

 机がひとつあります。

 椅子がふたつあります。

 ベッドがひとつあります。

 タブレット型の端末がひとつあります。

 私はここ以外の部屋を知りませんから、この数が多いのか少ないのかも分かりませんが、少なくとも不便したことはありません。私の生活に必要なものはすべて先生が外から持ち込んでくださるからです。そうしたものも含め、私が目にするものは全て白を基調としていて、場合によっては見分けがつけやすいよう部分的に黒く塗られています。

 教育を受ける以前から、すくなくともこの世界には2種類のものが存在していて、一方が他方よりもたくさん有るということを私は把握していました。それらの間の差異を「色」として認識し、どちらが黒でどちらが白なのかを先生に訪ねたのは、私が4歳のころだったそうです。といっても、そのような幼い頃の記憶を、私はあまり鮮明に保持しているわけではないのですが。

 壁、床、天井、扉。部屋というひとつの空間を規定するこれらの諸要素は、やはり白にカテゴライズされるであろう色をしています(ここで私がいくぶん婉曲な表現をした理由については、後ほど明らかになるでしょう)。扉の向こうには当然通路があるわけですが、そこも一面真っ白で、それ以外の色はきれいさっぱり排除されています。

 ところで、ここで一応確認しておかなければならないのは、私が人間であるということです。少なくとも私はそう教わってきています。確信が持てるかというとそうでもありません。というのも私は自分以外の知的存在といえば先生しか知らないわけですし、先生が人間であるという確信を持ち合わせているわけではないですし、さらにいえば、そもそも先生および私が人間であるという証拠も、明確な形では存在しないからです。もしかすると私は知性をもった機械なのかもしれません。先生に至ってはゾンビと自称しています。とはいえ、人間であるか否かが重要になるのは、人間であるか否かに応じて処遇が変わる状況、すなわち社会においてのみであるわけですし、私の世界は通常の社会からは隔絶されているわけですので、人間であるかはさして重要な問題ではないのです。話が逸れましたが、ここで何が言いたかったかというと、私はおそらく白でも黒でもない肌の色をしている、ということです。もちろん人種の話をしているわけではありません。私の遺伝的ルーツによらず、私の体色はこの部屋の秩序を破るものではないか、そう思われる方がおられるでしょう。当然そうではありません。私の全身は白く薄く、柔軟性と通気性に富み、身体認識の為にいくつかの箇所が黒く塗られている布ですっかり覆われているからです。私は自分の肌をこの目で見たことがありません。自分の遺伝的起源についてもわかりません。その意味でわたしは、通常人が持つべきアイデンティティの多くを持っていないのだと言うことができます。それを気にしたことさえない理由は、すでに述べたとおりです。

 例外的に目の部分だけ透明で固い物質によって覆われています。眼球をくりぬいてしまう可能性を排除するためでしょう。この箇所は遠隔操作によって真っ黒にすることができます。一日三回の食事時など、必要に応じて目隠しされる、という寸法です。口の部分も普段は塞がれています。うっかり口の中をかんでしまって、血液が流れだしてしまってはことですからね。

 この徹底ぶりから推測されるかと思われますが、私はみずからの食事、排泄、その他もろもろの生理的に必要な物質、などなどを目視したことがありません。それらは私の睡眠中か、あるいは目隠しをされた状況においてのみ行われるからです。

 ちなみに私は女性であるとのことです。年齢を考えれば月経が訪れているべきですが、今のところ経験はありません。これについては成長ホルモンを調整して性徴を完全に停止させている、とのことでした。血液の問題を解決するための措置であるという説明でしたが、いちいちそんなことをするくらいなら男性を被験者にするべきだろう、と思われることでしょう。もちろん私もそう思いました。馬鹿馬鹿しいことに、私が「メアリー」でなければならないから、というのがその理由であるとのことです(男性に「メアリー」と名付けるだけの柔軟性を彼らに期待することはできません)。

 このように長々と語ってきたことで説明したかったのは、要するに、私が人生でふたつの色しか知覚したことがない、という事なのです。

 「語ってきた」。私は言語を使用することができます。そうですね?これはつまり、わたしが一定の教育を受けてきたことを示唆します。その通りです。15歳になるまでの私の生活の大部分は学習に充てられていました。基礎的な教養が身についたと判断されて学習の段階は終わり、現在私は神経生理学の研究をしています。最新の論文や実験の報告書を読み、メールを用いて他の研究者と交流する。実験などには滅多に参加できないのですが、それでも私はこの分野においてそれなり以上の成果をあげてきました。通常の社会における同年齢の人間と比較した場合、私の知識量はどの程度のものなのか。先生によると、どうやら私はずいぶんと「賢い」人間だそうです。さらに言えば、「色の知覚」に関して言えば私以上に精通している人間は存在しないとも。自慢する気はさらさらありませんが、この点に関しては、そうだろうなと確信しておりました。そしてそれはまさにこの実験の企図するところでした――私は、視覚に関する「ありとあらゆる」知識を所有しなければならないのです。むろん、そのようなことは、原理的には神のごとき存在者にしか能わぬのですが。

 実験。そう、私の全生涯はひとつの実験なのです。

 その実験は、この部屋そのものと同じく、「メアリーの部屋」と名付けられています。

 視覚に関する知識を得る為には一定のリテラシーが必要ですので、結果的に、教育の内容は多岐に渡りました。そこには社会や道徳、哲学に関するものも存在します。そうすれば当然、私は次のような問いに突き当たるわけです。

 ひとつ、私が受けているこの扱いは明らかに人道に悖るものではないか。

 ふたつ、この「実験」はナンセンスではないか。

 ひとつめの問いは私が有する道徳判断の、ふたつめは私の科学的および哲学的知識の妥当性を確認するためのものでした。これらふたつの問いに、先生は誠実にも、そうだよ、と答えられました。私はその回答に満足し、その日の授業にいつも以上に熱心に取り組みました。

 ここで自分の待遇を嫌悪し拒絶するのが、人間として正しい在り方だったのかもしれません。しかしながら私は自らの境遇に全く不満を抱いておらず、むしろ満足していたのです。少なくとも私は生きている。誰にも傷つけられることなく生存している。毎日必要な食事が与えられている。それで充足してしまうのは人間的ではない、それは確かな事でしょう。おそらく私は人間であっても人間的ではないのです。であれば、人間的な扱いをされないことに怒りを覚える必要も無かろう、というわけです。とはいえ、苦痛が与えられればそれにたいして反撃してやろうとは思っています。幸か不幸かそうした経験は今までに一度もないのですが。

 それに、大事な事ですが、この世界は美しい。それだけでも私が生きるには十分でした。

 この世界は美しい――それは先生がしばしば口にする言葉でした。この場合の「世界」は、私の400立方メートルの世界ではなく、その外にある、色のついた世界のことを意味していました。その世界は美しい、このモノクロの部屋とは違って。君が学びを終えた時、その美しい世界を見せてあげよう。そうやって先生は私に言うのでした。それが私を被験者とする実験の最終段階であり、そのとき私が何を知るのか、いや、そもそも私がなにかを「知る」のか否か、それを明らかにするのが、実験者の目的だったのです。

 意外に思われるかもしれませんが、私は「美」の観念をきちんと持ち合わせております。むろんこの点においてなにか優れた才能を持っているわけではありませんが、少なくとも普通に、たとえば彫刻作品を見てこころを動かされる程度にはあります。しかしながら、色のつくことで新たに加わる「美」については、想像さえつかぬものでした。ですから、先生の言葉は日々の学習――とりわけ私が酷く苦手としていた文学――の励みになりました。それは確かなことです。

 その一方で、私はこっそりと、この部屋を「モノクロ」だとする先生と、たぶん同じように考えているだろう実験者の浅薄さに、意地悪な笑みを浮かべるのがしばしばでした。

 ここで先ほどの「婉曲な言い回し」に話が戻ってきます。この部屋には、2つの色しかありません。しかしその2つの色のうちに、さまざまな色を私は認めていました。この異常な、自然から逸脱したきわめて人工的な環境にわたしの身体が適応したのでしょう。通常の人間では決して知覚出来ないであろうごくごく微細な色の際、ひとつの白におけるふたつの白、それが私を楽しませました。

無論私には、それらの色をどのように表現して良いのかわかりません。色に関する語彙は複数持っておりますが、それを知覚と整合させることができないからです。しかしそれでも断言することができます。この部屋には、数え切れぬほどの色があります。

 かつては、それらの差異はいつでも自由に認識できるものではありませんでした。ときおり不意に、「あ、これは他の『白』とは違うな」と気付きを得たのです。その事実を私は注意深く隠ぺいし、こっそりと日々の楽しみとしたのです。それは私のとても単調な生活に色を添える経験であり、けっして奪われてはならないものでした。

 今や私は、人間の意図をもって白と黒に塗りつぶされた世界のうちに、無限に多くの無名の色を見出すことができます。わたしはその有様を大変好んでおりました。

 確信をもって言いましょう。この400立法メートルの世界は美しい。

 しかし、です。この「美しい」は、外の世界を知らぬが故の「美しい」にほかなりません。実験が行われた際、果たして私はこの世界を、「美しい」と言い続けることができるのでしょうか?好奇心がそそられます。

 つまり私にとっては、単に美しい世界に出ることそのものよりも、その世界といま私が生きているこの美しい世界とのどちらがより美しいのか、それを確かめることこそが楽しみであったのでした。


 その日は不意に――ではなく、思った通りのタイミングで訪れました。先生に定期的に渡す論文で、私は「マリーの部屋」に関する一考察を論じました。教育のせいでしょうか、私は基本的には物理主義を奉じておりますし、意識や私秘的経験と言ったものの実在には懐疑的です。にもかかわらず、私は「部屋」に関して、「彼女は知識を得るだろう」と結論付けました。そしてまた、このような結論となるのは、この実験の想定している諸条件に関する定義不足ゆえにある、とも。

 その論文を手渡して数日たったころから、部屋の外で何やら慌ただしく人が動いているのを、私は察知していました。視覚においてひどく制約を受けているからか、あるいはそれとは無関係なのかは分かりませんが、私の聴覚はずいぶんと発達しており、壁や天井の向こうで変化があればなんとなく聞き取ることができたのです。常軌を逸するほどに耳が良いというわけでもありませんから、聞き取ることができたという事実そのものが、その変化が大きなものであったことをも示していました。

 それからさらに一週間ほどあと、なんとはなしに『動物部分論』を読んでいた私のもとに、先生が訪れました。先生はいつもの平坦な口調で、明日「メアリーの部屋」実験が最終段階に移行することを告げました。私はこの実験が終わった後、私はどうなるのかと尋ねました。先生が首を傾げたので、私は補足して、これで用済みとばかりに殺されるのは勘弁してほしいという旨を伝えました。恥ずかしながら私にも現世に対する未練というものがあったのです(その内容に関しては恥ずかしいので黙秘させていただきます)。あと一週間、できれば二週間は欲しい、と懇願しました。得心がいったように先生は頷き、実験後私は研究者として施設に雇われること、機密上施設から出ることは許されないけれど、すくなくとも現状よりは遥かに自由な立場を与えられることなどが伝えられました。なるほど実に人道的ですね、と私が皮肉を言うと、先生はおかしそうに肩を震わせながら、その幸運を噛みしめたまえ、と仰いました。

 その日の夜はなかなか寝付けませんでした。基本的に単調な日々を送ってきた私にとって、翌日になにか特別なことがあるという経験はほとんどありません。好奇心が睡眠欲求を阻害する、その度合いを、私ははじめて経験していました。無理もない事です。その「特別なこと」は、実験者のみならず、被験者たる私にとっても、かねてよりの疑問が解き明かされる瞬間になるのかもしれないのですから。

 私は何かを「知る」のでしょうか?「赤い」と呼ばれる色をもつ花を見た時に私の脳で何が起こっているのか、私は完璧に知っています。さて、その私は「赤」とは何なのかを知っていると言えるのでしょうか?むろん私はその「赤」を赤と表現することはできますまい。私には赤と青を区別することはできますまい。そこは問題ではないのです。外に出て、色のあるものを見たその瞬間、私は何かを「知る」のでしょうか?もし知ったのならば、それは美しいものなのでしょうか?

 この世界とその世界のどちらがより美しい世界なのでしょうか?


 気が付けば私は目覚めていました。時間を確認するといつもの起床時刻です。私は普段の八割程度の意識レベルのまま寝台から体を起こし、朝のストレッチを済ませました。ちょうど朝食の時間がやってきます。普段通り、先生が私の口にチューブを突っ込み、私はチューブから吐き出されるものを嚥下していきます。私が好きなバナナフレーバーです。

 朝食とその後始末を終えたのち、先生は実験の開始時刻は六時間後だと仰いました。それまで何をしていましょうかと尋ねると、目を休めておくようにとのことでしたので、私は寝台の上で座禅を組み、瞑想することにしました。

 しばし無を感じていたところ、不意に肩が叩かれました。先生です。私の部屋にこんなに長居をするのは珍しいですね、と尋ねると、先生は寝ぼけているのかと仰いました。どうやら座禅を組んだまま眠ってしまっていたようです。瞑想の開始から六時間が経過しておりました。つまり、実験開始というわけです。

 視界が閉ざされました。ほとんど白色だった世界が一転真っ黒に変遷します。先生に手を取られ、私は歩き出しました。何も見えなくとも自分がどこにいるのかは良く分かるのは、やはり視覚が制限されてきた結果でしょうか。

部屋を出ました。ここは廊下でしょう。ぺったんぺったんという足音は私の物で、それよりやや重たく聞こえるのは先生の物です。

 先生が立ち止まります。風を感じました。おそらく扉を開けたのでしょう。

 ふたたびぺったんぺったんと足音。それに、どっ、どっ、どっという、心音。無論私のものです。早鐘をうつ、と表現されるものでしょう。同時に汗を感じました。唾を飲みこんでいました。

 私は緊張しています。それは確かなことです。恐れとか怯えはありません。どっ、どっ、どっ。ごくん。胃袋がきゅうと縮こまりました。

意味も無く瞼に力を込めます。そうすれば、視界が開けた時より良く世界が見られるとでもおもっているのです。無意味なことです。鼻で笑われてしかるべきことです。それでも、反射的にそうしてしまったのでした。仕方のないことです。

 鼻で深く吸い、口から大きく吐きます。蒸れましたが気にしません。


 それは美しいのだそうです。

 いまの私には分かりません。

 これまでの私には分かりませんでした。

 これからの私には、分かるのでしょうか。


 がっかりしないかな、期待外れだったらどうしよう。弱気になりかけます。

 いや、それは無い。私はすべてを知っているけれど、私という一つの現象になにかが起きるのは間違いないのだから。私はそれを確信しています。

 もう一度、先生が立ち止まりました。風が吹きます。その風には匂いがありました。それは、嗅いだことのない匂いでした。

 先生は独り言じみて良い天気だと呟いたのち、私に世界についての説明をしました。場所は施設内にある、吹き抜けの広場です。天気は晴れ。それも先ほど言っていました。

 空が見えるそうです。

 天井はガラス張り。

 私は施設内の様子をモノクロ写真で知っています。

 そこに天候の要素を加えて、想像してみます。

 空は青いそうです。太陽は白く知覚されるはずです。

 植樹されていたことと思い出しました。季節は春。

 もしかすると花が咲いているかもしれません。

 少なくとも緑があるはずです。

 知っている、知っていますとも。私は緑を知っている――見たことは無いけれど。

 コンクリートはつまらない。きっと見慣れているあれと同じようなものだろう。いやしかし、どうだろう。どっ、どっ、どっと心臓が暴れています。息を深く吸い、吐きました。

 五秒後にブラインド上げるよ、と先生がおっしゃいました。息が止まりました。

 瞼を開きます。これ以上なく開いているのを感じます。いまだ世界は黒一色。次の瞬間には、色に満ちた世界。脈動は今や意識の外にありました。

 視界が開かれます。眩い光の向こう側に、私はそれを目にしました。

 

 そこには色がありました。

 ここにも色がありました

 そこにも色がありました。

 あちらにも色がありました。

 こちらにも色がありました。

 視野の端に色がありました。

 そのなかにまたひとつの色がありました。

 それらのあわいにまた色がありました。

 ほかの色がありました。

 またほかの色がありました。

 目を向けたあらゆるところに色がありました。

 目を向けざる全てのところに色がありました。

 運動にさえ色がありました。

 停止にすら色がありました。

 いましがた見ていたのとは別の色がありました。

 色がありました。

 色がありました。

 色がありました。

 色がありました。

 色がありました。

 世界は隙間なくぎっちりと色に埋め尽くされ、一瞬ごとに蠢いて、なんらの意味をも帯びることなく存在していました。

 

 自分が息を飲む音が聞こえます。

 私は動物的に目線を動かしました。

 

 色がありました。

 色がありました。

 色がありました。

 色がありました。

 色がありました。

 色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。色がありました。

 色がありました。

 

 私は新しいことを知りました。


 それを表現する語彙はいまだ私の裡になく、あえて代替するならば――それは吐き気と呼ばれるものでした。

 世界は色に満ちていました。全ては色で埋め尽くされていました。色の無い部分など存在しませんでした。

 なにもかもがべっとりと彩色されていました。

 名前もつけられない無数の色を前にして、私にできることなど何もありません。

 私は、私の脳は、私のこころは、それに立ち向かえるほど強くはありません。

 美しい、汚らわしい、そのような概念は世界の前に無力で無意味でした。そこにはあまりにも、あまりにも多くの色がありました。

 目を塞ぎます。色がありました。え。瞼の向こうで、色が眼球の裏側からちろちろとはいずって昇ってくるのを感じます。じろりじろりと虹彩に。届いてしまう。ああ。意識を飛ばせば。飛べ、飛んでしまえ、失神してしまえ。色があります。おかしなことです。おかしなことです。現実逃避しかけた私の前に色があります。ああ。ゆっくりと目を開けます。細目で、慎重に。そこには色がありました。ああ。ああ。

 私は駆けだしました。制止しようとする先生の脇をすり抜けて、わき目もふらず――色がありました。ああ。色が。世界には色が満ち満ちている。あの場所以外は。私の400立方メートルの世界以外は。あの世界だけには、これまでと変わらない、静かで穏やかな美しさが残っているはずです。色で満ちています。目を閉じても、私には分かります。みちのりを記憶していたのはきっとそのためです。あそこが、私の居るべき世界なのです。


 息を切らせたのは初めての経験です。体力には全く自信がありません。ともあれ、わたしは戻ってきました。白と黒の世界。モノクロの世界。だけど、完全にはモノクロではない世界。私だけにはその美しさが分かる世界。

 テーブルに突っ伏して、目を瞑って、呼吸を整えます。口の中はからからになっていました。こんなにも汗をかいたのも初めてです。本当に気分が悪いですが、嘔吐すれば碌なことにならないのは明らかですので、何とか我慢します。そうしているうちに、目の奥にちらつく色もだんだんと薄れてきました。

 最後にひとつ深呼吸。だんだんと冷静になってきました。

 冷静になればなるほど、今しがた経験したものへの恐れが、胃袋のあたりから這い上がってきました。身の震えを抑えようと努力する気にもなれません。

 私はきっと、あの世界には耐えられない。これ以上あれを見せられたら、心が壊れてしまうでしょう。

 だけど大丈夫、わたしにはこの世界があるのです。この世界は私を守ってくれるはずです。私には逃げる先があったのですーーそれはなんという幸福でしょうか。

 そう確信しながら瞼を開きました。

 そうして口から漏れ出たのは、安心からではなしに、不可思議さへの嘆息でした。

 あの世界程攻撃的ではないにしろ、この部屋はさっきまでと明らかに違うのです。私の部屋であるのは間違いありません。それは確かです。しかし、部屋の色は、さきほどよりもずっと、余所余所しくなっていました。

 白と黒。それは変わっていません。だけど、私が知っているはずの白と黒は、こんなにも無機質で単調で冷淡な色ではありませんでした。きょろきょろと視線を振りながら、それが訪れるのを待ちかまえます。不意に訪れる瞬間。白ならざる白、黒ならざる黒。私だけに知覚可能な、ほんの些細な色の差異。

 それは、いつまでたっても訪れませんでした。世界は相変わらず冷たい面持ちで私を取り囲んでいます。

 私は笑いました。笑いこけて死んでしまうほどに笑いました。自分に何が起こったのかを理解したのです。私が見ていたもの、繊細なるもの、優しいもの、わずかなもの、それらは外の世界の絶対的な、真なる複雑性と暴力性の前にはまったくの零だったというわけです。もはやわたしには、かつて自分が見ていたものを見る力はありません。私の400立方メートルの世界は、無比なる単調性に埋め尽くされてしまいました。

 では、あの世界に出ていく?あそこに?あそこにはあんなにもたくさんの色があるのに?嫌です。いやです。絶対にいやです。無理です。不可能です。ありえないことです。私の脳はそんな風には出来ていません。耐えられません。もう嫌です。

 あははあははと笑い続けながら私は目を覆う透明の覆いに指を這わせました。ぎりぎりという摩擦音は何時まで経っても破砕音に変わってはくれません。頑なに目をつぶっていても、未だ色の痕跡が私の心を苛みます。脳の神経の一本一本に色が滞留して傷をつけているのを感じます。妄想です。私は狂ってしまいました。狂ってしまえば良かった。私はこの上なく理性的でした。だから、まだ色があるのです。いやだと叫んでも色はなくなりませんした。 

 寝台に体を突っ伏して、瞼をかたく塞ぎます。もう何も、視界に入れたくありません。なにもないところにだけ安息がありました。少なくとも、あの冷たいモノクロの世界よりかはましなように思われました。あの世界を善いものと感じることはもう出来ないでしょう。わたしはすっかり「メアリーの部屋」から追い出されてしまいました。

 その外側の世界を綺麗だと感じることも、私には出来ないでしょう。記憶に刻まれたあの光景は二度と私の意識から離れることは無いでしょう。たとえ月日が経って目と脳が世界に適合したとしても、あの経験は不意に私に襲い掛かって、すべてを台無しにするでしょう。

 ちゅうぶらりんにされてしまいました。私は居場所を失ってしまいました。どこにいても余所者であるか不適合者であるかのいずれかなのです。

 そうして私が得たものといえば、結局、この世界は無慈悲にも、美しくも汚くもなく、ただ茫漠と存在しているだけであるという、ごくあたりまえの知見だけだったのです。

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